三千人戦争
翌朝、斥候が戻ってきた。カイが報告を受けた。翔はその表情を見た。変わらなかった。だが手帳を開く前に、一瞬だけ止まった。それだけで分かった。
「敵本軍が動いた」カイは全員に向けて言った。「二万。三日以内に嶺都皇邦の東部国境に達する」
誰も声を上げなかった。三千対二万。数字は単純だった。シルバが壁際で腕を組んだまま言った。「想定より早い」
「灰骨砦の陥落を知ったからだ」
カイは答えた。
「補給路を失った。急ぐ理由ができた」
翔は地図を見た。東部国境から嶺都皇邦の中心部まで、そう遠くない。灰骨砦がその途中にある。ここを取り戻したことで、翔たちは敵本軍の進路上に立っていることになる。
「ここで迎え撃つんですか」
「いいえ」
アルナが答えた。
「本戦の場所は、別に決めています」
アルナは地図の一点を指した。嶺都皇邦の西、広い平原が広がる場所だった。
「磁場晶石の分布域です。この地形を使います」
カイが続けた。「磁場晶石は脈騎の骨線導管に干渉する。敵の機動力を削げる。加えて」カイは地図の別の一点を叩いた。「この森で敵を誘導する。視界を切って、陣形を分断する」
「砂柱は」
シルバが言った。
「使える場所が三箇所ある」
カイは答えた。
「昨日翔がやったものの、規模を上げる」
翔は昨日の感覚を思い出した。踏み込んだ瞬間の、地面が内側から弾ける感触。「昨日との違いは」
翔は聞いた。
「昨日は局所崩落だった」
カイは翔を見た。
「本戦では連鎖させる。一点を起点に、脈線に沿って崩落を走らせる。そのためには」
「鼓動との同期が、もっと深くないといけない」
カイは頷いた。
「三日ある」
三日で、本番に間に合わせる。翔は頷いた。他に選択肢はなかった。
昼過ぎに、翔は砦の外壁に出た。東の方角を見た。「考えすぎてる」ミミが隣に来た。翔の隣に立って、同じ方向を見た。
「考えるなって言いますか」
「言わない」
ミミは言った。
「ただ、その顔してる時のソラって、たいてい答え出てないまま固まってる」
「そうですね」
「答え出た?」
「出てないです」
「じゃあ一緒だ」
ミミはあっさり言った。
「私も出てない」
翔はミミを見た。ミミは東の方角を見たままだった。獣人の耳が、風に微かに動いた。「ミミは、怖くないんですか」
「怖いよ」
ミミは即答した。
「めちゃくちゃ怖い」
「そう見えない」
「見せてないから」
ミミは翔を見た。
「ソラも同じでしょ」翔は答えなかった。
ミミは笑った。それから東の空に目を戻した。耳が、一度だけ後ろへ傾いた。何か言いかけて、やめた。翔は気づいたが、聞かなかった。
気づいたが、聞かないで、翔はしばらくミミの横顔を見ていた。
ミミの耳は、もう前を向いていた。でも、翔が見た「後ろへ傾いた」一瞬は、確かにあった。ミミは怖いと言った。めちゃくちゃ怖い、と。見せないだけだと。でも、見せないだけというのと、見せたくないけれど漏れているのとでは、違うことだった。さっきの耳の動きは、後者だった。
翔は、ミミの何が怖いのかを、推測してみた。
死ぬのが怖い、というのは分かりやすかった。でも、ミミはそれだけではない気がした。ミミは霊族で、借りた体を失っても、おそらく戻るか消えるかのどちらかだと、酒場で自分で言っていた。戻るか消えるか分からない、とも言っていた。その分からなさが怖いのかもしれない。あるいは、全く別の怖さかもしれない。翔には、ミミの怖さの中身が、完全には読み取れなかった。
読み取れない、ということだけを、翔は確認した。
それ以上、踏み込まなかった。踏み込むと、ミミはもっと見せなくなる気がした。見せないことで持ちこたえている人の、その持ちこたえ方を、翔は壊さないでおきたかった。
「ミミ」
「なに」
「あんまりさ、あんたを怒らせないように、戦場で動く」
ミミは少し翔を見た。「なに、その約束」
「約束」
「ふーん」ミミは鼻を鳴らした。「まあ、受け取っとく」
ミミはそう言って、また東の空を見た。耳は、今度は前を向いたまま、動かなかった。
風が吹いた。ミミの髪が揺れた。「行こうか」
ミミが言った。
「カイに怒られる前に」
「もう怒られてる気がします」
「それはそう」二人で外壁を離れた。
夕刻、出発の準備が整った。アルナが全員の前に立った。三千という数字は変わらない。装備も、地形も、昨日と変わらない。変わったのは、翔には灰骨砦の戦いの感触が残っていることだった。髭紙の複数制御、鎧の脚部増幅、砂柱の起点。全部、昨日初めて本番でやった。できた。それだけが、今の翔にある確かなものだった。
「行きましょう」アルナは言った。短かった。だがアルナの声に、昨夜篝火の前で翔が聞いた声と同じ響きがあった。痛みを知った上で、それでも立っている声だった。
シルバックが動いた。脈騎の骨線導管が順番に光った。青、白、橙。乗り手ごとの色が、夕暮れの中に滲んだ。
翔はカイの隣に並んだ。「三日で間に合いますか」
翔は聞いた。
「さあ」
カイは答えた。
「やってみれば分かる」いつもの答えだった。翔は少しだけ、口の端が動いた。
隊列が進み始めた。足元から鼓動が来た。灰骨砦の石畳が、空鯨の脈動を真っ直ぐに伝えてきた。翔は前を向いた。西の空に、夕光が広がっていた。三千人戦争まで、三日だった。




