不在を歩く
翔が庭園を出て王宮に戻ると、広間に一行が集まっていた。
カイが手帳を畳んで、短く告げた。「明日、共鳴路を接続する」。質問は出なかった。シルバは窓際で片肘を柱に預けていた。ルーは器を手に持ったまま、小さく頷いた。アルナが護衛に耳打ちしてから、翔を見た。翔は頷き返した。
「午後、少し、街を見てきていいですか」
カイは翔を一度見た。短い視線だった。「日が落ちるまでに」。翔は頷いた。
午後の聖都は、朝とは違う静けさだった。
市場には人が出ていた。でも、声は小さかった。商人が客を呼ぶことは、ほとんどなかった。値切りの応酬もなかった。買う者が指を差し、売る者が頷く。銀貨が一枚、木の盆に置かれる。商品が包まれて、渡される。その全部が、三十秒ほどの静寂の中で完結した。
翔はその静けさの中を歩いた。
豊原盟市の市場なら、今頃、荷甲虫の鳴き声と、店主たちの怒鳴り声と、子どもの泣き声とが、一つの大きな塊になって響いていた。あの街では、買い物をするには声を張る必要があった。張らないと、聞こえなかった。ここでは、声を張ると、周囲から浮いた。浮くと、見られた——正確には、見ないふりをされた。見ないふりをされることは、この街で最も深く見られることだった。翔はそのことを、一日半で既に学んでいた。
歩きながら、翔はふと考えた。
ミミが、ここにいたら、何と言っただろうか。
豊原盟市でミミと初めて会った朝のことを、翔は思い出した。あの時ミミは、翔の横に荷甲虫の荷台から飛び降りてきて、何か一つ、角度を外した言葉を投げてきた。翔はそれを、時々うるさく感じて、時々助けられた。
ここの静けさの中で、ミミなら、どうしただろう。
たぶん、黙らなかった。翔の隣を歩きながら、誰にも届かない声で、でも確かに翔には届く声で、言い続けただろう。そして翔は、周りの聖都人に迷惑だと思いつつ、どこかで、ミミの声があることで、この街が少しだけ呼吸しやすい場所に変わったと感じただろう。
ミミは、いなかった。
翔は市場の端を歩きながら、自分が今、ミミを連れて歩いていることに気づいた。連れて、というのは正しくなかった。ミミは翔の横にはいなかった。でも、翔の耳の中で、ミミが何を言うかを、翔が代わりに想像していた。想像することが、連れて歩くことだった。
翔はこれを、これからもずっと続けるのだろうと思った。
聖都の市場で、豊原盟市の酒場で、灰骨砦の天幕で、月夜の焚き火で、翔はこの先、ミミが生きていた場所と、生きていなかった場所の、両方を歩くことになる。その全部で、翔はミミが何を言うかを、自分で想像するのだろう。想像が足りなくなる日が来るかもしれない。でも、しばらくは、足りる。
ミナが翔の隣を歩いていた。何も言わなかった。翔がミミのことを考えていることを、ミナは知っていた。知っていて、黙っていた。ミナが黙ってくれることが、今日は何より助かった。
広場に出た。
中央の泉の前に、子どもが一人、座っていた。七つか八つくらいの、聖都人らしく整った服を着た女の子だった。脈水を指でかき混ぜていた。誰かを待っているというより、ただ、そこにいた。
翔は広場を横切ろうとして、子どもの視線が自分に向くのを感じた。
子どもは、翔を見ていた。見ながら、まだ脈水をかき混ぜていた。手は水の中、目は翔の方。訓練されていない年齢だった。翔はその視線を、避けようとして、避けなかった。一度くらい、避けないでいよう、と翔は思った。この街で、避けないで誰かと目を合わせるのは、子ども相手だけだった。
翔は子どもの数歩手前で足を止めた。
「こんにちは」翔は言った。
子どもは頷いた。水から手を出して、服の裾で拭いた。
「……お姉ちゃん、どこに行ったの」
翔は息を止めた。
子どもの声は、問い詰める声ではなかった。ただ、当然そこに在るはずのものが、無いから聞いている、という声だった。翔は、誰について聞かれているのかを、すぐには判別できなかった。ミミのことか。ミナのことか。この子どもは、翔が昨日この近くを通った時、翔の一歩後ろを歩いていた白い影を、見たのかもしれない。あるいは、翔が今、市場を歩きながら自分で想像で連れて歩いていた灰色の耳の少女の気配を、敏感に感じ取ったのかもしれない。
翔にはどちらか決められなかった。
でも、答えは、翔の胸の中に、既にあった。
「……遠くに行ったんだ」
子どもは少し首を傾げた。遠くに、を理解しようとする顔だった。翔の答えを、疑うでもなく、信じるでもなく、ただ、受け取った。それから、頷いた。
「そっか」
それだけだった。
子どもはまた脈水に手を戻した。翔は少し待ったが、子どもはもう翔を見なかった。翔は歩き出した。広場の反対側まで歩いた。振り返ると、子どもはまだ泉の縁に座って、脈水をかき混ぜていた。
広場を抜けた細い路地で、翔は立ち止まった。
ミナが翔の隣で、一度だけ、俯いた。
長くはなかった。二、三秒だった。俯いて、それから顔を上げた。何も言わなかった。翔も聞かなかった。
でも翔には、ミナが何のために俯いたのかが、ほんの一部、分かった気がした。子どもの問いが、もしかしたらミナのことだった可能性を、翔は後から思い出していた。だとしたら、「どこに行ったの」はミナの未来についての問いだった。翔はそれに、ミミのことを思って答えた。ミナはその答えを、自分に向けられた答えとしても、受け取った。
でも、ミナは、それを翔に告げなかった。告げずに、二、三秒だけ俯いた。
翔は、俯いた後のミナを、見なかった。見ないことが、今日のミナへの、唯一の礼儀だった。
日が、少し傾いていた。
翔はミナと並んで、王宮の方へ戻り始めた。




