賓客の夜
聖都の王宮は、聖塔の根元に抱かれるように建っていた。
外観は他の建物と同じ白い石造りだった。だが、近づくと、石の継ぎ目に細い骨材の線が走っていることが分かった。普通の石ではなかった。空鯨の骨格の一部を、そのまま外壁に使った建物だった。
アルナが案内されたのは、王宮の西棟——内廷に近い部屋だった。翔たち一行は、それとは別の、東棟の賓客棟に通された。東棟は西棟と回廊で繋がれていたが、渡るには許可がいる、とアルナは説明した。
「必要がある時は、使いを出します」アルナはそれだけ言って、西棟へ消えていった。歩調が、翔と歩いていた時のものとは違っていた。王女の歩調だった。
カイはシルバックたちと一緒に、別の翼に入った。観測者と傭兵は、同じ区画に通されるらしかった。翔とミナだけが、二人用の賓客の間に残された。窓が大きく、中庭の脈石灯が、下から柔らかい橙の光を送り込んでいた。
「綺麗な部屋だね」ミナが言った。
「……綺麗だな」翔は返した。綺麗だとは思っていなかった。広すぎて、静かすぎて、翔には居心地が悪かった。でも、ミナがそう言うなら、そうなのだろうと思った。
夕食の盆が運ばれてきた。パンと、脈水で煮込んだ根菜と、白い乾酪。翔は一人で食べた。ミナは向かいに座って、食べなかった。皿だけが二つあった。翔はその二つ目の皿を、見ないようにして食べた。
食事が終わった頃、窓の外で、人影が動いた。
翔は目を上げた。
カイだった。
東棟の中庭を、一人で横切っていた。外套を着て、手帳を外套の内側にしまっていた。歩く方向は、王宮の外、聖都の市街の方だった。
翔は立ち上がった。窓に近づいた。
カイは、歩いていた。ただ歩いているだけに見えた。でも、翔には分かった。カイは今、道を探していなかった。行き先が、既に決まっていた。迷わない足取りだった。聖都に初めて来たはずの人間の歩き方では、なかった。
翔はカイの背中が中庭の門の外へ消えていくのを、最後まで見送った。
「ミナ」翔は窓に手を当てたまま、言った。
「うん」
「カイさん、この街、知ってるのか」
ミナは少し間を置いた。
「知ってる」ミナは言った。「わたしには分かる」
「何で分かる」
「わたしも、知ってる」
翔は振り返った。ミナは部屋の隅に立ったまま、翔を見ていなかった。窓の外の、カイが消えた方向を見ていた。
「……ミナ」
「うん」
「お前も、この街を知ってるのか」
ミナは少し間を置いた。それから、頷いた。
「この街、わたしは前にも歩いたことがある」
翔は息を止めた。
「前、って」
「いつ、とは言えない」ミナは言った。「わたしは、時間の数え方が、ソラとは違うから。でも、歩いたことはある。何度か」
翔はミナを見た。ミナは窓の外を見たままだった。その横顔が、翔が知っているミナの横顔とは、ほんの少し違っていた。遠かった。知っている人の横顔に、翔は知らない過去が張り付いているのを、見た。
翔はそれ以上聞かなかった。聞いてはいけない気がした。聞けば、ミナは答えるだろう。でも、答えた後のミナが、今日のミナと少し違うミナになってしまう気がした。翔はまだ、今日のミナと一緒にいたかった。
「落ち着いたら、教えてくれ」翔は言った。「カイさんも、お前も、この街のこと、落ち着いてから、話してくれ」
ミナは頷いた。「……うん」
窓の外で、聖塔の玻璃が、夜の青白に変わり始めていた。
深夜、回廊で足音がした。
翔は寝台に横になっていたが、眠れていなかった。足音で、半身を起こした。
扉が、軽く叩かれた。
アルナだった。
「入っていいですか」アルナは言った。声が、普段より少しだけ疲れていた。
翔は扉を開けた。アルナは中に入らなかった。扉の枠に手を置いたまま、外から話した。礼儀なのか、中に入るほど話すことがなかったのか、翔には判別がつかなかった。
「明日、記録層へ降ります」アルナは言った。「カイ様の差配です」
「……分かりました」
「その後、共鳴路の再接続を、あなたにお願いすることになります」
翔はアルナを見た。アルナは翔を見ていなかった。回廊の、奥の方を見ていた。
「共鳴路」翔は繰り返した。「それは、俺が決めることですか」
アルナは少し間を置いた。
「決めることです」アルナは言った。「でも、わたしがお願いすることでもあります」
それだけだった。アルナはそれ以上を言わず、軽く頭を下げて、自室へ戻っていった。頭の下げ方が、王女の礼ではなかった。アルナは誰か、翔ではない別の誰かに謝っているような下げ方をしていた。翔はそれに気づいた。気づいて、聞けなかった。聞くのは、明日以降でよかった。
扉を閉めた。
寝台に戻った。眠れなかった。
鼓動が、豊原盟市より二回り強かった。空鯨の頸骨が、七本、この街の真下で走っている。その七本の上に、聖都が建っていた。翔の身体は、その七本の骨の響きを、初めて夜の静寂の中で受け取っていた。重かった。豊原盟市の鼓動が浅くて広い川だったとしたら、聖都の鼓動は、深くて狭い井戸の底から来ていた。
翔は目を閉じた。閉じても、見えなかったものが見えるわけではなかった。ただ、耳の奥で、鼓動が続いていた。
カイがこの街で、以前、何をしていたか。ミナがこの街を、いつ、何度、歩いていたか。アルナが内廷で、誰と、何を話してきたか。翔の知らないことが、今夜の聖都に、三つ、同時に在った。
翔は、その三つのうちの一つでも、明日知れるだろうかと考えた。
答えは出なかった。




