王女の選択
扉を叩く音がしたのは、夜が深くなってからだった。
翔はまだ起きていた。窓の外の聖塔が、夜の青白に変わっていた。ミナは部屋の隅に立っていた。昼の広場で一度だけ俯いたあと、ミナはずっと黙っていた。翔はその黙に合わせて、部屋の中の空気を静かに保っていた。
三度、軽く叩く音。
翔は扉を開けた。
アルナだった。昨夜の扉枠と、少し違った。外套を肩に掛けていない。王女としての装飾を、ほとんど外していた。一人で歩いてきた、という気配があった。
「……お時間をいただけますか」
「どうぞ」翔は扉を開けたまま、少しだけ下がった。
アルナは、今日は中に入った。扉枠の外で話した昨夜とは違った。
アルナは部屋の真ん中で、一度だけ、立ち止まった。
翔の方を振り返らなかった。窓の方を向いたまま、しばらく動かなかった。その短い間、翔にはアルナの背中が見えていた。背中は、アルナがいつも見せる背中より、わずかに重かった。深く息を吸っている背中だった。吸うことに、意識の半分を割いている人の背中だった。内廷から運んできたものの重さが、そこに乗っていた。
それから、アルナは動き出した。
翔は中央の椅子を示そうとしたが、アルナは窓辺に置いてあった小さな腰掛けに座った。翔と向かい合う位置ではなく、翔の椅子から直角の方向。二人は同じ空間にいたが、視線は同じ窓の外を向いていた。
翔も、自分の椅子に座った。
アルナはしばらく、窓の外を見ていた。聖塔の玻璃の青白さが、アルナの頬を微かに照らしていた。
翔には、アルナが何を見ているのかが、正確には分からなかった。玻璃の方を見ているのか、玻璃の向こうの暗闇を見ているのか、それとも、何も見ていないのか。目の焦点が、どこにも合っていなかった。しばらく、というのは、翔が数えるなら、三十ほど数えられる長さだった。翔はその間、自分の呼吸の回数を数えそうになって、やめた。数えてしまうと、アルナの沈黙の長さが、数字になって自分の目に入ってしまう気がした。
「今夜、正式に決まりました」アルナは言った。
翔は聞いた。続きを待った。
「聖都側から、要求がありました。共鳴路を再接続するなら、嶺都皇邦の参戦を、この街は認めると」
翔は少し間を置いた。「共鳴路を繋ぐ技術を持っているのは、カイさんと、俺だけです」
「はい」
「それで、俺を、交渉材料にしたんですね」
アルナは窓の外を見たまま、頷いた。
「はい」
それだけだった。アルナは言い訳をしなかった。状況を説明もしなかった。ただ、「はい」と認めた。翔は、その認め方が、昨夜の「頼むことになります」とは全く違う重さを持っていることを、即座に分かった。昨夜は予告だった。今夜は事実だった。
「……失敗したら」翔は聞いた。
「失敗した場合、わたしたちは賓客として扱われなくなります」アルナは言った。「嶺都皇邦と聖都の間の交渉は、そこで切れます。鋼冠軍の先鋒が、既に嶺都皇邦の北境に達しているとの報が、今夜入りました。聖都の後ろ盾がなければ、わたしたちは、単独でそれに向かうことになります」
「成功したら」
「成功した場合、あなたは聖都の記録に、名のある落下者として刻まれます」
翔は、その言葉を聞いて、一度だけ笑いそうになった。
名のある落下者。昨日の朝、記録層で翔が見てきた、ミナの背中越しの二十三人。あの二十三人のうちの誰も、名は刻まれていなかっただろう。翔はそれを、アルナに言いたかった。でも、言わなかった。言っても、アルナを追い詰めるだけだった。アルナは今夜、既に自分を追い詰めた上で、ここに来ていた。
「アルナさん」翔は言った。
「はい」
「俺に謝りに来たんですか」
アルナは少し間を置いた。それから、小さく首を振った。
「謝りに来たのではありません」アルナは言った。「謝る資格が、わたしにはない。謝って許されれば、わたしは少しだけ楽になります。でも、それは、あなたに何も返していません」
アルナは窓の外を見たままだった。
「頼みに来ました」アルナは言った。「謝らないで、頼みに来ました」
翔は頷いた。
それで、充分だった。アルナがここで、頭を下げて「申し訳ありません」と言っていたら、翔は引き受けながらどこかで、納得できない自分を抱えることになったかもしれなかった。アルナはそれをしなかった。謝らずに頼む、という最も重い方を選んだ。
「やります」翔は言った。
アルナは、初めて、翔の方を見た。
向き直ったわけではなかった。顔だけを、窓の外から、翔の方へ傾けた。ほんの少しの角度だった。でもその角度で、アルナの目が、初めて今夜、翔の目と合った。
アルナは、頷いた。
「ありがとうございます」
アルナは立ち上がった。窓辺の腰掛けから、ゆっくりと。
それから、深く、頭を下げた。
王女の礼ではなかった。昨夜、扉枠の外でした軽い会釈とも、違った。深く、しかし短い一礼だった。王女が臣下にする礼ではなく、一人の人間が、別の一人の人間に、大きな借りをした時にする礼だった。アルナはそれを、一度だけ、翔の前でした。
頭を上げた時、翔は、アルナの顔を一瞬だけ見た。
見てはいけないものを見た、と翔は咄嗟に思った。アルナの顔には、個人の疲れと、王女に戻る直前の身構えが、どちらもまだ完全には分かれていない瞬間があった。境界の、一秒だった。翔は目を逸らした。
アルナも、翔が目を逸らしたことに気づいた。気づいて、そのことを咎めなかった。
それから、扉の方へ向かった。振り返らなかった。扉を閉める時も、ほとんど音を立てなかった。
部屋の中が、急に静かになった。
翔は座ったまま、しばらく動かなかった。
ミナが、部屋の隅から、翔の方へ一歩近づいた。
「ソラ」ミナは言った。
「……うん」
「さっきのアルナの礼、王女の礼じゃなかった」
「分かった」
「ただの人間の礼だった」
翔は頷いた。
「……だよな」
どくん。鼓動が、聖都の地下から、深く響いた。翔は、明日、この鼓動の上で、壁を登ることになる。登りながら、アルナが今夜した礼のことを、どこかで思い出すだろうと、翔は思った。




