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覚醒

 砦の手前、岩陰に陣を敷いた夜だった。


 火は使えない。敵に気づかれる。天幕の中心に脈石暖炉の小型版が一つあるだけで、橙色の薄い光が幕の内側をかろうじて染めていた。翔は両手を暖炉にかざした。温度が、ほとんどなかった。


 カイが翔の前に立った。外套のまま、両手をポケットに入れたまま。いつも通りの姿勢だった。「今夜、鎧の訓練をする」


「前日夜にやるんですか」


「明日使うからだ」反論できなかった。翔は立ち上がった。


「今までと何が違うんですか」


「今までは紙と鎧を別々に動かしていた」


 カイは翔の正面に立った。


「今夜は同時に動かす。鎧の出力を上げながら、髭紙で複数の制御をかける。それだけだ」


 それだけ、という言い方をするが、翔には相当な難度に聞こえた。これまでの訓練で、髭紙の複数制御はまだ二枚が限界だった。鎧の増幅は短時間しか保てない。両方を同時に、というのは次元が違う話だった。


「できますか、俺」


「さあ」


 カイは言った。


「やってみれば分かる」


 天幕の外で、シルバックの整備音が続いていた。骨材を叩く音、脈管を締める音。等間隔のリズムだった。


 翔は目を閉じた。足元から鼓動が来る。どくん、どくん。それに呼吸を合わせる。最初にカイに教わったことだ。空鯨の鼓動と自分の呼吸を重ねる。完全には合わない。でも近づける。


 鎧が、皮膚の上で微かに反応した。感情が触媒になる生体鎧。翔の場合、触媒になりやすい感情はまだ定まっていなかった。怒りの時もある。焦りの時もある。だが最近、別の何かが混じり始めていた。名前のつけにくい感情だった。


 髭紙を三枚、指先から展開した。一枚目が浮く。二枚目が続く。三枚目で、集中が揺れた。「落とすな」カイの声が来た。


 翔は息を整えた。三枚目を引き戻す。鎧の出力を上げると、髭紙の制御から意識が削られる。どちらかに寄れば、もう一方が崩れる。


「鼓動に乗せろ」


 カイが言った。


「どういう意味ですか」


「どくんの瞬間に鎧を上げる。その余韻で紙を動かす。波に乗せるように使え」


 翔はもう一度、足元の鼓動に耳を澄ませた。どくん、と来る瞬間を待った。来た。その瞬間に、鎧へ意識を流した。出力が上がる感覚がある。熱に近い感触が皮膚の上を走った。その余韻が引く前に、髭紙へ意識を分けた。


 三枚が、同時に浮いた。数秒だった。でも確かに、同時に動いた。


 カイが手帳に何かを書いた。翔には見えなかった。「もう一度」


 翔は繰り返した。五回、十回。鼓動のリズムに乗せる感覚が、少しずつ体に馴染んできた。空鯨の鼓動が、自分の体の一部になっていくような感覚だった。


 十五回目で、四枚目が浮いた。「……増えた」カイは手帳に何かを書いた。それだけだった。


 シルバが以前言ったことと同じだった。翔は少し不思議な気がした。自分の体の中に、自分では知らなかった何かがある。この世界に来てから、それが少しずつ形を持ち始めていた。


 天幕の入口の布が、微かに揺れた。ミミが入ってきた。夜の見張りの合間だったのか、外套を羽織ったままだった。翔とカイを見て、続けてという顔をした。天幕の隅に座って、膝を抱えた。


 翔は訓練を続けた。どくんの間隔を数えながら、鎧と紙を交互ではなく同時に動かす。熱と冷が皮膚の上を同時に走る感覚。以前は混乱していたが、今夜は区別できた。鎧の熱、紙の冷。二つは別の感覚だが、鼓動に乗せると干渉しなくなる。


 三十回を超えた頃、翔は一度だけ、紙を落とした。四枚目が、床にひらりと落ちた。集中が切れた。疲労ではなかった。翔自身でも、何が切れたのか分からなかった。


「休め」カイは言った。珍しく、続ける指示を出さなかった。


 翔は床に座り込んだ。呼吸を整えた。天幕の隅で、ミミが相変わらず膝を抱えていた。カイは自分の定位置で、手帳のページをめくっていた。普段はしない動作だった。書くのでも読むのでもなく、ただ、前のページへ戻している。


「カイさん」翔は息を整えながら言った。「前にも、誰かにこれ、教えたことあるんですか」


 カイのペンが、止まった。ほんの一拍だった。それからまた動いた。


「……なぜそう思う」


「教え方が、慣れてる」翔は言った。「初めて教えるなら、もう少しぎこちないと思う」


 カイは少し間を置いた。「一人」


「一人だけ」


「そうだ」


 翔は待った。カイは続けなかった。


「どうなりました、その人」


 カイは手帳を閉じた。眼鏡の奥の視線が、翔を素通りして、天幕の布の方へ向いた。布越しに何を見ているのかは、翔には分からなかった。


「……訓練は、ここまでにするか」


 答えではなかった。でも翔には分かった。それが、カイなりに答えを避けない、という選択の仕方だった。答えない、ではなく、今は答えられない、だった。


「いえ」翔は立ち上がった。「続けます」


 カイは一度だけ翔を見た。小さく頷いた。ペンを開き直した。


 翔は紙を拾った。四枚を並べた。もう一度、鼓動を待った。


 その時、天幕の隅でミミが小さく呟くのを、翔は耳にした。


「……似てる」


 翔は振り返った。ミミは顔を伏せていた。膝の上に、灰色の耳がわずかに倒れていた。


「何が」


 ミミは答えなかった。翔が聞き返そうとすると、ミミは顔を上げた。いつもの生意気な顔に戻っていた。


「なんでもない。続けなよ、新入り」


 翔はそれ以上聞かなかった。聞いたら、誰かが何かを失う気がした。


 三十回を超えた頃、翔は初めて鎧の脚部増幅に成功した。膝から下に熱が集中した。地面を踏んだ瞬間、骨線の振動が倍になって返ってきた。空鯨の鼓動と自分の足が、直接繋がったような感覚だった。翔は声を出した。


「これ、」


「それが脚部増幅だ」


 カイは言った。


「明日、突破口に使え」


 翔は着地した。膝の奥に熱が残っていた。紙も、鎧も、今夜の脚部増幅も、全部同じ一点から来ていた。カイが最初の日に言ったことだった。


「もう一度」カイが言った。翔はもう一度、踏んだ。どくん、と地面が鳴った。自分の踏み込みと空鯨の鼓動が、一瞬だけ重なった。


 天幕の隅で、ミミが翔を見ていた。膝を抱えたまま、何も言わなかった。ただ、見ていた。


 カイが手帳を閉じた。「今夜はここまでだ」翔は息を整えながら、床に座り込んだ。疲労が一気に来た。それでも悪い疲れではなかった。


 カイが天幕を出ていった後、翔はしばらくミミと二人で残った。脈石暖炉の橙色の光が、二人の影を壁に薄く落としていた。


「ミミ」翔は言った。「さっきの『似てる』って」


「聞いてたんだ」


「聞こえた」


 ミミは膝を抱えたまま、翔を見なかった。脈石暖炉の方を見ていた。


「……昔ね」ミミはやがて言った。「カイが、別の誰かに同じような訓練してるのを、横で見たことがある」


「いつ」


「ずっと前。私が、まだこの街に来たばっかりの頃」


「相手は」


 ミミは少し間を置いた。「女の人。髪を後ろで結んでた。紙の扱い方が、ソラより上手かった」


 翔は息を止めた。カイの棚の、あの封じられた紙束のことが頭をよぎった。


「今、どこに」


「いない」ミミは短く言った。それ以上は言わなかった。「ただ、教えてる時のカイの顔、あの時と同じなんだよね。今夜のカイ、ソラのこと、あの人と同じ目で見てた」


 翔は何も言えなかった。カイが「一人」と言った時の、あの、天幕の布越しに何かを見ていた視線の意味が、ようやく分かった気がした。


「だから、ちゃんと生きなね」ミミは言った。「死なれると、あの人、また静かになる」


「また、ってことは」


「うん」ミミは翔を見た。いつもの生意気な目ではなかった。「また、なの」


 翔は頷いた。それしかできなかった。ミミはそれで満足したのか、顔を伏せて、また膝を抱えた。


 翔は紙を片付けた。四枚。訓練で、今夜一番多く浮かせた数だった。仕舞う前に、一度だけ、指先で紙の端に触れた。温度があった。翔の体温なのか、紙自身のものなのか、もう区別がつかなかった。


 翌朝、出発前だった。シルバが翔を呼んだ。脈騎の前に立っていた。「後ろに乗れ」


「いいんですか」


「砦までの道で慣らす。捕まっていろ」


 翔が跨ると、骨線導管が反応した。シルバの生波が走る感触の上に、翔の生波が重なった。導管の光が、いつもより少しだけ強くなった。シルバが低く言った。「……出力が上がった」


「それは、いいことですか」


「悪くない」


 少し離れた場所で、ルーがミミに声をかけていた。「お前も乗れ。後ろに」


 ミミが跨った。ルーは首を傾けた。操縦桿を握り直した。


「お前、軽いな」


「そう?」


「重さがない。乗り手以外に引っ張られる感触がまったくない」


 ミミは少し笑った。


「秘密」


 ルーは一秒だけミミを見た。それから前を向いた。


「まあいい」


 骨脂油の始動音が鳴った。


「面白い相棒だ」


 シルバが翔の肩越しに前を見た。「掴まれ」どくん、と骨線の振動が車体全体を走った。脈騎が動き出した瞬間、翔は息を呑んだ。地面の鼓動と、導管の生波と、翔自身の呼吸が、三つ同時に重なった。速かった。表皮の起伏を先読みして、沈む前に次の地点へ移っている。乗っているというより、空鯨の背中を一緒に読んでいる感覚だった。


「これが」翔は声に出た。シルバは答えなかった。ただ、少しだけ速度を上げた。


 後ろでルーとミミの脈騎が並走してきた。ミミが翔に向かって手を振った。風で髪が流れていた。楽しそうだった。翔はシルバの背中を見た。骨線を読む手が、ハンドルの上で静かに動いていた。


 入口の布が、また揺れた。アルナだった。護衛を連れていなかった。天幕の中を見て、カイに小さく会釈した。カイは手帳を外套にしまい、無言で天幕を出た。入れ替わるように、アルナが入ってきた。


 翔は立ち上がろうとした。アルナが手で制した。「そのままで」アルナは翔の近くに来て、床に直接座った。外套のまま。王女らしくない座り方だった。


「明日、無理をしないでください」


 アルナは言った。


「するつもりはないですけど」


「あなたは無理をしていても、していないと思う人です」翔は答えられなかった。


 アルナは天幕の天井を見上げた。「今日の集落、見ていました」翔が老人に水を渡した場面のことだと分かった。「蒼翔さんは、すぐ動ける人ですね」


「動けなかったですよ。水を渡しただけで」


「それが難しい人もいます」


 アルナは天幕の天井を見たままだった。「明日、うまくいかないかもしれない。作戦通りにならないかもしれない。誰かが傷つくかもしれない」少し間があった。「それを全部、わたしが決めている」


「……それが、王女ということですか」


「そうです」


 アルナは静かに答えた。


「それが、わたしが選んだことです」


 天幕の布が、夜風で小さく揺れた。アルナが翔を見た。何か言いかけて、止めた。唇が一度動いて、また閉じた。「おやすみなさい、蒼翔さん」それだけ言って、立ち上がった。外套の裾を整えて、天幕を出た。


 翔はしばらく、アルナが出ていった入口を見ていた。天幕の隅で、ミミがまだ膝を抱えていた。翔と目が合った。ミミは何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。


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