焚火の夜
火が、小さかった。
焚き火を禁じられているわけではなかった。ただ、燃やせる木がそれほどなかった。空鯨の表皮が露出した荒野では、枯れ枝を集めるだけで一苦労だった。
翔とミミは二人で三十分かけて集めた枝を、掌に収まるほどの火にしか変えられなかった。
「情けない焚き火だな」
翔が言った。
「あんたが湿った枝ばっかり拾ってくるから」
「暗かったんだよ」
「言い訳」
ミミは膝を抱えて、その小さな火を見ていた。灰色の耳が、炎の揺れに合わせてゆっくりと動く。
野営地の中心では、シルバックの連中が大きな焚き火を囲んでいた。笑い声が低く聞こえてくる。アルナの天幕には、まだ灯りがあった。カイはどこにいるのか、見当たらなかった。
翔とミミの火は、野営地の端にあった。特に示し合わせたわけではない。ただ、気づいたらそうなっていた。
「腹減った」
ミミが言った。
「飯はさっき食っただろ」
「あれで足りるわけないじゃん。干し肉一枚と胞子麦の粥って、何? 戦場の飯ってこんなもの?」
「俺に言うな」
ミミは口を尖らせた。「酒場の串焼きが食いたい」
「豊原盟市に帰ったら食えよ」
「帰ったら真っ先に食う。カイに奢らせる」
「カイさんが奢るわけないだろ」
「奢らせる」
ミミは断言した。
「あの人、銅貨は持ってる。使わないだけで」
翔は笑った。声が出た。久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。
しばらく、二人は黙って火を見ていた。遠くでシルバックの連中の笑い声がして、また静かになる。空鯨の鼓動が、いつものように足の裏を押し上げてくる。
「なあ」
翔は言った。
「ミミって、この世界に来てどのくらいになるんだ」
「さあ」
ミミは少し考えた。
「数えてない。霊族って、時間の感覚が人間と違うから」
「長いのか」
「長い方だと思う。最初はもっと北にいた。寒いとこ」
「なんで豊原盟市に来たんだ」
ミミは肩をすくめた。
「鼓動が強かったから。あの街、空鯨の背骨帯の上に建ってるから、脈動がどこより直に来る。好きなんだよね、あの感じ」
翔は足元を軽く踏んだ。どくん、と返ってくる。「分かる気がする」
「でしょ」
ミミは少しだけ得意そうに言った。
「あんたは最初から分かってた。足止まって、地面ばっかり見てたじゃん」
「そんなに見てたか」
「見てた。滑稽だった」
「ひどい」
ミミはくすりと笑った。それから、また火を見た。
翔はしばらく、火を見ていた。
ふと、足元を軽く踏んでみた。どくん、と鼓動が返ってくる。いつもより、ほんの少しだけ、重く感じられた。
「……ミミ」
「なに」
「俺の世界の地面、こういう感じじゃないんだよな」
ミミは少し首を傾けた。「どういう感じなの」
翔は答えようとした。
答えようとして、気づいた。自分の世界の地面が、どういう感じだったのか、翔はうまく思い出せなかった。踏んでも、何も返ってこないこと。生きていないこと。その二つだけは分かる。でも、そこから先——どんな音がするのか、どんな温度なのか、朝と夜でどう違うのか——思い出そうとすると、像が滲んだ。
「……うまく言えない」翔は言った。
「そっか」ミミはあっさり頷いた。「じゃ、言わなくていい」
「悪い」
「なんで謝るの」
「説明できなくて」
ミミは小さく笑った。「別に、説明させるために聞いたわけじゃないから」
ミミは追及しなかった。翔は何か言いたかったが、言葉が見つからなかった。自分の世界のことを、翔はまだ、自分の中で整理しきれていなかった。整理するには、たぶん、もう少し時間が要る。その時間が、今ここにはなかった。
「でも、いつか、思い出したら」ミミは言った。「話してよ」
「いつか」
「うん。いつか」
「ねえ」
しばらくして、ミミが言った。
「ミナって、最近ちょっと変わった気がしない?」
翔は少し驚いた。
「変わったって」
「なんか、前より……この世界を見てる感じがする。前は翔のことだけ見てた感じだったのに、最近は街とか、人とか、空とか、いろんなものを見てる」
翔はミナのことを思った。月夜の夜、「最近は見てるだけじゃいられない気がしてる」
と言っていた横顔を。
「俺のせいかもしれない」
「いい意味で?」
「……たぶん」ミミは「ふーん」と言った。追及しなかった。
ミミがふと、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、月が出ていた。欠けかけた月だった。細い光が、平原の草地を、薄く照らしていた。
「月、出てきた」ミミが言った。
翔も空を見上げた。月は、豊原盟市の月と、形が少しだけ違って見えた。季節の違いかもしれなかった。翔が知っている月より、ほんの少しだけ、大きかった。ほんの少しだけ、近かった。
「この世界の月って、俺の世界の月と同じなのかな」翔は言った。
「分かんないけど」ミミは空を見たまま言った。「月は、どこの世界でも月なんじゃない」
「雑な答えだな」
「別に、学者じゃないし」
翔の後ろで、ミナも空を見ていた。見ている気配がした。翔はミナの方を振り返らずに、その気配を感じていた。ミナが、何かを言いたそうにしていることも、分かった。
「ミナがなんか言ってる」翔はミミに小声で伝えた。
ミミは空から目を離さなかった。でも、耳だけが、ミナのいる方向へ、微かに向いた。
「なんだって」
「昔は、違う月が出てたって」翔はミナの声を、ミミに伝えた。「今の月より、もっと大きかった月。もっと近かった月。空鯨が、まだ若かった頃の月」
ミミは空を見たまま、少し間を置いた。
「……それ、詳しく聞きたい」ミミは小さく言った。「いつか、ゆっくり」
「今聞いたら」
「今はいい」ミミは言った。「長い話は、ちゃんと時間作って聞く。今夜の焚き火に合う長さじゃないでしょ、きっと」
翔は肩越しに、ミナを見た。ミナは少しだけ頷いた。頷いたことが、翔にだけ見えた。
「ミナが、いつか話すって」翔はミミに伝えた。
「そう」ミミは言った。「いつか」
ミミは空から目を外して、また火を見た。でも、耳は、ほんの少しだけ前を向いていた。ミミの中に、いつか聞く予定の話が、一つ、増えた。
火が、少し小さくなった。翔は手近な枝を一本、足した。ぱちりと音がして、火が揺れた。
「ミミ」
「なに」
「お前、この世界で怖いと思ったことあるか」
ミミは少し間を置いた。耳が、微かに後ろへ傾く。
「ある」
「どんな時」
「誰もいなくなる時」
ミミは平坦な声で言った。
「霊族って、長く生きるから。一緒にいた人間が、みんないなくなる。それが何回も来る」
翔は黙って聞いた。
「慣れると思ってたんだけど」
ミミは続けた。
「慣れないんだよね。何回経っても」
火が、また少し揺れた。
「一人、覚えてる人がいる」ミミはぽつりと言った。
翔はミミを見た。ミミは火を見ていた。灰色の耳が、普段より少しだけ下がっていた。話すか話さないか、ミミ自身もまだ迷っているような、そういう下がり方だった。
「どんな人」翔は聞いた。
ミミは少し間を置いた。「ばあさん」
「ばあさん?」
「そう。最初に豊原盟市に来た時、私を泊めてくれた人。脈石燈の灯屋をやってた。背の低い、頑固な」
「霊族だって、言ったのか」
「言った」ミミは少しだけ笑った。「信じなかった。獣人の子が何を冗談言ってるんだって。布団敷いてくれた」
「信じないまま」
「そのまま、ずっと」ミミは言った。「十何年くらい、一緒にいた。ばあさんの店手伝って、脈石磨いて、たまに街の子供と喧嘩して、ばあさんに叱られて。霊族のこと、結局言わないままだった」
翔は何も言わなかった。ミミは続けた。
「ある日、ばあさんが店の前で転んだ。頭を打った。それだけで、もう起き上がれなかった。こっちの世界では、たまにあるんだよね、そういうの。急に行く人」
火が、小さく爆ぜた。
「ばあさんね、最後に私に言ったんだよ」ミミは言った。「『お前、獣人にしては妙な子だったねえ。どっかおかしかった。でもまあ、可愛がったよ』って。それだけ」
「ミミは」
「『うるさいよ、ばあさん。ありがとう』って言った。泣かなかった。ばあさんの前では泣かなかった」
翔は頷いた。
「店を閉めて、街を出た」ミミは言った。「またしばらく、北にいた。寒いとこ。何も考えずに戦ってた。双刃を覚えたのはその頃」
「今の、お前を見てても、想像つかないな」翔は静かに言った。「灯屋の手伝いしてたっていうの」
「そう?」ミミは少し笑った。「うまかったんだよ、私。脈石磨くの。ばあさんより早かった」
「自慢か」
「自慢」
ミミは火を見たまま、少しだけ口の端を上げた。翔はその横顔を見た。灰色の耳が、炎の色で、普段より柔らかく見えた。
「何でその話、今してくれたんだ」翔は聞いた。
ミミは少し間を置いた。「……さあ。ソラが聞くから」
「そんな軽く言うなよ」
「軽く言わないと、話せないから」
翔は何も言えなかった。
ミミは少し身じろぎした。膝の上で抱えていた腕を、一度ほどいて、組み直した。
「たぶんね」ミミはやがて言った。「この話、誰にもしたことなかった。長く生きてると、話せる相手がいなくなる。ばあさんのこと覚えてる人、もう誰もいないから」
「俺に話していいのか」
「いいよ」ミミは翔を見た。「ソラはどうせ、帰るんでしょ」
翔は息を止めた。
「帰る人には、話してもいい。忘れてくれるから」
ミミはそう言って、また火を見た。その声に恨みはなかった。むしろ、安堵に近かった。長く抱えていたものを、受け取った後に捨ててくれる相手に、初めて渡せた、という声だった。
翔はしばらく黙っていた。「……覚えてるぞ、俺は」
「忘れていいって」
「覚えてる」翔は言った。「忘れないから、話してくれ」
ミミは翔を見た。今度はすぐに逸らさなかった。しばらく見て、それから、口の端を少しだけ動かした。
「……ま、いいけど」
それだけだった。でもミミの耳が、また少しだけ前を向いた。
「だから」ミミは少し経ってから言った。「鼓動があるものが好きなんだと思う。生きてる感じがするから」翔はその言葉を、胸の奥で静かに受け取った。生意気で、乱暴で、何でもないふりをしているこいつが、長い時間をかけてそこに辿り着いていた。
「俺がいなくなっても、怖いか」
ミミは一瞬だけ翔を見た。それから、また火を見た。
「……うるさい」
「答えになってない」
「うるさいって言ってる」
でも、耳が少しだけ赤くなっていた。炎の色のせいかもしれなかった。たぶん、そうじゃなかった。翔は笑った。ミミも、口の端を少しだけ動かした。
小さな焚き火が、二人の間でゆっくりと燃えていた。遠くでシルバックの連中がまた笑った。アルナの天幕の灯りが、風に揺れた。
どこかで、ミナが空を見ているだろう。カイが何かを観測しているだろう。翔はそれを思いながら、この一夜が、妙に好きだと思った。戦闘もなく、事件もなく、ただ情けない焚き火の前で、生意気な霊族と腹の減る話をしているだけの夜。こういう夜が、あったことを。
「ミミ」
「まだ何かあるの」
「明日も、よろしくな」
ミミはしばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……当たり前じゃん」
火が、小さく揺れた。




