出征命令
北への行軍は、翔の記憶の中でほとんど輪郭を失っていた。豊原盟市の城門を出た朝、カイは何も説明しなかった。ミミは黙って先頭を歩いた。ミナは翔の隣にいた。それだけだった。十日後、翔は嶺都皇邦の評議室の扉の前に立っていた。扉が開いた。
どくん。足元から鼓動が伝わってきた瞬間、翔は地図から目を上げた。
評議室に入った瞬間、翔は自分の服装を意識した。紺のブレザー。市場では誰も気にしなかった。だがここでは、数人の視線が一度だけ翔に向いて、それから地図へ戻った。羊皮紙は嶺都皇邦の東部一帯を描いていた。山岳地帯を縫うように走る補給路。その途中、赤い染料で塗り潰された一点。カイが無言で指先を置いた。
「灰骨砦」アルナの声は静かだった。だが部屋の空気が、その一言で変わった。
「鋼冠軍が三日前に制圧しました。現在、砦には推定四百の駐留兵。補給路の封鎖に加え、聖塔共鳴路を遮断されています」
翔は地図を見た。赤い点から放射状に伸びる細い線。聖塔共鳴路というのが何なのか、まだ完全には理解していない。だが遮断という言葉の重さは分かった。
「奪還するんですか」
「はい」
「何人で」
アルナは一瞬だけ間を置いた。「三千です」
部屋の隅で、紫色の外套を纏った老臣が、咳払いをした。
痩せた、背の高い男だった。北方貴族のリオン卿、とアルナが後で翔に教えてくれた。この評議室で、最も長くアルナの父王に仕えた人物。
「王女殿下」リオン卿は言った。声は静かだったが、部屋の全員の耳が向いた。「三千の兵を東部に出せば、北方の防衛線は事実上、崩壊します。鋼冠軍が本気を出せば、翌月には北方の三集落が陥落する」
アルナは、リオン卿の方を向いた。
「その計算は、共有しています」アルナは言った。
「では、なぜ」
「北方の三集落が陥落するのは、翌月です」アルナはゆっくりと言った。「灰骨砦を失った場合、東部三集落が飢え始めるのは、五日後です。どちらを先に救うかという話ではありません。時間の問題です」
リオン卿はしばらく黙った。アルナの言葉を、飲み込もうとしていた。飲み込めたかどうかは、翔には分からなかった。ただ、リオン卿は、もう一度軽く咳払いをして、視線を地図に戻した。
「殿下」別の声が上がった。若い、鋭い声だった。反対側の席から、銀灰色の髪の騎士が発言した。エイデン、という名だとアルナが後で翔に教えた。東部駐留軍の指揮官だった。
「砦を取り戻しても、本軍が来れば守り切れません。三千で奪還し、六千で守るのは無理です。残るのは、短い一ヶ月の保持だけです」
「短い一ヶ月を、わたしは買います」アルナは答えた。「その一ヶ月で、東部三集落の住民を避難させます」
エイデンは少し間を置いた。「……撤退戦の計画ですか」
「攻撃と撤退は、両方を同時に準備しています」アルナは言った。「取り戻してから、逃がすまでを、一つの作戦として立てています」
エイデンは少しだけ頷いた。納得したのではなく、理解した、という頷き方だった。彼は背筋を正して、地図の別の場所を指で軽く叩いた。撤退ルートの候補を、既に頭の中で並べている仕草だった。
翔はカイを見た。カイは地図を見たまま表情を変えなかった。シルバが壁際で腕を組んでいた。
「……王都なのに」翔は言葉を選びながら言った。「三千って、少なくないですか」
誰も笑わなかった。アルナが翔の方を向いた。
「少ないです」彼女はそう認めた。「わたしの軍が小さい理由は二つあります」
「一つは、兵を養う財がないことです」アルナは言った。「脈石の収益に依存していた。その脈石が、今は細り続けている」翔は地図を見た。赤い点から伸びる補給路。財がなければ、補給も兵も動かせない。三千という数字が、急に別の重さを持った。
「もう一つは」アルナは少し声を落とした。「国内の拠点防御に兵を割いているからです」
翔は黙って聞いた。「七つの聖塔、三つの補給中継地、国境に沿った哨戒線。それぞれに最低限の守備兵を置かなければ、鋼冠軍は本国を侵しながら前線を押してくる。だから動かせる兵力は、常に限られる」
「三千で、どうするんですか」
「取り戻します」
アルナの声に、揺らぎはなかった。
「灰骨砦は小さい。本軍が来る前に、陽動と奇襲で制圧する。それが今できる最善です」
カイが口を開いた。「出発は明後日。今夜から翔の訓練を増やす」
「え」
「砦攻略までに鎧の出力を上げる。間に合うかどうかは本人次第だ」
翔は返す言葉を探した。見つからなかった。「異議は」カイが訊いた。「……ないです」
訓練のためではない。人が生きる時間そのものを稼ぐために、自分は行くのだと、翔はようやく理解した。
評議室を出た後、廊下でカイが翔を呼び止めた。
「一つだけ」カイは言った。振り返らなかった。翔も、カイの背中を見たまま、廊下の壁に寄って立ち止まった。「砦を取り戻したら、東部の集落に入る。そこで何を見ても、観測の対象として記録しろ。感情は後回しだ」
翔は少し間を置いた。「……はい」
「記録は、残す。感情は、残さない」カイは言った。「残すと、次の判断が狂う」
翔はその言葉を、頭の中で反芻した。カイの声は、いつもより、ほんの少しだけ低かった。何かを自分に向かって言っているようにも聞こえた。
「カイさんは」翔は言った。「今もそうしてるんですか」
カイは答えなかった。
ただ、しばらくして、カイは小さく付け加えた。
「お前がこの先、砦で、あるいは戦場で、観測の対象を個人として見たくなる瞬間が来る」
「……はい」
「その時、お前が何を選ぶかは、お前が決める」
「カイさんなら、どうしますか」
カイは、少し間を置いた。
「……私は、選ぶ機会に、間に合わなかった」
それだけだった。カイは歩いていった。その背中に、翔は質問を重ねなかった。カイの外套の裾が、歩調に合わせて微かに揺れていた。
翔が廊下を抜けて中庭に出かけた時、評議室の方から声が聞こえた。
アルナとシルバだった。
翔は立ち止まらなかった。立ち止まって聞くようなことではないと、翔には分かった。ただ、通り過ぎる間に、シルバの低い声が切れ切れに届いた。
「……兵は七台。ルーも連れていく」
「報酬は」
「この戦の分は、要らない」
アルナは少し間を置いたようだった。
「なぜ」
「俺たちが必要な時に、王女の名前を貸してもらう。今回でなくていい。いつか」
アルナの返事は、翔には聞こえなかった。でも、交渉はそこで終わったらしかった。扉が閉まる音がして、翔はもう声を追わなかった。
中庭に出ると、日が傾き始めていた。シルバックの傭兵団が、今回の戦の報酬を受け取らない。その代わりに「王女の名前を貸してもらう」という交換。翔は、シルバが何を引き出そうとしているのか、理解できないまま、その重さだけを、体で感じていた。
その夜、翔は城壁の外から豊原盟市の灯りを見ていた。市場の音が遠くから聞こえる。ミナが隣に来た。
「行くの?」ミナが言った。
「行く」翔は答えた。
ミナは少し黙っていた。それから、城壁の別の方向を指さした。
「あそこにも、誰かいる」
翔は視線を上げた。城壁の北側、一段高くなった露台に、外套を羽織った影が立っていた。アルナだった。一人だった。護衛はいなかった。外套の襟を首元で掴んで、風に背を向けるように、街の方ではなく、遠くの平原の方を見ていた。
翔は、声をかけなかった。かけるべきではないと、直感で分かった。アルナは今、王女として立っている夜ではなかった。評議室で三千を取り戻すと宣言した自分を、一人で確認しなおしている夜だった。
ミナも、翔と一緒に、遠くからアルナを見ていた。
「あの人」ミナは言った。「わたしが見てきた、王族の人たちの中で、一番、自分に嘘をつかない」
「嘘をつかない、って」
「自分が怖いことを、怖いって認める」ミナは言った。「認めた上で、それでも前に出る。王族の中では、珍しい」
「ミナは、そういう人、何人も見てきたのか」
「何人か」
ミナはそれ以上は言わなかった。翔も聞かなかった。ミナの『何人か』が、どんな時代の何人かなのか、翔にはまだ測れなかった。測れないまま、ミナがアルナを認めたことを、翔は受け取った。
翔はアルナの背中を、遠くから見続けた。アルナの外套の裾が、風でわずかに揺れていた。翔とミナが見ていることに、アルナは気づいているかもしれないし、気づいていないかもしれなかった。どちらでも、アルナは一人で立っていた。その一人を、翔は、ただ見守ることしかできなかった。
宿屋に戻る途中、ミミと鉢合わせた。市場の帰りらしかった。手に干し肉の包みを持っていた。
「行くんだね」ミミは翔の顔を見て、最初の一言でそう言った。
「お前も行くのか」
「行く。カイに言われた。お前の護衛」
「護衛」翔は少し複雑な顔をした。「俺、もう少し戦えるようになってから行きたかったな」
「そんな日、一生来ないでしょ」
「ひどい」
ミミは笑って、翔の肩を一度だけ軽く叩いて、先に宿の中に入っていった。叩き方は、翔より子供相手の叩き方だった。翔は少し不満だった。不満なまま、自分が少しだけ励まされていることにも、気づいていた。




