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下降

 脈塔への入口は、聖都の地下三層に隠されていた。


 記録層よりも、さらに深かった。聖都の地図には載っていない石段だった。アルナが案内できる場所ではなかった。カイと、翔と、ミナだけが、そこへ降りていけた。


 石段は、三つの層に分かれていた。カイは言葉にしなかった。ただ、壁の質が変わるたびに、歩く速度をわずかに変えた。翔はその変化で、層の境目を知った。


 外層に入った。


 壁は白い石だった。脈管はまばらで、遠くを走る細い光の筋として見えた。空気は乾いていた。翔の耳が少しだけ痛んだ。気圧が違っていた。


 鼓動は、足の裏から来ていた。慣れたリズムだった。どくん、どくん。いつもの深さ、いつもの重さ。


 翔は歩きながら、ふと数え始めた。この鼓動に、何度救われてきたか。


 最初は、豊原盟市に落ちてきた日だった。市場の屋根を抜けて、地面に叩きつけられる直前、その鼓動の下に、翔は初めて気づいた。不気味だった。すぐに、慣れた。


 それから、訓練の夜。カイの家の床で、鼓動に呼吸を合わせた。髭紙が、初めて翔の手の上で浮いた。


 脈騎に初めて乗った日。シルバが後ろに翔を乗せた。鼓動が車体の骨線を走って、翔の背骨まで返ってきた。


 中層へ降りた。


 石段が骨材に変わった。壁も、床も、白い石から淡い象牙色の骨に変わっていた。脈管が増えた。光の色が、青白から橙色に傾き始めた。


 空気の密度が上がった。翔の呼吸が、一段階重くなった。


 鼓動が、足の裏だけではなくなった。膝の骨から、腰の骨から、少しずつ、内側へ入ってきていた。


 翔は数え続けた。


 灰骨砦で、地面を踏んだ瞬間。骨線の振動が、倍になって返ってきた。鎧の内側で、翔の生波が初めて鼓動と同期した夜だった。


 月夜平原で、三日間かけて砂地の深層に織り込んだ髭紙が、鼓動の合図一つで一斉に応えた時。砂柱が連鎖して立った。敵陣が崩れた。あれは翔の手柄のようでいて、翔の手柄ではなかった。鼓動が、そこにあったから、起きたことだった。


 共鳴路を再接続した時、七つの塔が同時に鳴った。その全部を、翔は足の裏で聞いた。


 カイが、一度、立ち止まった。


 翔の足も止まった。


 カイは振り返らなかった。口を開きかけた気配があった。でも、言葉は出なかった。カイはもう一度、前を向いて歩き始めた。


 その時、翔はカイの左手を見ていた。壁に、そっと触れていた。指を立てる触れ方ではなかった。掌全体で、壁の脈管の一本を、押さえるように触れていた。確かめる触れ方ではなかった。覚えているものに、もう一度触れる触れ方だった。


 ミナが翔の隣で、ほんの一拍、カイの背中を見た。それから、また前を向いた。翔もミナの視線を追わなかった。追うべきではないと、どこかで分かっていた。


 深層へ降りた。


 通路が細くなった。一人分の幅しかなかった。脈管が壁の中でほとんど触れ合うほど密集していた。橙色が深くなっていた。もう白い光はどこにもなかった。


 鼓動が、全身から来ていた。壁から、天井から、空気そのものから、どくん、どくん、どくん。


 翔は数えるのをやめていた。数える必要がなかった。今、体の全部が、鼓動に包まれていた。


 数えた全部の記憶が、一度に戻ってきた。最後に戻ってきたのは、ミミの夜の天幕だった。ミミの灰色の耳が、頭の上で微かに揺れていた夜。その夜の空気を、鼓動が覚えていた。翔の体ではなく、空鯨が、覚えていた。


 どくん。


 どくん。


 鼓動が、止まった。


 一瞬だった。昨夜と同じ空白。寝台の木枠から来ていたあの空白が、今は骨材の通路から来ていた。


 翔の足が止まった。ミナが隣で止まった。


 カイも止まった。今度は振り返った。


「感じたか」


「……全部から来てる。それが、一瞬、消えた」


 カイは少し間を置いた。翔を見ていた。振り返った時の顔のまま、しばらく動かなかった。


「ここから先は、空鯨の骨格の内側だ」カイは言った。「外側とは感触が違う」


 それだけ言って、カイは前を向いた。


「ミナ」翔は前を向いたまま、小さく言った。


「うん」


「この鼓動、覚えていていいかな」


「覚えていて」ミナは即答した。「帰っても、覚えていて」


 翔は頷いた。歩き続けた。


 ミナが隣にいた。ミナの足音は、いつものように、しなかった。でも、確かに、翔の隣を歩いていた。


 カイの歩調が、これまでより、ほんの少しだけ緩んでいた。翔が遅れないように、ではなかった。カイ自身が、ここから先を、一歩ずつ確かめるように歩いていた。いつか同じ歩調で、同じ場所を、別の誰かの隣で歩いたことがある——そういう歩き方だった。


 通路の先に、何かが広がり始めていた。


 脈塔の本体ではなかった。脈塔の手前にある何かだった。


 石段は、ここで終わっていた。


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