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空鯨の意志

 通路が、広がった。


 円柱状の空間だった。直径は十メートルほど。壁全体に脈管が張り巡らされていた。橙色の発光が、深い。深すぎて、もう色ではなく、温度のようになっていた。


 中央に、太い柱があった。


 天井まで届く骨格の柱。その表面を、白い液体が筋状に流れていた。流れているというより、脈打っていた。どくん、どくん、どくん。これまで翔が、足の裏で、骨線で、寝台の木枠で、骨材の通路で聞いてきた鼓動の——元の場所が、ここだった。


 翔は立ち尽くした。


 カイが柱の前に立った。手帳を出した。いつもの動作だった。でも、手帳を開きはしなかった。ただ、手に握ったまま、柱を見ていた。


「これが」翔は声を出した。


「脈塔の核心部だ」カイが言った。


 ミナが翔の隣に立った。「分かる?」ミナは小さく言った。「この場所が、何をしてるか」


 翔は首を振った。


「空鯨が、この世界で起きたことを全部、ここに流し込んでる」ミナは言った。「記録層は見るための場所だけど、ここは全部が集まる場所。川で言うと、海みたいなところ」


 翔は柱を見た。白い液体が流れていた。あの液体の中に、ミミがいた瞬間も、ルウがいた瞬間も、きっとあった。翔が落ちてきた日も、訓練の夜も、月夜平原で砂柱が連鎖した時も、全部、あそこに流れ込んでいる。


 翔は一歩、近づいた。


 柱の白い液体が、翔の方へ、わずかに引き寄せられるように動いた。


 鼓動が、翔の身体を押した。


 押した、というのが正しい表現だった。足の裏からでも、全身からでもなく、鼓動が翔の身体の内側を押した。外側から来ていたはずのものが、今は、翔の内側から来ていた。


 それは、重かった。


 翔は膝をついた。膝をつくまでに、数歩分の時間があった。その数歩分の間、翔の身体を通り抜けていったのは、言葉ではなかった。映像でもなかった。ただの重さだった。


 焼け落ちた家の匂いがした。翔は火事を知らなかった。でも、嗅いだことのない匂いを、嗅いだと分かった。


 喉が渇いた。翔は三日食べていない人間の喉を知らなかった。でも、その渇きを、喉が思い出した。


 眼の奥が痛んだ。翔は、家族を失った人間の眼の奥を知らなかった。でも、その痛みを、眼が覚えていた。


 翔は吐き気がした。吐けなかった。吐くものが、身体の中になかった。身体の外にあった。鼓動の中にあった。鼓動が、全部だった。


「ソラ」ミナの声が、遠くから来た。「大丈夫」


 翔は膝をついたまま、ミナを見た。ミナは翔の横にしゃがんでいた。顔が、翔のすぐ近くにあった。霧に触れるような冷たい手が、翔の背中に、一度だけ触れた。


「これが、全部なのか」翔は言った。声がかすれていた。


「全部」ミナは言った。


「空鯨は、これを、ずっと」


「ずっと」


「俺が足の裏で聞いてた鼓動は」


 翔は、言葉を続けられなかった。続けなくても、もう分かっていた。これまで翔が、救われた、と思ってきた鼓動の一つ一つが、救いであった前に、誰かの喪失だった。豊原盟市の市場の下で鳴っていた鼓動も、訓練の夜の鼓動も、灰骨砦の骨線の倍返しも、月夜平原の砂柱も、共鳴路の七つの塔も、全部、誰かの失われた何かが、空鯨の中に流れ込み続けた結果として、そこにあった。


 翔は膝をついたまま、柱を見上げた。


「終わらせたい」翔は小さく言った。「空鯨は、終わらせたいんだな」


 ミナは答えなかった。


「憎んでるからじゃないんだな」翔は言った。「——疲れてるんだ」


 ミナが、少しだけ顔を上げた。


 翔は、その時、ミナの顔を見た。


 ミナは、泣いていなかった。泣く機能は、ミナの借りた顔には、なかった。でも、顔の形が、わずかに変わっていた。翔が知らない形だった。観測する顔ではなかった。待つ顔だった。翔が、それに気づくのを、待っていた顔だった。


 ずっと、待っていた顔だった。


 翔はミナを見た。


「ミナ、お前は」


 翔は、続けるべきだったかもしれない言葉を、そこで切った。切った方がいい気がした。次を言うには、この場所はまだ早かった。


 ミナも、何も言わなかった。


 カイが、柱の前で、手帳を外套にしまった。そのまま、動かなかった。観測していなかった。立ったまま、ただ、翔とミナを見ていた。


 鼓動が、続いていた。


 どくん。どくん。どくん。


 その鼓動は、もう翔にとって、これまでの鼓動ではなかった。同じ音なのに、同じ重さなのに、聞き取るものが、違っていた。


 翔は立ち上がった。


 膝が震えていた。柱に、まだ触れていない。触れていないのに、身体は、ほとんど触れたのと同じ重さを受け取っていた。


「カイさん」翔は言った。「俺は」


 カイは少し間を置いた。


「……分かっている」カイは言った。「話せ。ミナと」


 それだけだった。


 カイは手帳をもう一度出して、今度は広げた。開いたが、書かなかった。書かないまま、少し離れた壁際まで歩いて、翔とミナに背を向けた。背を向けるのが、カイのできる、唯一の礼儀だった。


 どくん。鼓動が、柱の中で、待っていた。


 ミナが、翔の前に立った。


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