喪失
夜が、まだ明けきっていなかった。
平原の東の空が、鉛色からわずかに橙へ傾き始めていた。野営地は、既に動き出していた。篝火の多くが落とされ、煙だけが低く這っていた。兵たちは自分の装備を最後に確認し、脈騎の骨線導管の点検音が、霧の中に混じっていた。
翔は自分の鎧の螺旋の刻印に、指の腹で触れた。
冷たかった。まだ熱を持っていない。これから熱を持つ。三日間、平原の砂地に織り込んだ髭紙の網が、翔の合図を待っている。翔の呼吸一つで、砂柱が連鎖する。頭では分かっていた。でも、まだ体が冷えていた。
ミミが、翔の隣で双刃の刃を拭いていた。
いつもと同じ動作だった。布の角で刃の根元を拭い、次に背側、最後に切っ先。三回の拭きで終わる。それを二本繰り返す。終わると双刃を鞘に差し戻す。翔はこの動作を、これまで野営地で何度も見ていた。今朝も、同じだった。いつも通りだった。
「ソラ」ミミが手を止めずに言った。
「うん」
「緊張してる?」
「してる」
「そっか」
ミミはそれ以上聞かなかった。刃を拭く動作を続けた。翔はミミが続きを言うかと少し待ったが、ミミは何も言わなかった。代わりに、鼻で小さく笑った。その笑いが、翔を少しだけ楽にした。
「ミミは」翔は言った。「何も変わらないな」
「何が」
「朝の動作」
「変えると、ミスる」ミミはあっさり言った。「緊張してる時ほど、いつもの通りやる」
翔は頷いた。頷きながら、自分が今、ミミに学んでいることを自覚した。戦場に出る前の朝の過ごし方を、翔はまだ自分の中に確立していなかった。ミミは確立していた。何度もこれをやってきた人の朝だった。
シルバが脈騎の骨線を点検していた。シルバは一言も口を利かなかった。シルバの朝は、会話ではなく骨線の音で進行する朝だった。ルーが隣の脈騎で、同じ動作をしていた。二人は並んでいたが、互いを見なかった。同じ朝を、別々に生きていた。
カイは少し離れた岩の上に座って、手帳を広げていた。何を書いているのか、翔には見えなかった。ただ、ペンが止まらなかった。戦闘の前にカイがこれほど長く書き続けるのを、翔は初めて見た。カイもまた、自分なりの朝の過ごし方を持っていた。
アルナは、野営地の中央で、伝令たちと短く言葉を交わしていた。各隊の配置の最終確認をしていた。アルナの声には張りがあった。でも、声の奥に、抑えた疲れがあった。翔は少し離れた場所から、その声を聞きながら、アルナがこの三日間、三時間以上続けて眠った夜がなかったことを思い出していた。
「アルナ王女」ミミが小声で言った。
翔はミミを見た。
「眠れてないね」ミミは言った。「あの顔、寝られてない」
「そう見えるのか」
「獣人の目は、そういうのが分かる」ミミは双刃を鞘に戻しながら言った。「人間には見えないけど、睡眠の不足は顔の筋肉に出る。アルナ王女、ほんとは今日の朝、立ってるのもしんどいと思う」
翔はアルナを見た。翔の目には、いつものアルナに見えた。でも、ミミがそう言うなら、そうなのだろうと思った。
「アルナ王女、立派だな」翔は言った。
「立派」ミミは繰り返した。「立派、か」
それ以上は言わなかった。ミミはしばらく考えてから、「……まあ、立派だよね」とだけ付け加えた。その付け加え方が、立派という言葉を少しだけ緩めた。戦場に向かう王女への、ミミからの最大の敬意だった。
ミナが、翔の隣に立っていた。
ミナはいつもと少しだけ違った。いつもなら壁の中に半分溶け込んだような立ち方をするのに、今朝は、壁から離れて、翔とミミの間の、ほんの少し後ろに立っていた。朝の霧が、ミナの輪郭の外縁を、淡く滲ませていた。
「ミナ、起きてるか」翔は言った。
「起きてる」ミナは答えた。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「……ミナも、緊張してる?」
ミナは少し間を置いた。
「してる」ミナは小さく言った。「わたしも、少しは、してる」
ミミが翔とミナの会話に、耳だけ向けた。見えはしないが、気配は感じ取っていた。ミミは双刃を腰に差し直して、立ち上がった。
「そろそろだね」ミミは言った。
東の空が、鉛色から橙に変わっていた。
開戦の合図は、カイの小さな手信号だった。後方の高台で、カイが右手を一度だけ、静かに下ろした。
戦況は、夜明け前に崩れた。
平原の北端に、鋼冠王国の第二陣が到達したという凶報が、血相を変えた伝令によって野営地にもたらされた。
どくん。どくん、どくん。足元から伝わる空鯨の鼓動は、明らかに異常だった。いつもより速く、そして浅い。
カイが別動隊の編成を告げた。敵の弓兵陣を側面から崩す少人数の任務だった。ミミが双刃を腰の鞘に差し直した。翔はその動きを見ていた。耳が、微かに伏せていた。灰色の耳が、根元からほんの少しだけ、後ろに傾いている。それはミミが緊張している時の癖だった。
「ミミ」翔が呼ぶと、ミミは振り返って片眉を上げた。「なに」
翔は少し迷った。酒場で聞いた答えは、まだ翔の中に残っていた。獣人が好き。鼓動があるものが好き。借りた体で、生き物として生きている。聞き直す必要はなかった。
「……気をつけろよ」
ミミはピタリと足を止め、振り返って目を丸くした。「なにそれ。私の心配してるの?」「……してる」
ミミは一拍だけ呆気に取られたように黙り込んだ。頭上の灰色の耳が、微かに揺れる。「……そっか」その一言だけが、妙に静かで、そして少しだけ嬉しそうに聞こえた。ミミは踵を返し、戦場の煙の中へと駆け出していった。翔はその背中を見送った。灰色の耳が、朝の光の中で揺れていた。
翔はミミを探した。ルーのバイクの横。ミミがいるはずの場所。いなかった。
「ミミ?」返事がなかった。翔は振り返った。平原の少し手前、クリスタルの破片が散らばった地面に、小さな影が倒れていた。灰色の耳が、見えた。
「ミミ!」翔は駆けた。膝をついた。ミミは岩の影に、もたれるように倒れていた。背中に矢が一本、深く刺さっていた。爆発の混乱の中で、流れ矢が来たのだ。
「ミミ、聞こえるか」
ミミは薄く目を開けた。翔の顔を見て、口の端を少しだけ動かした。
「……うるさい。勝ったんでしょ」
「そうだ。お前のおかげで」
「当然じゃん」
ミミは小さく鼻を鳴らした。でも、声が弱かった。いつもの張りがなかった。ルーが隣に膝をついた。矢を見た。深さを見た。何も言わなかった。その沈黙が、翔の胃の底を冷やした。
「治療を」翔が言うと、後方からカイが答えた。「呼んだ。間に合わない」感情のない声だった。でも、その静けさが何よりも重かった。
「ミミ」
翔の声が震えた。
「泣かないでよ」
ミミは言った。
「みっともない」
「泣いてない」
「嘘つき」
ミミは少し間を置いた。耳が、微かに動いた。「ミナは」
翔は振り返った。後方の丘から、ミナが駆けてきていた。翔の陰から、ミミを見た。その目が、うるんでいた。「いる」翔は言った。「ここにいる」
「そっか」ミミは少し笑った。「見えないけど、分かる。温かい感じがする」ミナは何も言えなかった。唇を噛んでいた。
「ミナに言っといて」ミミは続けた。「月夜の話、まだしたかったって」翔は頷いた。声が出なかった。
ミミは一度、目を閉じた。それから、また開けた。開けた目が、翔ではなく、翔の少しだけ後ろ、ミナがいるはずの空間を、見た。
ミミはミナが見えなかった。でも、ミミには分かっていた。ミナが、翔の後ろの、今、ここにいることが。
「ミナ」ミミは言った。
声が、少し小さかった。ルーにも、カイにも、アルナの到着を告げる遠くの伝令にも、届かない大きさだった。翔の耳と、そしてミナにだけ届く大きさだった。
「月夜の話、続きは、あんたから聞きたかった」
ミナは、息を呑んだ。
「あんたが知ってる、長い長い月の話、私、全部聞きたかった」
ミナの目から、涙が落ちたのを、翔は初めて見た。ミナは霧に触れるような冷たい手で、自分の目の辺りに触れようとして、触れなかった。触れても意味がないことを、長い時間の中でミナは知っていた。ただ、水の粒だけが、ミナの頬を伝って、消えた。
「ミミ」ミナは言った。
「ん」
「……続き、覚えておく」
「うん」ミミは頷いた。「覚えてて」
ミミはそれ以上、ミナの方を見なかった。ルーにも、カイにも、アルナが到着したかどうかも、確かめなかった。ミミは翔の方に顔を戻した。
「あと」
ミミは翔を見た。
「翔のこと、嫌いじゃなかったよ。最初は異物だと思ってたけど」
「謝らなくていい」
「言いたいから言ってるの」
ミミは少し間を置いた。耳が、動いた。灰色の耳が、ゆっくりと、前を向いた。翔は、その動きを見ていた。そのまま見ていた。
風が吹いた。白い朝の光の中で、ミミの耳が、一度だけ揺れた。そして、止まった。岩にもたれたまま、力が抜けていった。それから、静かになった。ほんとうに、静かになった。
翔は立てなかった。膝をついたまま、動けなかった。遠くで喊声が続いていた。誰かが笑っていた。勝利の音が、朝の平原に満ちていた。
カイが翔の隣に立った。何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。ミナが翔の隣にしゃがんだ。翔の手に、そっと触れた。冷たかった。でも、その冷たさが今は妙に落ち着いた。見える者にだけ触れられる、確かな温度だった。
シルバが少し離れた場所で、脈騎から降りずに、こちらを見ていた。降りなかった。降りるべき時ではないと判断していた。シルバの掌が、骨線導管の上で、ぴたりと止まっていた。戦闘中は絶えず微細に動いていたその掌が、今は動かなかった。シルバは何もしないことで、何かを済ませていた。
ルーは動かなかった。ミミの倒れた岩の、反対側に座り込んだまま、膝の間に顔を入れていた。顔を上げない、という選択を、ルーはしていた。顔を上げた瞬間に何が起こるかを、ルーは既に十年前に一度経験していた。二度目を、ルーはまだ受け入れる準備ができていなかった。
馬の蹄の音が近づいてきた。
アルナが、遅れて到着した。
護衛を置き去りにして、一人で馬を走らせてきた。馬から飛び降りる動作に、王女としての節度がなかった。普段のアルナなら、馬から降りる時も整った動きをする。その整いが、今は消えていた。
アルナは駆け寄って、ミミの体の前で、足を止めた。
止まったまま、しばらく動かなかった。
アルナの目が、ミミの顔を見た。次に、背中に刺さった矢を見た。次に、ミミの灰色の耳を見た。その耳がもう動かないことを、アルナの目が確認した。
「……間に合いませんでした」
アルナは、誰に言うでもなく、小さく言った。
翔はアルナの方を見た。アルナは翔を見ていなかった。ミミを見ていた。王女の顔ではなかった。灰骨砦で「抵抗した者は」と言葉を切った時と同じ顔だった。選ばなかったのではなく、選ぶ機会に間に合わなかった王女の顔。この経験を、アルナはこれまでに何度かしていた。今日、もう一度、した。
アルナは膝を折った。ミミの隣に、膝をついた。
手は伸ばさなかった。伸ばす資格がないと、アルナは判断していた。ミミと個人的に親しい時間を、アルナはミミと持てなかった。王女として、傭兵団の一人として、ミミを遠くから見ていただけだった。だからアルナは、触れなかった。
触れる代わりに、アルナは、深く、頭を下げた。
ミミに。それから、ミミの名前と、その死に間に合わなかった自分自身に。
翔はミミの外套を見た。繊維の奥で、白い光の粒子が、微かに瞬いていた。消えていない。(霊族だから)月が、雲の間から出た。白い光が、静かに地面を照らした。
「また、置いていかれた」口からこぼれたのは、呪いのような言葉だった。
アルナがそれを聞いた。アルナは頭を上げて、翔を見た。翔はアルナを見返した。二人の目が、合った。
アルナは何も言わなかった。
言葉がない、のではなかった。言葉では届かない、と判断していた。代わりに、アルナは翔の隣まで動いて、翔の少し後ろに、静かに座った。座ることで、翔の重さを、少しだけ分担した。
どくん。空鯨の鼓動が、朝の底から静かに響いた。
時間が、数分、動かなかった。
勝利の喊声は、遠くで続いていた。誰かが笑い声を上げていた。鋼冠軍の白旗が、平原の向こうで上がっていた。その全部が、翔たちの座り込んだ岩の影の、外側で起きていた。岩の影の内側では、時間が止まっていた。
やがてカイが、手帳を開いた。
開いたが、書かなかった。開いたまま、しばらく、ミミの方を見ていた。それから、閉じた。手帳を外套にしまう動作が、いつもより長かった。
「戻ろう」カイはそれだけ言った。
誰も、すぐには立ち上がらなかった。




