脈塔
共鳴路再接続の翌日、一行は王宮の賓客扱いを辞退し、聖塔外縁の宿に移っていた。
政治的距離を保つためのカイの判断だった。翔には、その移動の理由が、完全には呑み込めなかった。ただ、王宮にいたら、自分が「名のある落下者」として刻まれる作業が、毎日少しずつ進んでいくのだろうと思った。宿に移って良かった、と翔は感じた。王宮の中に刻まれるより、宿で無名のまま過ごす方が、翔には自然だった。
午後、翔は一人で街に出た。
共鳴路が繋がった聖都は、昨日までとは少しだけ変わっていた。
骨線に沿って、細い光の筋が走っていた。日中はほとんど見えないが、建物の陰に入ると、石畳の継ぎ目に、橙色の光が薄く灯っているのが分かった。聖都の人々は、その光を特別視しなかった。いつもの街並みに戻った、という顔で、いつもの速度で歩いていた。
でも翔には、光の中に自分が混じっているのが分かった。
昨日、第七聖塔の頂点で、翔は自分の波長を台座に注いだ。その波長が、今、この街のあちこちを、骨線を通じて走っていた。翔は自分の一部が、聖都の地下の骨の中で、他の六つの塔の波長と混じり合って、街を明るくしているのを、足の裏で感じていた。
翔はそれに、奇妙な気持ちになった。
誇りでも、恐れでもなかった。もっと静かな感情だった。ここに、自分が残る、ということの、物理的な実感。翔がこの街から去っても、共鳴路の光の中には、翔の波長が残り続ける。次に誰かが共鳴石を入れ替える時まで、それは続くだろう。翔は、この街の片隅に、自分の小さな署名を書き込んだようなものだった。
広場の端で、翔は足を止めた。
子どもが、泉の前を通り過ぎていった。昨日の子どもだったかもしれないし、別の子どもだったかもしれなかった。翔は目で追わなかった。目で追うと、見ないふりをする母親たちの仕事を、一人分増やすことになる。
ミナが翔の隣に立っていた。
「ソラ」ミナが言った。
「うん」
「この街、残ろうと思ったら、残れるよ」
翔は、ミナを見た。
ミナは翔を見ていなかった。聖都の街並みの方を見ていた。その横顔が、昨日の共鳴路の頂点で見せた「触れている顔」の、少しだけ薄いバージョンだった。観測から降りかけている顔。でも、まだ完全には降りていない顔。
「残れるか」翔は言った。
「残れる」ミナは言った。「あなたの波長は、この街の共鳴石の代わりになれる。ずっと。必要とされる限り」
翔は、ミナがそれを今、ここで言う意味を考えた。残ることを勧めているのか、残るという選択肢を提示して、翔の判断を見ているのか。たぶん、後者だった。ミナは今日、初めて、翔の選択に関わる情報を、選択の手前で差し出していた。
翔は、少し間を置いた。
「残ったら」翔は言った。「俺は、言えなかった言葉を、一生、言えないままになる」
ミナは、それ以上、続けなかった。
「……うん」ミナは小さく言った。
翔もそれ以上、続けなかった。残るか帰るかの選択は、今日、ここで決めるものではなかった。でも、翔の中では、既に、決まりかけていた。ミナは、それを感じ取っていた。感じ取って、止めなかった。止めるために選択肢を出したのでは、なかった。
日が、少しずつ傾き始めていた。
翔は広場を後にした。
宿の方へ戻る道すがら、聖都の人々がまた静かに行き交っていた。翔はその中に混じって歩いた。今日はほんの少しだけ、自分が聖都に馴染んでいる気がした。馴染むことを選んだというより、街が翔のことを、昨日までより一歩だけ受け入れた、という感触だった。共鳴路の光が、翔の波長を認めた、その結果かもしれなかった。
宿の前で、シルバが壁に背を預けていた。
翔が近づくと、シルバは一度だけ翔を見て、また目を逸らした。それだけで充分だった。シルバは翔が戻ってきたことに気づいていた。気づいていたが、話しかけなかった。これから翔が決めることを、シルバは自分が干渉するものではないと、はっきり分けていた。
翔は宿に入った。
夕食は摂らなかった。
食べる気が起きなかった。ミナは部屋の隅に立っていた。今日は、翔がほとんど口を聞かないのを、ミナも黙って受け入れていた。明日以降の話は、二人ともしなかった。しないことが、今日の残り時間の、唯一の過ごし方だった。
夜になって、カイが翔を呼び出した。
二人だけだった。聖都の外縁、城壁の上。月が出ていた。
「脈塔に行く」
カイは言った。
「聖都の地下、最深層にある。空鯨の心臓に最も近い場所だ」
翔は黙って聞いた。
「そこに、お前が帰る方法があるかもしれない」
翔の息が、一瞬止まった。「……帰る方法」
「お前がここへ落ちてきた時と逆の現象を、人為的に起こす可能性がある。脈塔深層の骨線密度は、この世界のどこよりも高い。お前の波長とミナを組み合わせれば、干渉の扉を開けられるかもしれない」
「かもしれない、か」
「断言はできない。だが私の観測では、可能性がある」
カイは翔を見た。
「行くかどうかは、お前が決めることだ」
翔はしばらく黙っていた。月を見ていた。
月は、豊原盟市の月とも、灰骨砦の月とも、月夜平原の月とも、違う位置にあった。聖都の頸骨帯から見上げる月は、翔がこの世界に来てから見たどの月より、高い場所にあった。その月を、翔は長く見た。カイもしばらくは、翔が空を見るのを、見ていた。
「帰ったら」
翔は言った。
「この世界のことを、誰も信じない」
「おそらく」
「ミナのことも、言えない」
「おそらく」
「カイさんのことも、ミミのことも」カイは答えなかった。
「……それでも、帰りたいか」カイが聞いた。珍しかった。カイが「したいか」と聞くのは。
翔は空を見た。
カイが、翔より先に口を開いた。「言えなかった言葉があるな」
翔は息を止めた。カイは月を見たままだった。観測の声だった。責めるでもなく、促すでもなく、ただそこにあるものを言い当てている声。
「……はい」
「それで充分だ」カイは頷いた。
カイは少し間を置いた。月を見たままだった。手帳は外套の内側にしまわれたままで、今夜は一度も開かれていなかった。カイが一晩、手帳を開かずに人と話すのは、翔が知る限り、初めてだった。
それから、翔の方は見ずに、低い声で言った。
「お前には、そうなってほしくない」
翔は、その言葉を、すぐには呑み込めなかった。
誰のことを、カイは指しているのか。翔は、思い当たる者の姿を、頭の中でいくつか探した。ルウだった。一番先に浮かんだのは、ルウだった。泉の前でカイが語った、髪を後ろで結んだ女の、最後の言葉を折り畳んで置いていった人の、姿だった。
「……はい」翔は答えた。
答えたが、翔はこの時、カイの言葉の半分しか理解していなかった。残り半分の意味は、翔にはまだ、形として立ち上がっていなかった。カイもそれを知っていた。知っていて、これ以上は言わなかった。十年前、カイが同じ言葉を別の誰かに言えなかった、という事実まで、翔はまだ届いていなかった。
「ミナは」
翔は言った。
「帰ったら、ミナはどうなる」
カイは答えなかった。翔は月を見た。
「……ミナに、聞かないといけないですね」
「そうだ」
翔はカイを見た。「カイさんは、脈塔に何を観測しに行くんですか」
カイは少し間を置いた。
「空鯨の心臓の近くなら」
カイは言った。
「ルウの最後の記録が、残っているかもしれない」
翔は何も言わなかった。カイも言わなかった。二人で、月を見ていた。
月の位置は、カイが話し始めた時より、僅かに西へずれていた。時間は流れていた。明日が近づいていた。
どくん。空鯨の鼓動が、静かに響いた。




