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最後の夜

 聖都の宿は、聖塔の外縁にあった。


 白い石造りの建物で、部屋の窓からは聖塔の玻璃が見えた。夜になると、玻璃が夕方の橙をまだ僅かに残したまま、月の光に青白く変わっていく。翔はその境目の色を、部屋の窓辺でしばらく眺めていた。


 一階の食堂に降りると、五人分の席が用意されていた。


 翔、ミナ、アルナ、カイ、シルバ。いつもの顔ぶれ——のはずだった。翔は席につきながら、テーブルを一度だけ見渡した。椅子は五つだった。六つではなかった。宿の主人が悪いわけではない。注文したのは翔たちの方で、自分たちで五つと決めた。


 それでも翔には、一つ足りない気がした。


「……ミミが」翔は言いかけて、途中で飲み込んだ。言いかけたことが、全員に伝わった。誰も何も言わなかった。シルバが、水差しから自分の杯に水を注いだ。注ぎ方がいつもより丁寧だった。カイが手帳を外套にしまった。いつもは食事中でも開いている手帳を、今夜は閉じた。


 アルナが最初に口を開いた。「いただきましょう」


 食事が始まった。


 焼いたパンと、脂ののった川魚が出た。骨線管を遡ってくる魚だと、宿の主人が一言だけ添えて去っていった。翔は一口食べた。味がよく分からなかった。分からないなりに、顎を動かした。


 ミナが向かいに座っていた。ミナは食べなかった。食べられないのは、初めから分かっていた。でも今夜は、ミナの前にも皿が置かれていた。アルナが頼んだのだろうと翔は思った。聞かなかった。確かめるまでもなかった。ミナは一度だけその皿に目を落とし、すぐに視線を逸らした。皿はそれから、最後まで動かされなかった。


「シルバさん」翔は杯を置いた。「シルバさんは、俺たちと一緒には行かないんですよね」


 シルバは水を一口飲んだ。「行かない」


「……理由を、聞いてもいいですか」


 シルバは杯を置いた。指が、杯の縁を一度だけなぞった。いつか、脈騎の側面を叩いた時と同じ触れ方だった。


「俺の生波は、脈塔の奥には合わない」シルバは言った。「カイが言った。深層までは、お前とミナで降りるのが一番いい。俺が降りても、扉は開かない」


 シルバはそれ以上は言わなかった。シルバは、扉を開けないからではなく、扉を閉じないために、地上に残るのだ。翔が戻ってきた時、誰かが聖都の側で合図を返さなければならない。シルバはその役を、自分で引き受けていた。


「分かりました」翔は言った。


 シルバは頷きもせず、もう一度水を飲んだ。


 食事が進み、シルバが先に席を立った。「明日、城壁の上にいる」と一言だけ残して、食堂を出ていった。


 カイも少し遅れて席を立った。厨房の入口で、宿の主人と短く言葉を交わしていた。主人は皺の多い手で、小さな包みをカイに渡した。カイは何も聞かず、外套の内側にしまった。主人も何も言わなかった。以前にも同じやり取りをしたことがある、そういう渡し方だった。翔たちには背を向けたままだった。意図的に、背中を向けていた。翔にはそれが分かった。


 テーブルには、翔とアルナが残った。ミナは少し離れた窓辺に立っていた。翔の視界の端にいた。


「蒼翔さん」アルナが言った。


 翔は顔を上げた。アルナの顔は、城門前で見せるものとは違った。王女の顔ではなかった。灯りが低かったせいかもしれない。あるいは、単に、今夜はそうしたかったのかもしれない。


「はい」


「……わたし、あなたにまだ、一度もお礼を言っていません」


 翔は目を伏せた。「お礼を言われる理由がないです」


「ありますよ」アルナは少し間を置いた。「灰骨砦で。月夜平原で。あなたがいたから、わたしは選ぶことができた。諦める選択を、わたしではない誰かに聞いてもらえた」


 翔は、アルナが言っているのが感謝ではないことに、言葉より先に気づいた。


「王女さまに言うことじゃないですけど」翔は言った。「それ、俺に言うことじゃなかった気がします」


「分かってます」アルナは小さく笑った。「でも、あなたに言うしかなかった。カイ様には、まだ話せないことだったので」


 翔は頷いた。アルナもそれ以上は言わなかった。二人は少し沈黙した。その沈黙が、どちらにとっても苦しくなかった。


「帰れますように」アルナが、静かに言った。


 翔は目を上げた。アルナは翔を見ていなかった。自分の杯を見ていた。王女ではなかった。


「ありがとうございます」翔は言った。


 部屋に戻った。翔は寝台に横になった。眠れなかった。


 ミナは部屋の隅に立っていた。いつものように、壁の中に半分溶け込んだような立ち方だった。翔は天井を見ていた。木目が、ほんの少しだけ橙色の脈光を帯びていた。聖都のどこかで、脈管が生きている。その光が、壁を通って、部屋の天井まで届いていた。


 どくん。


 足の裏ではなく、寝台の木枠から、鼓動が伝わってきた。


 どくん。


 どくん。


 翔は目を開けた。


 鼓動が、止まっていた。


 一瞬だった。本当に、一瞬。時間にしたら、一拍分よりも短かった。でも、止まった。翔の体に慣れた鼓動のリズムが、そこで一度、途切れた。


 翔は起き上がった。


「ミナ」


「……うん」


 ミナの声は、普段よりも少しだけ遠かった。翔はミナを見た。ミナは壁際に立ったまま、動いていなかった。表情は変えなかった。変えないようにしている顔だった。


「今のは」


「うん」


「何だったんだ」


 ミナは少しだけ間を置いた。


「疲れてるの」ミナは言った。「空鯨が」


 翔はそれ以上聞かなかった。聞く必要がなかった。鼓動が、また戻っていた。どくん、どくん。いつものリズムで、床を、木枠を、翔の体を、満たし始めていた。でも翔は、さっきの一瞬の空白を忘れなかった。覚えておこうと思った。寝台の木枠を握っていた手が、冷たくなっていた。


 翔は寝台に横になった。眠らないまま、夜明けを待った。


 どくん。どくん。鼓動は、続いていた。


 続いていたが、翔は、もう一度止まる瞬間を、ずっと待ち続けていた。


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