聖都
月夜平原戦から十日後、翔たちは天風聖都を目指していた。
ミミがいない。その事実は、翔の足の裏から来る鼓動の中に、奇妙な空洞として残り続けていた。戦況は動いていた。三千人戦争の勝利が北方の同盟都市を動かし、嶺都皇邦の補給線が繋がり始めていた。アルナは決断を重ね続けていた。カイは観測を続けていた。世界は止まらなかった。
ただ、ミミがいない。
「ソラ」
ミナが翔の隣で言った。翔は前を向いたまま答えた。
「分かってる」
「分かってないでしょ」
「……分かってないかもしれない」
翔は息を吐いた。
「でも、歩かないといけないのは分かってる」
ミナは何も言わなかった。ただ、一歩だけ翔に近づいた。それで十分だった。
天風聖都は、空鯨の頸部付近に位置していた。
聖塔が七つ並んで立っている。空鯨の骨格を芯に、外壁は白みがかった玻璃で覆われていた。光の角度で色が変わる。朝は青白く、昼は透明で、夕暮れは橙に染まる。生きていると思った。翔は城門前で足を止めた。「広い」
「そうだね」
ミナが隣に立った。
「この場所、空鯨の頸骨が七本並んでる。脈動の密度が、豊原盟市とは比べものにならない」
どくん、と地面が鳴った。それだけで分かった。ここの鼓動は、豊原盟市のものより二回り大きかった。
カイが翔の横を通り過ぎた。城門に向かって歩きながら、翔にではなく前を向いたまま言った。
「聖都には、用が幾つかある」
それだけだった。翔は何を、と聞こうとしたが、カイはもう歩いていた。翔はその背中を見送った。いつも通りだった。説明は、必要な時にしかしない。必要な時は、たいてい手遅れになる直前だった。
ミナが翔の隣に並んだ。「怒らないの」
「慣れた」
「嘘」
「嘘だけど、慣れる努力はしてる」
アルナが振り返った。城門の前で。「蒼翔さん」
「はい」
「聖都では、城下の人間はわたしたちを見て様々な判断をします。あなたがどこから来たかを知らない人が多い。答えに詰まったら、わたしの客人と言ってください」
「……わかりました」翔はカイを見た。カイはもう前を向いていた。
城門をくぐると、空気が変わった。
聖都の中は、翔がこれまで通ってきたどの街よりも清潔だった。石畳は磨かれ、蒸気管は壁に隠されるように通っていた。胞子パンの匂いはしなかった。代わりに、乾いた紙と、微かな花の香りがした。花は、見慣れない種類だった。白い小さな花が、建物の窓辺に整然と並んでいた。
人の動きも違った。豊原盟市では、人々は雑多に交差していた。荷甲虫が道を塞ぎ、子どもが走り、店主が大声を上げた。聖都にはそれがなかった。人々は同じ方向を向いて歩いていた。歩く速さが揃っていた。早くも遅くもなく、一定だった。
翔はその揃った歩みの中を、自分だけが別のリズムで歩いているのを感じた。
「……誰も、俺を見ないな」
「見てる」ミナが言った。「見てないふりが上手いだけ」
「ここの人、そういうの得意なのか」
「聖都の人は、訓練されてる。『見ても、見なかったことにする』ことが、ここでは礼儀だから」
翔は少し歩きにくくなった。視線がないのは楽なはずなのに、揃った歩調と揃った無視の両方に、翔は居心地の悪さを感じた。豊原盟市の、あの無遠慮な視線の方が、今は恋しかった。
広場に出た。中央に、小さな泉があった。水が湧いていた。脈水らしかった。子どもが二人、泉の縁に座って、何かを話していた。翔の視線に気づいた方の子どもが、翔をじっと見た。それから、隣の子の肩を叩いた。二人で翔を見た。
誰にも見られない街で、子どもだけが翔を見ていた。訓練が、まだ始まっていない年齢だった。
翔は軽く手を振った。子どもたちは少し驚いた顔をして、それから笑った。隣の子が手を振り返した。
子どもの母親らしい女性が、足早に近づいてきた。青い外套を着ていて、両手に、市場で買ったばかりの紙包みを抱えていた。
女性は、少し離れた場所のアルナに気づいた。一瞬、足を止めて、軽く会釈をした。アルナも、ほんの少しだけ頷き返した。王女と、聖都の住民。二人の間に言葉はなかった。でも、会釈の角度が、互いの立場を過不足なく承認していた。
そのまま母親は、子どもたちの腕を、そっと引いた。
翔の方は、見なかった。
母親の視線は、翔の存在を、ちょうど翔の身体ひとつ分だけ、避けて通った。見ていない、のとも、見えていない、のとも違った。ただ、そこを通らなかった。練習された動線だった。
子どもたちは、引かれていく間際、もう一度翔の方を振り返った。翔は小さく手を上げかけて、上げなかった。上げると、母親が次に子どもを叱らなければならなくなることが、翔には分かった。
ミナが翔の隣で、静かに言った。
「見ないのが、ここでの優しさなの」
「……優しさか」
「そう。ソラの居場所を、誰かが報告しないためにも、見ないの」
翔は息を吐いた。豊原盟市の市場で、荷甲虫の間から顔を覗かせた婆さんの視線を思い出した。あの街では、視線は素朴に翔を撫でた。ここでは、視線は翔を避けることで、翔を守っていた。どちらが優しいとは、翔には決められなかった。
その瞬間、翔は足元から来る鼓動の中に、昨日までと違う空洞を感じた。ミミなら、ここで何か言った。「あの子ら、ソラに手振り返してくれたよ。得したじゃん」とか、たぶん、そういうこと。
ミミはいなかった。ミナが翔の隣にいた。でもミナは、ミミのようなことは言わない。ミナはいつも、もっと深いことを、もっと少ない言葉で言う。
翔は泉の前を通り過ぎた。子どもの笑い声が、背後に残った。
「ミナ」
「うん」
「ここ、ミミが好きそうな街じゃないな」
「……うん」
「うるさい街の方が好きだった」
「そうだね」
翔は歩きながら、小さく言った。「ちくしょう」
ミナは何も言わなかった。代わりに、冷たい手が翔の手の甲に、ほんの一瞬だけ触れた。翔は目を伏せた。涙は出なかった。ただ、歩くリズムが、少しだけ崩れた。
アルナの一行が、翔より少し前を歩いていた。アルナは一度だけ振り返って、翔を見た。翔は少し慌てて顔を上げた。アルナは小さく頷いた。それだけだった。でも、見てくれていた。
翔は、聖都の白い街路を歩き続けた。どこへ向かっているのか、正確には知らなかった。ただ、前を歩くカイの背中を追っていた。ミナが隣にいた。ミミはいなかった。この三つの事実が、翔の今の全部だった。




