月夜平原
三日後、翔たちは月夜の平原に立っていた。
夜の平原は、どこまでも静かだった。雲の切れ間から降り注ぐ月光が、北背骨帯に広がる長草の草原を銀色に染め上げている。風もない。音もない。ただ、足元の空鯨の鼓動だけが、この静寂の底で低く続いていた。
開戦前夜。野営地の天幕を出た翔は、一人で平原の端に立っていた。三日間、この砂地に膝をついていた。髭紙を地層へ織り込む作業は、訓練場でナイフを弾いた時とも、群れ鮫を逸らした時とも違う感覚だった。表面ではなく、もっと深い場所へ意識を送り込む。空鯨の砂層の筋繊維に干渉して、砂の流動方向そのものを書き換える。一枚織り込むたびに、地面が微かに応えた。まるで、眠っている巨大な生き物の筋肉に、そっと触れているような。
どくん。足元から鼓動が伝わってくる。三日間でそのリズムを完全に身体に刻み込んでいた。導線は、もう翔の呼吸の延長にある。
「終わったか」背後からカイの声がした。振り返らずに翔は答えた。「はい」
カイは翔の隣に立ち、平原を見渡した。何もない。砂と草と月光だけの平原。罠がどこにあるか、見ただけでは分からない。
「明日、森を焼かれる可能性がある」
カイが言った。
「アルナ王女は最後まで反対していた」
「でも決断した」
「した」
翔はカイを見た。カイは平原を見たまま、何も言わなかった。風が吹いた。「……きれいな森だった」それだけだった。
どくん。鼓動が、一度だけ強く鳴った。
開戦の合図は、カイの小さな手信号だった。後方の高台で、カイが右手を一度だけ、静かに下ろした。
編成はこうだった。シルバ+翔、ルー+ミミの二台がキューブへの突入組。残る二台が外周で敵の注意を引きつける護衛役。ミナは後方の丘で、コケ樹の大樹への思念を担う。
先頭に出たのはルーだった。出発前、脈騎の横で一人、ハンドルの骨材を親指で撫でていた。何かを確かめる仕草だった。あるいは、言い聞かせる仕草か。翔が目を止めると、ルーは気づかないふりをして顔を上げた。ハンドルに両肘をついて、前を見ていた。矢の雨が、間もなく降ってくる。それでも表情は変わらなかった。むしろ、笑っていた。
「一番乗りなら任せろよ」
アクセルを踏んだ。シルバより半車身、前に出た。後ろのメンバーの一人が吐き捨てた。
「命知らずめ」
シルバは前を見たまま言った。
「生きたがりなのさ」
四機が、月夜の平原を駆けた。敵の前衛が動いた。鎧戦士の歩兵陣が、整然と前進してくる。数だけで圧倒的だった。三千対二万。正面から押し合えば、結果は見えている。
シルバックが敵陣へ打撃を与え、そのまま森へと退く。翔はシルバのバイクの後部で、その動きを感じていた。平原の奥、敵の後方に控えているキューブが見えた。群青色の光が、月夜の中で静かに揺れている。動いていない。まだ、動く気配がない。
(来い)翔は平原を見据えたまま、足元の鼓動に呼吸を合わせた。導線が、砂地の深層でじっと待っている。
その時だった。敵陣の後方で、火の手が上がった。「森を焼くつもりだ!」ルーの叫び声が無線を走った。翔の胸が締め付けられた。あの森に聞こえた、カイの一言が甦る。アルナが目を閉じて飲み込んだ、あの数秒が甦る。
だが次の瞬間、翔は地面を見た。導線が、ある。三日間かけて砂地の深層に織り込んだ髭紙が、今この瞬間を待っている。
後方の丘で、ミナが目を閉じた。両手を胸の前でそっと重ねていた。その指先から、白い光の粒子が零れ始めた。粒子は森の奥、コケ樹の大樹へ向かって、細い糸のように流れていった。
大樹が、白く光った。その光が根を伝い、幹を伝い、枝から枝へと広がっていく。一本のコケ樹が光り、隣の一本も、その隣も。次々と、森全体が白く発光し始めた。やわらかく、静かに、まるで森そのものが呼吸するように。
月光を受けたクリスタルキューブが、揺れた。内部の群青色が、乱れ始めた。照準を探している。でも、どこもかしこも白く輝いている。コケ樹の生命の光が、キューブの認識系を完全に飽和させていた。
充填されたエネルギーが、行き場を失っていた。キューブの表面が、内側から押し広げられる。翔の耳の奥が、重く塞がった。
敵の炎がコケ樹の縁に触れた。熱がクリスタルに走った。群青色が銀白へ弾けた。磁力線に沿って共鳴が走り、砂地の深層、三日間かけて織り込んだ髭紙の網を、一瞬で駆け抜けた。翔の足の裏まで、共鳴が届いた。
どくんっ! 平原が、揺れた。砂柱が、連鎖して立ち上がった。一本目が傾く。装甲車が潰れる。二本目、三本目、四本目。五本目。翔の身体の奥が、震えた。平原全体が崩落音に包まれた。
敵陣の中枢で、動揺が走った。前衛が足を止めた。中衛が詰まった。そしてキューブだけが、後方で孤立したまま、内部に充填されたエネルギーを抱えて揺れ続けていた。
「行くぞ」シルバのバイクが加速した。ルーとミミが並走する。ミミの双刃が閃き、飛んでくる矢を次々と弾いていく。翔たちへの道を、切り開くように。
キューブが、大きくなっていく。近づくほど、その異質な圧力が翔の身体を押し返してくる。充填されたエネルギーが、表面から滲み出すように熱を発していた。
「ここで降りろ」シルバが言った。バイクが減速する。「這い上がるのはお前だけだ。私は外で敵を抑える」翔は飛び降りた。踵が砂に食い込んだ。
キューブの真下に立つ。見上げると、群青色が渦を巻いて歪んでいた。内側から何かが暴れている。(呼吸を合わせろ)カイの声が、頭の奥で響いた。
翔は目を閉じた。足元の鼓動。空鯨の呼吸。三日間、砂地に膝をついて刻み込んだリズム。自分の心臓をそこへ重ねる。鎧が、翔の感情に応えて熱を持ち始めた。螺旋の刻印が、じわりと灼熱を帯びる。どくん。翔は跳んだ。
クリスタルの表面に指先が触れた。強烈な反発が来た。弾き飛ばされそうになる。だが鎧が、その力を受け止めた。螺旋の刻印が灼熱を放ち、翔の身体をクリスタルの表面に縫い留める。翔の指の骨が、軋んだ。
這い上がる。一センチ、また一センチ。押し返される力が増していく。下では、シルバとルーが敵を引きつけていた。ミミが双刃を閃かせながら、翔の周囲に迫る矢を弾き続けている。
頂点まで辿り着いた。翔は髭紙を握りしめた。三日間、空鯨の鼓動と自分の呼吸を重ねながら、砂地の深層を編み続けた手だった。その手に、今持てるだけの全部を込めた。「届け」
髭紙を、クリスタルの核心へ向かって、真っ直ぐに叩き込んだ。一点が、割れた。ほんの小さな裂け目だった。でも、それで十分だった。行き場を失っていたエネルギーが、その一点から一気に噴き出した。内側から、クリスタルが弾けた。
翔は爆風に吹き飛ばされた。視界が白く染まる。身体が宙を舞う。地面が来る。どん、と鈍い衝撃。鎧が衝撃を殺してくれた。転がりながら止まった翔の上に、クリスタルの破片が降り注いだ。
静寂。顔を上げると、キューブがあった場所に、青白い光の残滓だけが漂っていた。切り札が、消えた。
その瞬間、敵陣が完全に崩れた。二万の軍が、統率を失って後退し始める。伝令が走る。怒号が飛ぶ。整然としていた陣形が、内側から瓦解していく。
「反転! 全軍、反転攻撃!!」アルナの声が、戦場全体に響いた。三千人が、動き出した。
ルーが翔の隣に転がり込んできた。外套が焦げていた。「生きてるじゃん」
「そっちこそ」
二人は顔を見合わせた。それから、同時に笑った。シルバが並んだ。
「派手にやりすぎだ」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてない」
月夜の平原に、紫の光の玉が波のように流れた。赤い光の玉が乱れ、後退していく。
翔は立ち上がりながら、後方の高台を見た。カイは動いていなかった。高台の上で、ただ戦場全体を観測していた。この全部が始まる前から、終わりまでを見据えている目だった。その視線が一瞬だけ、燃え続ける森の方へ向いた。翔の位置からは、その表情まで見えなかった。ただ、カイがそこから目を離した時、眼鏡のレンズが月光をわずかに歪めていた。




