共鳴路
翌朝、カイが全員を集めた。
朝の風は冷たかった。聖都の外縁で、七本の聖塔が、昨日までよりも静かに立っていた。翔にはその静けさが、以前とは違う種類のものに思えた。前日までは、聖塔は単に黙っていた。今日の聖塔は、黙りながら、翔を待っているように見えた。
七本の聖塔の中で、第七聖塔だけが、頂点の共鳴石が砕かれたままだった。鋼冠軍が聖塔共鳴路を遮断した時に破壊したものだ。
「共鳴路の再接続には、七塔が同時に鳴る必要がある」カイは言った。「六塔はすでに整備されている。残りはここだけだ」
「砕けた共鳴石を、どうするんですか」
アルナが聞いた。
「代替できない。同等の共鳴石は存在しない」
カイは第七聖塔の頂点を見上げた。
「だが」
カイは翔を見た。翔は少し間を置いた。「俺がやるんですか」
「お前の波長が、共鳴石の代替になれるかどうか、試す」
「なれなかったら」
「なれない」カイは端的に答えた。
翔は第七聖塔を見上げた。高かった。頂点まで、城壁の三倍はある。「登るんですか」
「登る」
「足場は」
「ない」翔は息を吐いた。
息を吐いた時、翔の視線の端に、アルナがいた。
アルナは翔の方を見ていた。前夜、窓辺で、個人の顔と王女の顔の境界を翔に見られた人だった。朝の光の中で、アルナはもう王女の顔をしていた。でもその顔の奥には、昨夜の頭を下げた礼の重さが、まだ残っていた。
アルナは、翔と目が合った瞬間、目を逸らさなかった。逸らさなかったが、頷きもしなかった。ただ、翔を見ていた。見ていることで、昨夜の夜の重さを、翔が一人で背負わないで済むようにしていた。
翔は、アルナから目を外した。外して、カイの方を見た。
「分かりました」翔は言った。
鎧を纏った。脚部増幅を最大まで上げた。鼓動に呼吸を合わせた。どくん。踏んだ。壁面に指先が食い込む。骨材の表面に、螺旋の刻印が熱を持って反応した。
登り始めた。
一メートル目で、翔は分かった。この壁は、壁ではなかった。空鯨の骨格の一部だった。指先が食い込む感触の下で、骨の繊維が、鼓動に合わせて、僅かに膨張と収縮を繰り返していた。掴むたびに、壁が応えた。
五メートル目で、風が来た。聖都の平面で感じていた風とは違った。上空の風だった。塔の角で剥がれるように吹く、予測しにくい風。翔の体が一度、横に流されかけた。鎧が踏み止まった。螺旋の刻印が、鎧の内側で熱を持ち、翔の汗を蒸発させた。
十メートル目で、翔は下を見た。
見ないでおこうと思っていた。でも、見た。下に、アルナがいた。アルナは翔を見上げていた。翔が見下ろしたことに、気づいていた。気づいても、何も言わなかった。翔はそれで、下を見たことを、後悔しなかった。落ちるわけにはいかなかった。下に、昨夜の礼を受け取った王女が立っていた。
翔は目を上げて、また登った。
二十メートル目で、腕が、鳴りを上げ始めた。筋肉が限界に近づいているのが分かった。それでも止まらなかった。止まれなかった。止まると、鎧の螺旋の刻印の熱が冷える。冷えると、壁の骨の繊維との同期が崩れる。同期が崩れると、落ちる。翔は止まらないことだけを選んだ。
どくん、どくん。鼓動が、下から伝わってくる。空鯨の呼吸が、壁面を通じて翔の全身に届いていた。
頂点に辿り着いた。砕けた共鳴石の台座があった。欠片が、台座の上に散らばっていた。翔は台座の中央に立った。風が、四方から吹いてきた。天風聖都と、空鯨の背骨帯が、眼下に広がっていた。
「カイさん、聞こえますか」
下から、ミナの声が届いた。翔の耳にだけ届くような、静かな声で。
「聞こえる」
「台座に両手を当てて。空鯨の鼓動を、全部流して」
「ミナ」
「あなたの波長が、共鳴石の代わりになれるか、試す。でも一人ではできない。わたしも合わせる」
翔は台座に両手を当てた。冷たかった。砕けた石の欠片が、掌に刺さった。痛かった。でも離さなかった。
足元から鼓動が来た。どくん。それを全部、手のひらに集めた。台座が、震えた。欠片が、光った。
ミナの声が、翔の耳の奥に届いた。「一緒に、鳴らして」どくん。翔は鳴らした。自分の鼓動を、空鯨の鼓動を重ねて、台座に叩き込んだ。
第七聖塔が、鳴った。低く、深く、腹に響く音だった。その音が周囲の六塔に伝わった。六塔が応えた。七つの塔が、同時に鳴り始めた。共鳴路が、繋がった。
翔は台座から手を離した。眼下に、光の筋が広がっていくのが見えた。聖都全体が、骨線に沿って光り始めていた。
「できた」翔は小さく言った。「できたぞ!」
下から、アルナの声が聞こえた。それからシルバックの連中の声が。ルーの声が聞こえた。笑っていた。
カイが下から見上げていた。手帳は開いていなかった。
広場の奥で、アルナは城門の前に立っていた。
聖都の城壁に沿って、光の筋が伸びていくのを見ていた。アルナの目には、光の筋ではなく、嶺都皇邦と聖都の交渉が結ばれた証が見えていた。今日の成功で、交渉は成立した。明日から、この街の後ろ盾が、嶺都皇邦に加わる。アルナは深く息を吐いた。外套の下で、手が少しだけ震えていた。震える手を、アルナは誰にも見せなかった。
脈騎の待機場で、シルバは地面に片手を置いていた。
骨線が、発光している。発光の波が、脈騎の骨材まで到達していた。シルバの掌の下で、地面が低く唸った。シルバは何も言わなかった。ただ、掌を地面から離さなかった。
第七聖塔の根元で、ルーは翔の登った壁を見上げていた。
頂点の翔が、台座から手を離したところだった。ルーはその瞬間、唇の端を少しだけ動かした。笑った、のではなかった。姉が登れなかった壁の一つに、この新入りが登った、そういう顔だった。ルーは手の中で、一度、拳を握って、開いた。
光が、聖都全体に行き渡った。
ミナが翔の隣で、同じように眼下を見ていた。
光が広がっていく方向を、目で追っていた。その横顔が、今まで翔が見たことのない表情をしていた。見ているだけではない顔。触れている顔だった。
ミナは普段、観測する側の顔をしていた。街を見る時も、人を見る時も、時間を見る時も、ほんの少しだけ離れた場所から見る、という姿勢がその顔に定着していた。今日、その姿勢が、ほんの少しだけ崩れていた。光の広がりの中に、ミナは含まれていた。観測する側にいない顔だった。
翔は、その横顔を一度だけ見て、それから、また眼下を見た。
ミナが観測者の位置から、ほんの半歩だけ降りた瞬間を、翔は一度、目撃した形になった。目撃したことを、この時の翔は、正しく理解しなかった。だが体の奥では、何かが変わったことを、翔は感じていた。ずっと後で、脈塔でミナが観測者の顔を完全に脱ぐ瞬間が来た時、翔はこの共鳴路の頂点の、風の中で見たミナの横顔を、思い出すことになる。
どくん。空鯨の鼓動が、天風聖都全体を一度、深く揺らした。




