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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――9ページ目
「失いたくない人」
佐伯蓮の呼吸は浅かった。
苦しそうに胸元を押さえたまま、ベッドへ身体を預けている。
桐谷紗月は震える指でスマートフォンを握りしめた。
「救急車呼びます」
「……だめ」
「駄目です!」
思わず声が強くなる。
怖かった。
目の前で蓮が消えてしまいそうで。
「お願いだから……」
蓮は苦しそうに笑った。
「少し休めば落ち着く」
「そんな顔で言わないでください」
声が震える。
蓮は何か言おうとしたが、その前に再び咳き込んだ。
「っ……!」
「佐伯さん!」
紗月は反射的に背中を支える。
細い。
男の身体なのに、驚くほど弱々しい。
「……ごめん」
「謝らないで」
その言葉はほとんど反射だった。
「お願いだから、もう無理しないでください」
紗月は必死だった。
こんなふうに感情を露わにするのは久しぶりだった。
いや、初めてかもしれない。
誰かが苦しんでいる姿を見て、ここまで怖くなるのは。
「……桐谷さん」
蓮が静かに名前を呼ぶ。
その声が弱くて、胸が締めつけられる。
「そんな顔されたら」
苦しそうに笑う。
「本当に離れられなくなる」
紗月は何も言えない。
代わりに、彼の手を強く握った。
冷たい。
指先が驚くほど冷えている。
「……冷たい」
「昔からです」
「嘘」
紗月は首を横に振る。
「無理してる人の手です」
蓮は少し目を見開いた。
そして、小さく笑う。
「ほんと、敵わないな」
その瞬間。
紗月は気づいてしまう。
もう完全に遅かった。
この人を失いたくない。
心の奥ではっきりそう思っている。
◇
一時間後。
薬が効いたのか、蓮の呼吸は少し落ち着いていた。
紗月はようやく小さく息を吐く。
「……帰らなくていいんですか」
蓮が聞く。
「帰れません」
「どうして」
「放っておけないので」
「それ、何回目だろ」
苦しそうなのに、蓮は笑った。
「俺、かなり幸せですね」
「そんな言い方しないでください」
まただ。
蓮は時々、“終わり”を前提にした言葉を使う。
まるで限られた時間を確認するみたいに。
「……怖かったんです」
気づけば、紗月は呟いていた。
蓮が静かにこちらを見る。
「さっき」
声が震える。
「本当に、いなくなるかと思った」
その瞬間。
蓮の表情が変わった。
優しくて、苦しそうで、泣きそうな顔。
「そんなふうに言わないで」
彼は小さく笑う。
「期待するから」
「期待していいじゃないですか」
「よくない」
蓮はゆっくり目を閉じる。
「俺、ちゃんと終わる人だから」
胸が強く痛んだ。
「……嫌です」
紗月は即座に言う。
「そういう言い方」
「でも事実です」
「事実でも嫌です」
自分でも驚くほど強い声だった。
蓮は少し黙る。
そして、静かに紗月を見る。
「なんでそんなに必死なんですか」
その問いに、紗月は答えられなかった。
分かっているから。
もう気づいている。
自分の気持ちに。
「……分かりません」
やっとそれだけ絞り出す。
蓮は困ったように笑った。
「俺は分かります」
「え?」
「あなたのこと、好きだから」
時間が止まった。
雨音だけが静かに響く。
紗月は息をするのも忘れた。
蓮は視線を逸らさない。
逃げ道を与えないくらい真っ直ぐに、紗月を見ている。
「最初は、綺麗な人だと思っただけでした」
静かな声。
「でも、話してるうちに分かった」
蓮は苦しそうに笑う。
「あなた、すごく寂しい人だ」
胸が揺れる。
「なのに、自分より他人優先する」
「……そんなこと」
「ある」
即答だった。
「だから放っておけなくなった」
紗月は何も言えない。
こんなふうに真っ直ぐ気持ちを向けられるのは、いつぶりだろう。
怖い。
でも嬉しい。
嬉しいと思ってしまう自分が、一番怖かった。
「……私は」
やっと声を出す。
「佐伯さんみたいに、器用じゃないです」
「器用?」
「ちゃんと好きとか、もう分からない」
亮介に裏切られてから、ずっと怖かった。
また信じてしまうことが。
また壊れることが。
「でも」
紗月は蓮の手を握る。
「いなくなったら嫌だって思う」
その言葉に、蓮の目が揺れた。
深く。
苦しそうに。
「……それ、反則」
「何がですか」
「そんなこと言われたら」
蓮は笑った。
でもその目には涙が滲んでいる。
「もっと生きたくなる」
紗月の胸が締めつけられる。
この人は、本当は生きたい。
未来を諦めたふりをしていただけで。
「だったら」
紗月は静かに言った。
「生きてください」
蓮が息を呑む。
「ちゃんと病院行って、治療して、無理しないで」
声が震える。
「私……もう、後悔したくない」
亮介との恋は、後悔ばかりだった。
信じればよかった。
もっと怒ればよかった。
もっと泣けばよかった。
色んな感情を押し殺して、最後には何も残らなかった。
だから今度は。
逃げたくなかった。
「……桐谷さん」
蓮がゆっくり身体を起こす。
「近づいたら、あなたも苦しくなる」
「もう苦しいです」
紗月は笑った。
泣きそうなまま。
「今さらです」
その瞬間。
蓮が静かに紗月の頬へ触れた。
熱を確かめるみたいに、優しく。
紗月の呼吸が止まる。
「……駄目だ」
蓮は苦しそうに呟く。
「本当に、好きになる」
その声があまりにも切なくて、紗月の胸は強く痛んだ。
逃げなきゃいけない。
本当は分かっている。
でも。
もう離れたくなかった。
その時だった。
医務室のドアがノックされる。
「桐谷さん、いる?」
高瀬の声だった。
紗月は慌てて立ち上がる。
「は、はい!」
ドアが開き、高瀬が入ってくる。
そしてベッド脇の二人を見て、一瞬だけ表情を止めた。
「……取り込み中だった?」
「ち、違います」
紗月は顔が熱くなる。
高瀬は小さく笑った。
「佐伯さん、大丈夫そう?」
「ご迷惑おかけしました」
蓮が頭を下げる。
「いや。無理しないでくださいね」
高瀬は穏やかに答えた。
だが次の瞬間。
彼は紗月へ静かに視線を向ける。
「桐谷さん、少しいい?」
その声に、紗月は微かな違和感を覚えた。
高瀬は普段こんな言い方をしない。
廊下へ出ると、高瀬はしばらく黙っていた。
そして静かに言う。
「……君、彼のこと好きになってる?」
心臓が大きく跳ねた。
紗月は言葉を失う。
高瀬は困ったように笑う。
「図星か」
「……違います」
「その否定の仕方、昔と同じだね」
紗月は唇を噛む。
「高瀬さん」
「止めるつもりはないよ」
優しい声だった。
「ただ、傷つく覚悟だけはしておきなさい」
その言葉が胸に刺さる。
「彼、たぶん」
高瀬は静かに続ける。
「君が思ってるより、ずっと危うい」
廊下の窓を、雨粒が静かに流れていく。
紗月はその雨を見つめながら、強く胸を押さえた。
もう引き返せないところまで来てしまったのだと、痛いほど分かっていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




