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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――8ページ目
「知ってしまった痛み」
医務室に重い沈黙が落ちた。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
桐谷紗月は立ち尽くしたまま、佐伯美緒と蓮を交互に見た。
『自分がどんな状態か分かってるでしょ』
その言葉が頭の中で何度も反響する。
蓮は静かに目を伏せていた。
観念したような、諦めたような横顔。
「……美緒」
低い声で蓮が言う。
「やめろ」
「やめられないよ!」
美緒の声は震えていた。
「お兄ちゃん、また倒れたんだよ!? この前だって病院で――」
「美緒」
少し強い声。
美緒は唇を噛み、そこでようやく言葉を飲み込んだ。
けれど、その目には涙が浮かんでいる。
紗月はゆっくり息を吸った。
「……私、席外します」
踏み込んではいけない気がした。
まだ自分は“ただのホテルスタッフ”でしかない。
けれど。
「待って」
蓮が紗月の手首を掴んだ。
弱い力だった。
それなのに、胸が大きく揺れる。
「……いてほしい」
その一言が、紗月の足を止めた。
美緒が驚いたように兄を見る。
蓮はしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……隠すつもりだったんです」
紗月は何も言えない。
「短期滞在のつもりだったし、誰とも深く関わらないつもりだった」
蓮は苦笑する。
「なのに、失敗しました」
その目が紗月を見る。
優しくて、ひどく寂しい目。
「佐伯さん……」
「俺、心臓悪いんです」
世界が静かになった気がした。
雨音さえ遠くなる。
「拡張型心筋症って病気で」
蓮は淡々と言った。
「簡単に言うと、心臓がちゃんと動かなくなる」
紗月の指先が冷える。
嫌な予感はしていた。
でも、本当に聞きたかったわけじゃない。
「治療は……?」
「してますよ」
蓮は笑う。
「ただ、完全には治らない」
その言葉の意味を、紗月は理解してしまった。
胸が痛い。
苦しい。
「……どうして」
声が震える。
「どうしてそんな普通に言えるんですか」
「普通に言わないと、周りが泣くから」
蓮は冗談っぽく笑った。
でもその笑顔は、痛いほど無理をしていた。
「お兄ちゃん」
美緒が涙声で言う。
「ちゃんと入院して。お願いだから」
「今はまだ大丈夫」
「またそれ言う!」
美緒はとうとう泣き出した。
「怖いんだよ……急に連絡取れなくなるの……!」
蓮は何も言えなくなる。
その沈黙が、全部を物語っていた。
紗月は胸が締めつけられる。
この人はずっと、一人で死の気配を抱えていたのだ。
笑いながら。
優しくしながら。
平気なふりをしながら。
「……ごめん」
蓮が小さく言った。
その謝罪に、美緒は首を横に振る。
「謝ってほしいんじゃない」
涙を拭いながら、美緒は紗月を見る。
「兄、昔から無茶ばっかりするんです」
困ったように笑う。
「写真撮ってる時だけ、自分が壊れるの忘れるから」
紗月は静かに蓮を見る。
彼は視線を逸らした。
「……幻滅しました?」
ぽつりと落ちた声。
紗月は息を呑む。
「病気持ちとか、面倒ですよね」
「何言って……」
「だから言ったんです」
蓮は苦く笑った。
「知られたら、離れていく人もいるって」
その瞬間。
紗月の胸の奥で何かが切れた。
「最低です」
気づけば、そう言っていた。
蓮が目を見開く。
「え?」
「どうして勝手に決めるんですか」
感情が抑えられなかった。
「病気だから嫌われるとか、面倒だとか、そんなふうに決めつけないでください」
蓮は言葉を失う。
紗月自身も驚いていた。
こんなふうに感情をぶつけたのは久しぶりだった。
「私は……」
胸が苦しい。
「私は、そんなことで離れたりしません」
言った瞬間、自分で気づいてしまう。
ああ。
もう遅い。
自分はこの人を、本気で大切に思い始めている。
蓮は静かに紗月を見つめた。
その目が揺れている。
まるで、信じたいのに信じるのが怖い子供みたいに。
「……優しすぎます」
「違います」
紗月は小さく首を振る。
「ただ、悲しいだけです」
「え?」
「そんなふうに、自分がいなくなる前提で笑ってるのが」
蓮の表情が止まる。
紗月は気づいていた。
この人は最初から、終わりを覚悟している。
だから誰とも深く関わらないようにしていた。
傷つけないために。
置いていかれる痛みを残さないために。
「……桐谷さん」
蓮が静かに名前を呼ぶ。
その声が、少し震えていた。
「困るな」
「何がですか」
「そんなふうに言われると」
蓮は苦しそうに笑った。
「生きたくなる」
その言葉に、紗月の目頭が熱くなる。
駄目だ。
泣きたくない。
でも胸が痛かった。
どうしてこの人は、こんなにも孤独なんだろう。
どうして一人で抱え込もうとするんだろう。
「お兄ちゃん」
美緒が静かに言う。
「……やっと誰かに弱いところ見せたね」
蓮は困ったように笑う。
「見せるつもりなかった」
「顔、全然違う」
「え?」
「その人といる時だけ、ちゃんと生きてる顔してる」
紗月の胸が大きく揺れる。
蓮は少し黙り込み、やがて静かに目を閉じた。
「……困ったな」
また同じ言葉。
でも今度は、どこか諦めたような声だった。
◇
美緒が帰ったあと。
医務室には再び二人だけが残っていた。
雨はまだ降っている。
紗月は椅子へ座ったまま、小さく息を吐いた。
「……怒ってます?」
蓮が聞く。
「少し」
「やっぱり」
「どうして言わなかったんですか」
蓮はしばらく黙っていた。
そして静かに言う。
「好きになったら、苦しくなるから」
紗月の心臓が止まりそうになる。
「俺みたいなの、関わらない方がいい」
その言葉が痛かった。
「……勝手ですね」
「はい」
「本当にずるい」
「分かってます」
蓮は笑う。
でもその笑顔は泣きそうだった。
「だから最初、ちゃんと離れるつもりだったんですよ」
「離れてませんけど」
「無理でした」
真っ直ぐ言われ、紗月は息を呑む。
蓮は静かに続ける。
「あなたといると、普通に未来を考えそうになる」
その一言が胸を締めつけた。
未来。
この人は、本当は誰より未来を欲しがっている。
なのに諦めようとしている。
「……佐伯さん」
「はい」
「私、簡単に離れません」
気づけば、そう言っていた。
もう止められなかった。
「だから、一人で決めないでください」
蓮は何も答えなかった。
ただ。
今にも壊れそうな顔で笑った。
そして次の瞬間。
「っ……」
突然、蓮の身体が大きく揺れる。
「佐伯さん!?」
苦しそうに胸元を押さえ、呼吸が乱れる。
顔色が一気に白くなる。
紗月の血の気が引いた。
「待って、今すぐ救急車――」
「だめ」
蓮が弱く首を振る。
「お願い……まだ」
「でも!」
その時だった。
蓮が震える手で、紗月の腕を掴む。
「……少しだけ」
苦しそうな呼吸の合間。
「このまま、いて」
その声があまりにも弱くて、紗月の胸は強く締めつけられた。
外では雨が静かに降り続いている。
まるで、二人の孤独を隠すように。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




