機は熟した
カイに呼ばれたのは、朝の訓練が終わった直後だった。
「座れ」
いつもと同じ言葉だった。だが机の上に髭紙はなく、手帳も開かれていない。カイはただ椅子に腰を下ろし、眼鏡の奥の瞳を翔へ向けていた。
翔は木箱に腰を下ろした。棚の封じられた紙束が、今日も変わらずそこにある。翔はもう、意識的に目を逸らさなくなっていた。逸らす必要がなくなったわけではない。ただ、逸らし続けることに疲れた。
「明朝、出る」
カイが口を開いたのは、しばらく沈黙が続いた後だった。
翔は背筋を伸ばした。「どこへ」
「北だ」
それだけだった。翔は待った。もう少し、何か続くのではないかと思った。続かなかった。
「……理由は」
「機は熟した」
カイはいつも通りの姿勢で椅子に座っていた。手帳も開かない。ペンも握らない。ただ、翔を見ていた。
翔は少し迷った。何を聞いていいか分からなかった。「俺も行くんですか」
「行く」
「なんで」
カイは少し間を置いた。それから、翔が予期しなかった短さで答えた。
「必要だからだ」
翔は眉をひそめた。「必要って、何にですか」
カイは答えなかった。答えないまま、立ち上がった。外套を羽織り、手帳をポケットへ収める。いつもの動作だった。だが扉に手をかける直前、カイは一度だけ棚の方へ視線を向けた。
封じられた紙束。翔は見ていた。カイがあの紙を見たのは、翔が知る限り、これが初めてだった。
一秒にも満たない、ほんの一瞬だった。それからカイは、また前を向いた。
「ミミにも話を通してある。出発は明朝だ」
扉が開き、朝の光が差し込んだ。カイの背中が、路地の先へと消えていく。
翔は木箱の上で、しばらく動かなかった。
「……いつもこうだよな、あの人」翔は小さく言った。「肝心なところで説明しない」
ミナは返事をしなかった。翔は振り返った。ミナは棚の紙束の方を見ていた。その横顔が、いつもと少しだけ違った。何かを知っている顔だった。
「ミナ」
「うん」
「何か、知ってるのか」
ミナは少し間を置いた。「……カイさんは、嘘は言ってないと思う」
「そんなのは知ってる」
「でも、全部は言ってない」
「それも知ってる」翔は苦く笑った。「聞きたいのは、あの人が何を言わなかったのかだ」
ミナは棚の紙束を見たままだった。しばらくして、ミナはゆっくりと目を伏せた。
「あなたが落ちてきた日」ミナは言った。「空鯨の鼓動が、一瞬だけ揃った」
翔は息を止めた。
「揃うって、どういう意味だ」
「最近、鼓動がずっと乱れてる。何年も前から。色んな場所で、少しずつ。でも、あなたが落ちてきた瞬間、その乱れが一拍だけ止まった。わたしは見てた」
翔は自分の手のひらを見た。髭紙を初めて浮かせた日。脈騎の導管が光った朝。鎧が身体と一体化した瞬間。あの感触が、今更ながら違う意味を持って甦ってくる。
「俺が、何かを持ってるのか」
「持ってる、というより」ミナは少し言葉を探した。「揃ってる。空鯨の鼓動と、あなたの鼓動が、合う。それだけ」
「それだけ、で充分なのか」
「充分だと判断したから、カイさんは動いた」
翔はミナを見た。ミナは翔を見ていた。
「ミナは、いつから知ってた」
「最初から」
「言わなかったのは」
「聞かれなかったから」
返す言葉がなかった。翔は立ち上がり、一度だけ棚の紙束を見た。カイが見た場所を、同じように見た。
何も変わらない。ただの、封じられた紙だった。でも翔には分かっていた。この男がここを離れる時、あの紙をどうするのかを。持っていくのか、置いていくのか。それだけで、カイという人間の答えが全部わかる気がした。
翔は小屋を出た。
豊原盟市の朝が、いつもと同じように始まっていた。荷甲虫の足音。胞子パンの匂い。霊体商人の白い光。
翔はその全部を、一度だけゆっくりと見渡した。ここに来て初めて、この街に別れを告げている自分がいた。
酒場通りの角で、翔はミミを見かけた。
ミミは酒場の裏口の木箱に腰を下ろしていた。双刃を膝の上に並べて、布で拭いていた。拭くというより、ただ触っている、という手の動きだった。翔は近づこうとして、止まった。今、声をかけるのが正しいのか、分からなかった。
ミミの方が先に、翔に気づいた。
「何」ミミは言った。顔は上げなかった。
「いや」翔は少し迷った。「明日、出るって」
「聞いた」
「一緒に、行くんだってな」
「聞いた」
翔は、次に何を言うかを探した。明日、死ぬなよ——そう言いたかったのかもしれなかった。でも、言えなかった。言うと、明日が本当に死ぬような日になる気がした。翔は、その言葉を、口の奥で止めた。
ミミは、拭く手を止めた。
「なんか、言いかけたでしょ」
「……言いかけた」
「言わないの」
「言わない」
「そっか」ミミはそれだけ言って、また布を動かし始めた。「別に、いいけど」
翔はそれ以上、近づかなかった。ミミもそれ以上、顔を上げなかった。二人の間に、言わなかった一言が、夜風の中で、そのまま形を保ったまま残っていた。
翔は踵を返した。路地の方へ歩き出した。歩きながら、翔は、言わなかった一言が、いつか言えるようになる日が来るかを考えた。来ないかもしれなかった。来ないままでも、今夜は、言わないことを選んだ——それが自分の答えだと、翔は思った。
背後で、ミミが双刃を拭く布の音が、続いていた。
足元の鼓動に、意識を合わせた。どくん、どくん。いつもと同じリズムだった。でも今は、その一拍一拍の中に、自分の心臓が混ざり込んでいるのが分かる気がした。ミナが言った通りだった。揃っている。揃っているから、カイは動くことを決めた。
翔は息を吐いた。
どくん。空鯨の鼓動が、翔の足の裏を力強く押し上げた。




