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聖塔の記憶層

 地下へ続く石段は、思ったより長かった。


 松明の代わりに、壁の骨材が淡く発光していた。青白い光が、段差の輪郭だけを照らしている。カイが先頭で、翔とミナが続き、後ろにアルナと護衛が一人。シルバックは地上に残った。


 一段、二段と降りるうちに、石の質が少しずつ変わっていった。地上で見慣れた白い石から、次第に青みがかった灰色へ。壁の骨材の発光も、青白い光から、深い蒼へと色を移していった。段差ごとに、音が一つずつ減っていった。地上の気配が、足音の反響の中から、少しずつ抜け落ちていった。


 翔の耳が、一度だけ痛んだ。気圧が、わずかに変わっていた。呼吸が、半段階だけ深くなった。意識して深くしたのではなく、身体が勝手にそうした。


 前を歩くカイの背中が、時折、少しだけ歩調を落とした。翔は、それをカイの配慮だと、その時は思った。翔が遅れないように合わせているのだと。後になって思い返すと、必ずしもそうではなかったかもしれなかった。カイはただ、降りるのに慣れた人間が、でも今日に限っては、いつもとは違う速度で降りたかったのかもしれなかった。


 アルナも、何も言わなかった。護衛も口を開かなかった。五人の足音だけが、石段の壁に、一段ずつ、重なっていった。


 記録層、とカイが呼んだ場所は、地下二層目に広がっていた。


 扉を開けた瞬間、空気が変わった。温度が下がる。音が消える。まるで、世界の外側に出てきたような感覚だった。


 部屋の中央に、透明な柱が七本、天井まで伸びていた。内部に白い粒子が漂っている。動いていない。でも生きている。空鯨が今まで見てきたものが、すべてここに凝縮されているのだと、翔には直感で分かった。


「触れるな」


 カイが言った。


「何があるんですか」


「空鯨の観測記録だ。誰かが触れた時に反応する。だが、呼ばれていない者が触れると、記録の中に引き込まれることがある」


 翔はその柱を見た。中の粒子が、翔の視線に気づいたように、わずかに集まる動きをした。引力があった。来い、ではなく、来てもいい、という感じの引力だった。


「カイさん」


「何だ」


「俺、呼ばれてる気がします」


 カイは少し間を置いた。


「……そうかもしれない」


 カイは記録柱の一本の前に立った。手帳を開き、何かを確認した。「ミナも、ここに来るべきだ」翔はミナを見た。ミナは柱を見ていた。その目に、見覚えのある表情があった。月夜の夜に翔を見ていた目と、同じ目だった。


「分かってたの?」


 翔が聞くと、ミナは少しだけ目を伏せた。


「何が」


「ここに来ることが」ミナは答えなかった。翔はそれを、答えだと思った。


 カイが翔に向いた。「手を当てろ。何が見えるか、後で話せ」


 翔は頷いた。柱に近づいた。


 ただ、すぐには触れなかった。


 柱の粒子は、翔の視線を感じて、既に内側で動き始めていた。白い小さな点が、柱の表面近くで渦を巻いていた。引き寄せられているのか、迎えに来ているのか、翔には判断できなかった。


 指先を上げた。柱の表面まで、拳ひとつ分の距離があった。その距離の中に、翔は自分がこれから見るものの重さを、先に感じていた。


「触れない」カイが後ろから短く言った。


「……触れます」翔は答えた。「ただ、ちょっと、怖かった」


「怖いなら、それは正しい感覚だ」


 翔は頷いた。それから、指先を伸ばした。


 触れた。


 瞬間、粒子が動いた。


 視界が消えた。ではなく、視界の上に別の映像が重なった。


 空鯨の背中の上に、街があった。豊原盟市ではなかった。もっと古い街だった。石造りの低い建物が並び、骨線の導管がまだ細く頼りない。人々が行き交い、笑い、市場で声を張り上げている。音はなかったが、動きの密度から、賑わいだけは伝わってきた。


 その中に、白い髪の人影があった。


「……ミナ」翔は声が出た。


 白い髪が、古い街の中を歩いていた。翔が知っているミナではなかった。服装が違う。でも、髪の色も、首の傾け方も、歩き方も、見間違えようがなかった。その存在は、街の人々の間を歩きながら、何かを観測していた。観測というより——記録していた。見て、覚えて、その全部を何かの中へ蓄積していた。


 映像が流れた。街が変わった。時代が変わった。空鯨の背中の上に、別の街が生まれ、育ち、古びていく。その全部に、白い影が混じっていた。同じ影が。ずっと、同じ影が。


 ——映像の中で、もう一つの場面が流れた。


 空鯨の背の上、霧の広がる朝。草原だった。一人の誰かが、そこを歩いていた。ミナではなかった。ミナのように時代を越えて歩き続ける存在ではなく、たった一度、ここを歩いているだけの、一人の誰かだった。


 後ろ姿だった。前を向いて、歩いていた。顔は見えなかった。背格好も、髪の色も、服装も、焦点が合わなかった。見ようとすると、映像の方が、翔に見せないように焦点をずらした。


 ミナが、その後ろを歩いていた。


 距離があった。三歩分。それ以上でも以下でもなかった。その距離を、ミナは詰めなかった。ほんの半歩でも詰めれば届きそうな距離なのに、ミナは詰めなかった。詰めないことを、自分に課しているように見えた。


 その誰かが、不意に立ち止まって、振り返ろうとした。ミナも立ち止まった。三歩の距離は、変わらなかった。その誰かは、結局、振り返らなかった。また歩き始めた。ミナも、同じ速度で、歩き始めた。


 霧が、映像の端から、二人を包んでいった。その誰かが、どこへ行ったのか、翔には分からなかった。ミナがいつまでその後ろを歩いていたのかも、分からなかった。


 一度、白い影が立ち止まる場面があった。


 古い石畳の上。影は、小さな子どもの前にしゃがんでいた。子どもは泣いていた。親とはぐれたのか、膝を擦りむいたのか、そのどちらでもないのか、翔には分からなかった。影は何かを差し出していた。子どもがそれを受け取った。手のひらで包んで、じっと見ていた。


 影の手が、子どもの頭に触れようとして、触れずに止まった。


 翔はその動きに、見覚えがあった。


 豊原盟市の最初の日。ミナが翔に手を差し出して、触れる直前で止まった、あの動き。翔はその時、理由を知らなかった。今は知っていた。ミナの手は、ほとんどのものに触れられない。触れても、霧のような感触しか残さない。ミナはそれを、長い時間の中で知りすぎていた。


 白い影は、手を引いた。子どもは影に気づかず、手のひらの中のものを抱えて、どこかへ走り去った。


 影はしばらく、その場に座っていた。動かなかった。それから、立ち上がった。また歩き始めた。次の街へ、次の時代へ。


 翔は手を離した。粒子が静まった。息が上がっていた。


 手のひらが、まだ震えていた。見た映像の量の問題ではなかった。ミナが長い時間の中で積み上げてきた、触れられない手の孤独の総量が、指先から流れ込んでいた。


 ミナが翔の隣に立っていた。その目が、うるんでいた。「ミナ」翔は言った。「お前は、ずっとここにいたのか」


 ミナは答えなかった。唇を少し動かして、また閉じた。


 カイが手帳に何かを書いていた。「想定通りだ」カイは言った。「ミナは空鯨の観測端末だ。正確には——空鯨そのものが作り出した、記録のための存在だ」


 翔は息を止めた。「それって」


「ミナがここまで見てきたもの、感じてきたものが、すべて記録層に入っている」


 カイは続けた。


「お前が落ちてきた時、ミナがお前に近づいたのは、お前が記録対象の外から来た存在だったからだ。空鯨が、観測を命じた」


 翔はミナを見た。ミナは俯いていた。「……ミナ」


「分かってた」


 ミナは小さく言った。


「最初から分かってた。でも」


 ミナは翔を見た。その目が、真っ直ぐだった。


「でも、あなたのことが好きになった。それも、本当のこと」


 翔は何も言えなかった。胸の奥に、熱いものがあった。感情の名前がつかなかった。


 ミナは俯いたままだった。翔はその横顔を見ながら、ふと、記録層の柱をもう一度見上げた。粒子が、まだ微かに揺れていた。完全には静まっていなかった。何かが、まだ来る気がした。


 その時だった。記録柱の一本が、突然強く光った。翔とミナを同時に見るように。粒子が動いた。全員が柱を見た。


 柱の中に、像が結ばれた。


 灰色の耳。双刃。小さな体躯。ミミだった。


 記録層の中のミミが、翔を見た。口が、動いた。声はなかった。でも翔には読めた。


 当たり前じゃん。


 翔は息を飲んだ。


 ミミの像が、少しずつ薄れていった。白い粒子に溶けていくように。消えていった。完全に消えた後も、翔はその場所を見続けた。


 見続けた。しばらく、動けなかった。


 記録層の冷たい空気が、翔の皮膚の上をゆっくり流れていた。そこにいた。確かに、ここにいた。今はもう像は消えた。でも、消える前に、ミミは翔を見た。口を動かして、言った。「当たり前じゃん」それが、最後の言葉ではなかった。ミミは焚き火の夜にも、ミミ喪失の場面にも、その言葉を残していった。翔の中で、三度、ミミは「当たり前じゃん」と言っていた。


 三度とも、意味が違った。


 最初は、焚き火の夜。「また明日も、よろしくな」


「……当たり前じゃん」


 あれは、日常の言葉だった。


 二度目は、ミミ喪失。


「勝ったんでしょ」


「そうだ。お前のおかげで」


「当然じゃん」


 あれは、誇りの言葉だった。 三度目は、今。像の中で口が動いた。声はなかった。でも「当たり前じゃん」と読めた。あれは、何の言葉だろう、と翔は考えた。


 分からなかった。分からないまま、受け取った。


 足元から鼓動が来ていた。どくん、どくん。


 カイが手帳を閉じた。「記録されている」それだけだった。その一言が、奇妙に翔を落ち着かせた。ここにいた。生きていた。それが、この世界に刻まれている。


 その時、翔がカイの方を見ると、カイは翔を見ていなかった。まだ記録柱の方を向いていた。口の動きが、ほんの少しだけあった。言葉になる前の、口の動きだった。


 しばらくして、カイは声を出した。


「ここに刻まれたものは、消えない」


 カイは、いつもの「それだけ」とは違って、もう一拍、そこに留まった。それから、少し低い声で、もう一言を足した。


「誰が覚えていなくても、刻まれている」


 翔は、カイがそれを誰に向けて言ったのか、すぐには判別できなかった。記録柱に向けて、でもなかった。翔に対して、でもなかった。アルナにでも、ミナにでも、なかった。たぶん、自分自身に向けて言っていた。観測者カイが、自分の観測の意味を、自分に向かって、もう一度確かめた瞬間だった。翔は、それを、立ち聞いた形になった。


 翔はミナを見た。ミナは、記録柱の方ではなく、翔を見ていた。


「ミナ」翔は言った。「ミミ、ここにいたな」


「……うん」


「ここにいるんだな、これからも」


 ミナは少し間を置いた。「いる」ミナは言った。「記録として。そして、あなたの中にも」


 翔は頷いた。それで、充分だった。


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