泉の前
翌朝、翔は早く目覚めた。
鼓動が違っていた。前の日に記録層で浴びた白い粒子の余韻が、まだ足の裏の鼓動に混じっていた。翔はそれ以上横になっていられなくて、身支度をして、王宮の外、聖都の庭園に出た。
夜明け前の庭園は、静かだった。脈石灯が消えかけていて、鉛色の空が、聖塔の玻璃の外縁を、淡く染め始めていた。翔は回廊を歩いた。目的地はなかった。ただ、記録層の残響を、動くことで外へ押し出したかった。
骨材で組まれた回廊の中に、小さな泉があった。脈水が湧いている。
その端に、カイが立っていた。
翔は足を止めた。カイは水面を見ていた。翔に気づいていたかどうかは、分からなかった。気づいていても、振り返らない人だった。翔は少し迷ってから、ゆっくりと、カイの隣に立った。
カイは、翔が隣に来たことについて、一言も言わなかった。呼び出したわけではない。でも、追い払うわけでもなかった。隣に立たせておく、それだけを選んだ。翔はその沈黙を、許可として受け取った。カイはしばらく何も言わなかった。水面が、鼓動に合わせて微かに揺れていた。
「一つ、聞いていいですか」翔が先に口を開いた。カイは振り返らなかった。「聞け」
「棚の紙束。封じていたやつ」翔は言った。「あれは、誰のものですか」
沈黙だった。長い沈黙だった。水面が揺れた。カイは答えなかった。ただ、眼鏡の奥の瞳が、水面に落ちていた。
「……ルウという人間がいた」カイはやがて言った。感情のない声だった。だがその感情のなさが、いつもより少しだけ意図的に感じられた。「観測者だった。私が最初に見出した、初めての弟子だ」
翔は黙って聞いた。
「観測の才能があった。空鯨の鼓動を読む精度が、私よりずっと高かった」カイは続けた。
「髪を、後ろで結んでいた」
翔は少し驚いてカイを見た。カイがそんな具体的な描写を口にするのは珍しかった。カイ自身もそれに気づいたのか、少し間を置いてから、淡々と続けた。
「訓練の時に、邪魔だからと言っていた。紙を扱う時、髪が顔にかかると集中が切れるのだと。私はそれを観測記録として書き留めたことがある。今でも覚えている」
カイは水面を見たまま、視線を動かさなかった。
「当人は髭紙を二十四枚、同時に扱えた。私の最高が十六枚だった時期に、だ。年齢は、お前より一つ二つ上だった」
翔は息を呑んだ。第二部第四章の夜、天幕の隅でミミが言った「女の人。髪を後ろで結んでた。紙の扱い方が、ソラより上手かった」が、今、形を持って立ち上がった。ミミも、カイも、別々にルウのことを覚えていた。誰も忘れていなかった。
カイは少し間を置いた。
「聖都で、二年間、私の助手として働いていた」
翔は、庭園を見渡した。回廊の柱、脈水の泉、白い石畳。その全部の景色の中に、ルウが歩いていた時間があった。この街で、ルウは紙を扱う訓練をしていた。カイと、同じ場所で寝起きしていた。カイの説明はそこまでだったが、翔にはその二年間の具体が、勝手にいくつか浮かび上がってきた。朝の庭園で、早朝のカイの隣に立っていた誰か。紙を扱う音。共有されていた沈黙。
「ここに、いたんですね」翔は言った。
「いた」カイは短く言った。「私は、この街に、今日、十年ぶりに戻ってきた」
十年。翔はその数字を、口の中で反芻した。カイが今朝、翔より先に庭園の泉の前に立っていた理由が、その数字の中にあった。翔はそれ以上は聞かなかった。聞けば、カイが答えるだろうことは分かっていた。でも、聞かない方がカイにとって楽だろうということも、分かった。
「灰骨砦が最初に陥落した時、脈線の観測に出ていた。戻らなかった」水面が、静かに揺れた。「伝言があった。折り畳まれた紙一枚だった」
翔は、棚の封じられた紙束を思い出した。革紐で何重にも縛られた。あの一束の、圧倒的な「誰かの気配」を。あれは、一人の人間が残した最後の言葉の重さだった。
「読めなかったのか」
翔は聞いた。
「読んだ」
カイは短く言った。
「読んで、封じた」
「なぜ」
「届かなかった言葉は、受け取り続けるものではないからだ」
翔はカイの横顔を見た。水面に映った眼鏡のレンズが、揺れていた。
「どんな内容だったんですか」翔は聞いた。聞いてから、聞くべきではなかったかもしれないと思った。でもカイは、今日は答えるつもりがあるようだった。
カイは少し間を置いた。
「『先に行きます』」
カイはそれ以上を言わなかった。翔もそれ以上を聞かなかった。三文字の漢字と、二文字のひらがなで書かれた一行が、一人の人間の最後の言葉として、カイの小屋の棚に封じられていた。翔はその重さを、今、受け取った。
「シルバックのルー」
翔は言った。
「あいつ、カイさんのことを見る時、少し違う目をすることがある」
「そうか」
「同じ目です。あの記録柱の前でした目と」
カイは水面を見たままだった。長い間だった。「ルーは」カイはやがて言った。「ルウの弟だ」
翔は息を止めた。
「それを、ルー本人は知っているのか」
「知っている」
「カイさんは」
「知っている」
「それで、シルバックに引き入れたのか」カイは答えなかった。答えないことが、答えだった。
水面が揺れた。泉の底から、鼓動が伝わってくる。どくん、どくん。カイの静けさの中に、翔には今の翔にしか読めないものがあった。観測への執着と言った男が、なぜ人を手元に置くのか。その理由が、少しだけ分かった気がした。
「守りたいんですよね」
翔は言った。
「分析はするな」カイは即座に言った。それから少し間があって、「……まあ、否定はしない」と続けた。
翔は笑った。カイが翔を一瞥した。何も言わなかった。また水面を見た。翔も水面を見た。二人で、しばらく黙っていた。
どくん。水面が、一度だけ大きく揺れた。空鯨が呼吸した音だった。
しばらくして、カイが庭園を離れた。「先に戻る」とだけ言って、回廊の奥へ消えた。翔は動かなかった。泉の端に座り直して、もう一度水面を見た。鼓動に合わせて、微かに揺れる水面を。
どのくらい、そうしていたか分からなかった。朝の光が、回廊の柱の根元に、少しずつ届き始めていた。
足音がした。
翔は顔を上げた。
ルーだった。
ルーは回廊の向こうから歩いてきて、翔の視線に気づかないふりをして近づいた。脈騎の外套を着ていた。寝起きの顔だった。翔の隣の石に、言葉もなく座った。一人分の距離を空けて。
ルーは泉を見た。翔も泉を見た。
しばらく、二人は黙っていた。ルーは何も聞かなかった。翔が何を聞かされたのか、ルーには分かっていた。分かっていることを、確かめに来たわけでもなかった。ただ、ここにいる必要があった、という感じで、ルーはそこに座っていた。
やがてルーは、少し咳払いをして、立ち上がった。
「……世話になった場所らしい」ルーは言った。
それだけだった。ルーは泉に一度だけ頭を軽く下げて、回廊を戻っていった。翔には「場所らしい」の伝聞表現が耳に残った。ルーは、姉が生きていたこの聖都を、姉から直接聞いていなかった。カイから、あるいは別の誰かから、断片的に聞いていただけだった。それでも、ルーは、来た。
翔はそれを、受け取った。




