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解放後

 砦の制圧が完了したのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 捕虜は中庭に集められていた。四十三人。鋼冠軍の駐留兵だった。武装を解かれ、石壁を背に座らされていた。


 若い兵が多かった。翔が思っていたより、ずっと若かった。敵、という言葉が、少し遠くなった。


 東部の集落から、人が来た。昨日翔たちが通った集落だけではなかった。砦の占拠で補給を絶たれていた三つの集落から、歩ける者が歩いてきた。老人、女、子ども。若い男はほとんどいなかった。


 中庭に入ってきた住民たちは、最初は黙っていた。それが長くは続かなかった。最初に声を上げたのは、中年の女だった。捕虜の一人を指差して、何かを叫んだ。翔には言葉が聞き取れなかった。だが意味は分かった。次々と声が重なった。石を持ち上げた者がいた。王女軍の兵士が間に入った。押し合いになった。


 翔は動けなかった。止めるべきだと思った。でも、昨日の老人の震える手が頭をよぎった瞬間、言葉が消えた。


「止めなさい」アルナの声が、中庭に響いた。大きな声ではなかった。だが通った。住民たちが振り返った。石を持った手が、止まった。


 アルナは中庭の中央へ歩み出た。護衛が止めようとしたが、手で制した。捕虜と住民の間に立った。


「あなたたちの怒りは、正しい」アルナは言った。「奪われた。傷つけられた。それは事実です」誰も何も言わなかった。


「でも」


 アルナは続けた。


「この人たちを傷つけても、奪われたものは戻らない」


「じゃあどうしろというんだ」


 誰かが叫んだ。


「許せというのか」


「許せとは言いません」アルナの声は揺れなかった。「ただ、この手で傷つけた記憶は、あなたたちの中に残ります。それを、わたしは増やしたくない」沈黙だった。石を持った手が、ゆっくりと下がった。全員ではなかった。でも、動きが止まった。


 翔はアルナを見ていた。昨夜の天幕で、それを全部わたしが決めていると言っていた人間が、今、捕虜と住民の間に立っていた。痛みを知った上で、それでも立っている顔だった。


 住民たちが、少しずつ散り始めた。全員が納得したわけではないと翔には分かった。怒りが消えたわけでもない。ただ、今日この場では、止まった。


 アルナは捕虜の方を向いた。捕虜たちは黙っていた。若い兵の一人が、アルナから目を逸らした。アルナはその兵を見た。何も言わなかった。ただ、見た。


 それから、アルナは他の兵の方を見回した。若い兵はもう、アルナの視線の外だった。翔はその兵を見た。逸らされた目が、そのまま地面に落ちていた。地面の石畳の継ぎ目を、ただ見ていた。


 住民が散り終わった後、翔は少しだけ迷って、その兵の前にしゃがんだ。


 兵は翔を見上げた。近くで見ると、本当に若かった。翔と変わらないか、もしかしたら少し下かもしれない。鋼冠軍の制服が、肩のあたりで少し余っていた。体に合っていない、と翔は気づいた。


「水、飲むか」翔は水筒を差し出した。


 兵は翔を見た。敵意ではなかった。警戒ですらなかった。ただ、疲れていた。


「……いいのか」


「飲め」


 兵は受け取った。手が震えていた。寒さではない、と翔には分かった。昨日の老人の手と、同じ震え方だった。奪われた側と奪った側で、手の震え方が同じだった。翔はそれを見ていた。見ていて、何も言えなかった。


 兵は一口だけ飲んで、水筒を返した。「ありがとう」


 翔は受け取った。「名前は」


 兵は少し迷った。「ハルト」


「家、どこ」


「……北の集落。名前は言わない」


「言わなくていい」翔は立ち上がった。それ以上聞くことが、思い当たらなかった。


 歩き出そうとした時、ハルトが小さな声で言った。


「あんた、王女軍の人か」


「まあ、そんなところ」


「強かった」ハルトは地面を見たまま言った。「砦の左側を崩したの、あんただろ。見てた」


「……見てたのか」


「矢狭間から」ハルトは言った。「怖かった。あんな動きする人、初めて見た」


 翔は少し黙った。「こっちも怖かった」


「嘘だ」


「本当だ」


 ハルトは顔を上げた。目が、翔を見ていた。敵でも味方でもない、ただ同い年くらいの人間を見る目だった。翔はその目を、しばらく受け止めた。


「生きて帰れるか、俺たち」ハルトが聞いた。


「分からない」翔は正直に答えた。「でも、今日この場で殺される線は、王女が止めた」


「あの人が」


「そうだ」


 ハルトは少し黙った。それから、微かに頭を下げた。翔ではなく、アルナがいた中央の方へ。それだけだった。翔は頷いて、その場を離れた。


 石畳を歩きながら、翔は水筒をもう一度、振ってみた。音が、少し減っていた。ハルトが飲んだ分だけ。


 ミナが翔の隣に来ていた。いつから歩いていたのか、翔には分からなかった。


「聞いてた?」翔は聞いた。


「聞いてた」


「どう思う」


 ミナは少しだけ間を置いた。「……難しい」


「ミナでも難しいって言うんだな」


「うん」ミナは言った。「戦争って、誰が悪いか、簡単じゃない。誰も悪くなくて、でも誰かが死ぬ。わたしは長く見てるけど、それはずっと、難しいままだった」


 翔はミナを見た。ミナは遠くを見ていた。記録層でミナが歩いていた古い街のことを、翔は思い出した。いくつもの戦争を、ミナは見てきたのだと、改めて分かった。


 夜になった。篝火が砦の中庭に焚かれていた。翔は石壁に背を預けて座っていた。疲労が骨まで来ていた。脚部増幅の反動が、膝の奥に鈍く残っていた。


 しばらく、一人だった。


 シルバックの連中は、砦の別棟で集まって飲んでいた。笑い声が、遠くから聞こえてきた。ルーの声が混じっていた。翔はそれを聞きながら、自分が今、その輪の中にいないことを、少しだけ不思議に思った。嫌ではなかった。ただ、今日は一人でいたかった。


 昨日の集落の老人の顔が、頭から離れなかった。


 両手で水筒を受け取った、あの震える手。翔が名前を聞けなかった老人。今日の昼間、翔はハルトに水筒を渡した。敵兵だった。名前は聞けた。同じことをしたはずなのに、翔の中で、何かが繋がらないままだった。


 老人は翔を見送った。ハルトは翔に頭を下げた。二つの場面の間に、翔自身の手が渡した水があった。でも、水は同じ水ではなかった。そう感じた。なぜかは、分からなかった。


 翔は夜空を見上げた。雲が流れていた。月は雲に隠れていた。天風聖都の方角からは、淡い光が空に滲んでいた。遠かった。


 ミナは隣にいなかった。翔は少し探したが、見つからなかった。ミナはたまに、こうして姿を消す。翔が一人でいた方がいい時を、どこかで判断している気がした。今夜は、そういう夜だった。


「蒼翔さん」アルナが来た。また護衛を連れていなかった。翔の隣に、昨夜と同じように直接座った。二人とも、しばらく何も言わなかった。篝火が、風に揺れていた。


「今日のあなたは」


 アルナが口を開いた。


「すごかったです」


「砦の話ですか」


「それもあります。でも」


 アルナは篝火を見たまま言った。


「あの中庭で、住民の方たちを見ていた顔が」


 翔は答えなかった。「止める言葉が出てこなかった」翔はしばらくしてから言った。「俺には、何も言える立場じゃないと思って」


「わたしもそう思いました」アルナは言った。「奪われていない人間が、奪われた人間に何かを言う資格があるのか。ずっとそれを考えていました」


「でも、言いましたよね」


「言わなければならなかった」


 アルナは少しだけ目を伏せた。


「資格があるからではなく、誰かが言わなければならなかったから」


 風が吹いた。篝火が揺れた。アルナが翔を見た。真っ直ぐに。昨夜、言いかけて止めた時と同じ目だった。今夜は、止めなかった。


「蒼翔さん」


「はい」


「わたしは」


 アルナは一度だけ息を吸った。


「あなたのことが、好きです」


 翔は篝火を見ていた。アルナの言葉が、空気の中に残っていた。消えなかった。


「……ありがとうございます」翔はゆっくり言った。「俺は」


「分かっています」アルナは遮った。「届かない人がいるんでしょう」翔は答えなかった。


 頭の中に、断片が浮かんだ。窓際の席。ペンが紙を走る音。横顔。黒髪が耳にかかっていた。目が合いそうになって、翔は視線を逸らした。何度も、何度も。声をかけられなかった。呼び出し音が一回だけ鳴って、切れた電話。折り畳まれた、小さな四角の紙。言えなかった言葉が、まだそこにある。名前すら、思い出せない。それでも、まだそこにいる。


「……俺、まだ整理できてないんです」翔はゆっくり言った。「大切なものをちゃんと掴めなかった。その痛みを引きずったまま、あなたの想いに応える資格がない」


 アルナは目を伏せた。泣かなかった。崩れなかった。ただ少しだけ、肩が下がった。少し間があった。「言わないままで後悔したくなかった」それだけ言った。


 沈黙があった。篝火が、風に揺れた。「守ります」翔は言った。「それは、約束できます」


 アルナは笑った。篝火の光の中で、その笑顔が揺れた。痛みを飲み込んだ上で、それでも綻んだ笑顔だった。「ありがとうございます」それだけ言って、アルナは立ち上がった。外套の裾を整えて、篝火から離れていった。


 翔はしばらく、その背中を見ていた。言えなかった言葉を持ったまま生きている人間が、目の前にいた。それでも言葉にした。翔にはまだ、それができていない。


 篝火が、音を立てて小さく爆ぜた。翔はその音に少しだけ驚いて、火を見た。薪の芯が赤く光っていた。芯の中の何かが燃え尽きていく時の、小さな音だった。


 翔は胸の奥で、今日一日のことを順に並べてみた。朝、脚部増幅で砦を突破した。昼、砂柱を起こした。中庭で、捕虜と住民の間に立つアルナを見た。その後、ハルトに水を渡した。夕方、集落から来た老人の一人が、砦の崩れた壁を見て、ただ黙って手を合わせていた。翔はその横を通り過ぎた。声はかけなかった。


 何一つ、翔の思うように進んだ日ではなかった。でも、何も間違っていない日でもなかった。


「……難しいな」翔は小さく言った。誰に言ったのでもなかった。ただ、声に出したかった。


 石壁の陰に、ミミがいた。翔と目が合った。ミミは何も言わなかった。ただ少しだけ、目を細めた。それから視線を篝火へ移した。翔も篝火を見た。


 世界は、まだ続いていた。


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