拠点への道
出発から半日で、街道は終わった。
空鯨の表皮が露出した道なき道を、王女軍の先遣隊が進んでいた。翔はアルナの護衛に近い位置に置かれていた。カイに言われた時、理由を聞いた。カイは答えなかった。翔はそれ以上聞かなかった。
脈騎は隊列の両翼を走っていた。街道を外れても速度はほとんど落ちなかった。骨線を読んで走っているから、表皮の起伏を先読みできるのだと翔は理解していた。それでも、七台が並走する時の低い振動音は、行軍全体に一定のリズムを刻んでいた。
どくん、どくん、と足元の鼓動が続く。その上に、脈騎の骨線振動が重なる。二重のリズムの中を歩きながら、翔はふと思った。この世界で生きているということは、ずっとこの音の中にいるということだと。
道は、空鯨の背の様々な地形を抜けていった。
最初は胞子の森だった。地面から二、三メートルの背丈のコケ樹が、密生して並んでいた。樹の表面は柔らかく、触れると薄い胞子が立ち上って翔の顔にふわりとかかった。隊列は樹と樹の間を縫って進んだ。樹の陰の空気は冷たかった。ミミが翔の隣を歩きながら、枝の一本に掌を置いて、「この樹、冬に実をつけるやつだ」と独り言のように言った。翔は聞き返したが、ミミは答えなかった。その実がどんなものか、翔は知らないままだった。
森を抜けると、空鯨の骨格が表皮から露出した岩場になった。
白い、乾いた骨材が、地層のように積み重なって地面を形作っていた。脈管は、その骨の表面を細い筋となって走っていた。脈管の光は、道の右側では橙色、左側では青白い色だった。翔は、同じ骨格の脈管でも場所によって色が違うことを、初めて知った。カイに聞こうとしたが、カイは先頭で地図を見ながら歩いていて、声をかけられる距離ではなかった。
岩場の真ん中で、伴生獣の群れが道を横切っていった。
脚の長い、膝が逆に曲がった動物だった。一頭一頭が、人間の胸ほどの高さがあった。群れは全部で十数頭。隊列の行軍に一切の関心を見せず、ただ自分たちの目的地の方へ、一列になって歩いていった。シルバの脈騎が、先頭の伴生獣の前で速度を落とした。群れが通り過ぎるのを、シルバは辛抱強く待った。
「食わないんですか」翔はシルバの脈騎に並んで歩きながら聞いた。
「食わない」シルバは短く答えた。「胞子を拾って運ぶ生き物だ。こいつらが居なくなると、森が繋がらなくなる」
「知ってて待ってるんですか」
「シルバックは、知ってる生き物には手を出さない」シルバは言った。「そういう団だ」
シルバはそれ以上は説明しなかった。翔はそれ以上は聞かなかった。
伴生獣の群れが通り過ぎてから、隊列はまた進んだ。空鯨の背の地形は、骨格の間から透けて見える脈石の鉱脈、薄い霧のかかった低地、細い谷底を走る脈水の流れ、と、翔が豊原盟市では見たことのない表情を次々に見せた。
ミナが翔の隣を歩いていた。
「どう思う」翔はミナに聞いた。
「何を」
「この世界」
ミナは少し間を置いた。「きれい」ミナは小さく言った。「わたしは、この景色を、何度も見てる。でも、今日、ソラが一緒に見てるから、初めて見たみたいに、きれいに見える」
翔は、その言葉を、胸の奥で受け取った。ミナの「何度も」が、いつからの何度もなのか、翔にはまだ測れなかった。
集落が見えたのは、三時間ほど経った頃だった。
最初に気づいたのは、煙のなさだった。空は、空白だった。近づくほどに、静けさが形を持ち始めた。
石造りの家屋が並んでいる。壁に沿って脈管が走っているが、光が消えていた。脈石暖炉の燃料が尽きているのだ。集落の入口に、祈り塔があった。空鯨の骨格を組んで建てた小さな塔で、先端に共鳴石が嵌まっている。その共鳴石が、砕かれていた。意図的に、何度も叩いたような砕け方だった。
「三週間前に制圧されました」アルナが言った。声に感情はなかった。だが指先が、外套の裾を僅かに握っていた。
翔は集落を見渡した。アルナが言葉を切った。脈石暖炉の燃料が切れている。家畜の気配がない。食料を積んでいたはずの棚が、空だった。「抵抗した者は」アルナは言葉を切った。
翔は集落を見渡した。人がいた。出てきた住民が数人、隊列の端に近づいていた。老人が多かった。若い者の姿がほとんどなかった。
老人の一人が翔の前に来た。目が合った。翔は口を開いた。言葉が、出なかった。その目に怒りはなかった。怒りを持つ力すら、もう残っていないような目だった。
「水を」老人が言った。翔は腰の水筒を差し出した。老人は両手で受け取った。手が震えていた。寒さではないと分かった。
少し離れた場所で、アルナが翔を見ていた。何かを言おうとして、言わなかった。ただ、見ていた。
ミミが翔の隣に来た。何も言わなかった。ただ、隣に立った。
「ここから先も、こういう集落が続きます」カイが翔の後ろから言った。地図を見ながら、淡々と続けた。「灰骨砦を中継点にして、東部三集落への略奪が繰り返されている。砦を取り戻せば止まる。取り戻せなければ、春を迎えられない集落が出る」
翔は老人が水を飲むのを見ていた。「戦争って」翔は独り言のように言った。「終わった後も残るんですね」カイは答えなかった。
アルナが翔の横に来た。「蒼翔さん」
「……俺には、何もできなかった」
「今日は、水を渡せました」
アルナは言った。
「それで充分です」
充分ではないと翔は思った。でも言わなかった。アルナも分かっていると思ったから。
集落を出る時、翔は一度だけ振り返った。老人がまだそこに立っていた。水筒を両手で持ったまま、隊列を見送っていた。
ミナが翔の隣で、その老人を見ていた。「ミナ」
「うん」
「この人たち、憎むよ。鋼冠軍を」
「うん」
ミナはひっそりと言った。
「そうなると思う」
「それは、どうしようもないのか」
ミナはしばらく黙っていた。風が白い髪を揺らした。
「どうしようもなくはないかもしれない」
ミナは言った。
「でも、簡単でもない」
翔は前を向いた。隊列が動いている。足元で骨線の振動が続いている。脈騎の低い音が両翼から聞こえている。戦争の傷は、敵だけではない。翔はそれを、頭ではなく足の裏から理解していた。老人の震える手が、まだ掌に残っていた。




