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開放戦

 夜明け前に、全員が動いた。


 翔は暗闇の中で、地形を頭に入れていた。背後に白い岩壁。正面に開けた平地。左右は細い回廊。灰骨砦は、その岩壁に背を預けるようにして建っていた。空鯨の古い骨格が地表に露出した場所だ。


「第一段、シルバック陽動」カイは低く言った。「正面から音を立てて入る。前衛を引き出す。引き出した敵をシルバックが平地へ誘導する」


「第二段は」「お前だ」翔は頷いた。


「砦の左側面、石壁の継ぎ目に脈管が走っている。そこへ髭紙を差し込んで防壁の開閉機構を止める。内側から閉じられないようにする」


「何枚必要ですか」


「四枚。昨夜できただろう」


「昨夜は静止した状態でした」


「今夜は走りながらやれ」翔は一瞬だけカイを見た。カイは地図を見たままだった。


 夜明けの薄明かりが稜線に滲み始めた頃、シルバックが動いた。骨脂油の始動音が、夜の静寂を切り裂いた。七台が一斉に正面へ向けて走り出す。翔の位置からでも、砦の物見台が騒ぎ始めるのが分かった。松明の光が増えた。怒号が聞こえた。


「行くぞ」カイが言った。翔は走った。左側面の回廊へ向けて、石壁沿いに身を低くして進む。ミナが翔のすぐ隣を走っていた。足音がない。でもそこにいた。


「脈管、左の壁から三番目の継ぎ目」


 ミナが言った。


「色が他と違う」


 翔は走りながら壁を見た。見えなかった。


「信じて」翔は信じた。三番目の継ぎ目に手を当てた。確かに、温度が違った。脈管が走っている。髭紙を一枚、二枚、継ぎ目に沿って差し込んだ。紙が脈管の振動を読んで、開閉機構の流れを遮断し始める感触があった。


 三枚目。正面から爆音が来た。シルバックが砦の前衛を平地へ引き出している音だった。翔は集中を保った。四枚目。防壁の機構が止まった。内側から閉じられなくなった、という確信があった。


「カイ」翔は声を抑えて言った。カイが指示を飛ばした。王女軍の側面部隊が動き始めた。


 そこからは、翔の視野が細くなった。戦場は音と煙と怒号で満ちていた。計算通りに動く部分と、まったく動かない部分が混在していた。翔は髭紙の制御を保ちながら、カイの指示を聞いて動いた。前に出る。引く。紙で防壁の一角を押さえる。どくん、と鼓動が来るたびに、意識を繋ぎ直した。


 第三段が始まった。「砂柱」カイが言った。翔は走った。昨夜地図で確認した場所。骨格が地表近くを走り、脈石の圧力が高い一点。鎧の熱が膝から下に集中した。どくんの瞬間を待った。来た。踏んだ。


 地面が、内側から弾けた。白い骨粉が柱状に噴き上がり、砦内部の一角が崩れた。小さな崩落だった。だが敵の陣形が乱れた。その隙間へ、王女軍の中央部隊が押し込んだ。


 翔は着地して、膝をついた。脚部への負荷が予想より大きかった。立ち上がろうとした。背後から、腕が来た。ミミだった。翔の腕を掴んで、引き上げた。翔が思うより速く、立っていた。


「行けそう?」


「行けます」


「無理そうな顔してる」


「行けます」ミミは翔の腕を離さなかった。もう一歩、前へ出る時まで、ずっと掴んでいた。


 第四段。残った前衛が、翔の正面に集まっていた。側面の突破を防ごうとしている。数は翔の計算より多かった。「増幅、最大で出せ」カイの声が来た。


 翔は息を整えた。鼓動を待った。どくん。鎧全体へ意識を流した。熱が皮膚の上を走る。髭紙が四枚、翔の周囲に展開した。紙が硬化する。刃に近い形状へ変形する。


 一歩踏み出した。脚部の増幅が、地面の骨線と共鳴した。空鯨の鼓動が足の裏から這い上がってくる。翔自身の鼓動と、一瞬だけ重なった。前衛の陣形が、崩れた。翔は突っ込んだ。硬化した髭紙が、防具の継ぎ目を弾いた。鎧の出力が、押し返す力を上回った。翔は前を向いた。


 砦の中央に、王女軍の旗が立った。翔はその場に膝をついた。鼓動だけが続いていた。どくん、どくん。戦場の音が、少しずつ遠くなっていった。


 翔は膝をついたまま、自分の掌を見た。


 右手に、血が付いていた。


 自分の血ではなかった。翔は一度、鎧越しに自分の体を確認した。擦過傷はあった。でも、出血するほどの傷はなかった。ということは、手に付いている血は、翔が戦闘中に触れた誰かの血だった。


 誰の、か。翔は覚えていなかった。


 鎧を纏って、髭紙を硬化させて、突っ込んだ。前衛の陣形が崩れた、と翔は記憶していた。でも、具体的に誰に当たったか、どんな顔をしていたか、翔には思い出せなかった。思い出せないまま、翔の掌には、その誰かの血が、付いていた。


 翔は、血のついた掌を、そのまま膝の上に置いた。


 拭いたかった。でも、拭くのが正しいのか、拭かずに覚えておくのが正しいのか、翔には今、判断がつかなかった。判断がつかないまま、掌を置いていた。


「蒼翔さん」


 声がした。顔を上げると、アルナが少し離れた場所に立っていた。肩に、王女軍の紋章が入った外套を羽織っていた。戦闘中は着ていなかった外套だった。終わった、ということだった。


「……王女殿下」


「動けますか」


「動けます」


 アルナは頷いた。それから翔の方を見たまま、少し後ろの、捕虜を護送してくる隊員たちに向かって、短い指示を出した。


「負傷者と、降伏した者は、武装を解いて中庭に。治療の順番は、味方と敵の区別をつけない」


「殿下」隊員の一人が一瞬戸惑った。「敵の傷を、味方と同じに」


「同じに」アルナは言った。「手が足りなくなったら、わたしに報告してください。どちらを先に治療するかは、そこで判断します」


 隊員は頷いて、駆け出していった。


 アルナはもう一度、翔を見た。何も言わなかった。翔が血のついた掌を膝の上に置いているのを、見ていた。見ていたが、言葉は足さなかった。言葉で足して楽にしてはいけない瞬間だということを、アルナは知っていた。


 アルナは自分の外套の内側から、白い布を一枚取り出した。折り畳まれた、清潔な布だった。それを、翔の膝の前に、静かに置いた。


「使うか、使わないかは、あなたが決めてください」アルナは言った。


 それだけ言って、アルナは歩いていった。捕虜の方へ、歩いていった。


 翔は布を見た。


 拭けば、記憶の形が消える。拭かなければ、この感触が、鎧越しの皮膚にずっと残る。どちらを選ぶか、翔は、今この場では決められなかった。決められないまま、翔は布を、掌で、静かに押さえた。押さえただけだった。拭きはしなかった。


 ミナが翔の隣に来た。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


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