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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――10ページ目
「幸せが怖い」
高瀬の言葉は、夜が明けても紗月の胸に残っていた。
『傷つく覚悟だけはしておきなさい』
窓の外は曇り空だった。
昨夜の雨がまだ街に残っている。
桐谷紗月は出勤前、自宅マンションの鏡の前で立ち尽くしていた。
顔色は悪い。
眠れなかった。
佐伯蓮のことばかり考えてしまう。
『俺は、あなたのこと好きだから』
あの声。
苦しそうな笑顔。
弱々しい手の温度。
思い出すたび胸が締めつけられる。
「……駄目だな」
ぽつりと呟く。
もう認めるしかなかった。
自分は蓮に惹かれている。
怖いほど。
◇
ホテルへ着くと、ロビーは朝の客で賑わっていた。
チェックアウトの列。
観光客の笑い声。
いつもと変わらない景色。
なのに紗月の心だけが落ち着かない。
「桐谷さん」
後輩スタッフが駆け寄ってくる。
「佐伯さん、さっき外出されましたよ」
胸がざわつく。
「……体調、大丈夫そうでした?」
「普通に見えましたけど」
普通に見せるのが上手いだけだ。
紗月は無意識に唇を噛む。
昨日の苦しそうな顔が頭から離れない。
「桐谷さん?」
「え?」
「大丈夫ですか?」
「……うん」
大丈夫じゃない。
でも、そう言うしかなかった。
◇
昼過ぎ。
休憩に入った紗月は、無意識に絵里奈のカフェへ向かっていた。
扉を開けると、コーヒーの香りが広がる。
「いらっしゃ――って、顔やば」
絵里奈が開口一番そう言った。
「そんな酷い?」
「恋してる顔」
即答だった。
紗月は思わず固まる。
「……否定しないんだ」
「できない」
絵里奈は小さく笑った。
「で? 何があったの」
紗月は少し迷ったあと、昨日のことを話した。
蓮の病気。
医務室での会話。
“好き”と言われたこと。
全部。
絵里奈は黙って聞いていた。
そして最後に、小さく息を吐く。
「……重いね」
「うん」
「でも、あんたもう好きじゃん」
紗月は何も言えない。
図星だった。
「怖い?」
「怖い」
即答だった。
「また失うのが?」
「それもある」
紗月はコーヒーカップを見つめる。
「でも、一番怖いのは」
胸が少し痛む。
「幸せになりたいって思い始めてる自分」
絵里奈は静かに目を細めた。
「……そっか」
紗月は昔から、幸せを期待しないようにしてきた。
期待すれば、壊れた時に苦しいから。
だから恋愛から逃げた。
一人でいる方が安全だと思っていた。
でも蓮といると、欲が出る。
もっと話したい。
もっと笑ってほしい。
一緒にいたい。
そんな感情が止まらない。
「好きになるほど、苦しくなるの分かってるのに」
「恋愛なんてそんなもん」
絵里奈は苦笑した。
「でもさ、紗月」
「ん?」
「苦しいだけの顔してないよ」
紗月は目を瞬く。
「今のあんた、ちゃんと生きてる顔してる」
その言葉に、胸が静かに揺れた。
◇
夕方。
ロビーへ戻ると、蓮が窓際のソファに座っていた。
カメラを膝に置き、外の雨を見ている。
その横顔を見た瞬間、紗月の心臓が少し速くなった。
蓮が気づき、ふっと笑う。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
紗月は彼の前へ立つ。
「体調は?」
「大丈夫」
「信用できません」
「厳しいなあ」
蓮は困ったように笑った。
でも昨日より顔色はいい。
それだけで少し安心する自分がいた。
「ちゃんと薬飲みました?」
「飲みました」
「病院は?」
「それは……」
「行ってください」
強めに言うと、蓮が苦笑する。
「怒ってる」
「怒ってます」
紗月は腕を組んだ。
「昨日、どれだけ怖かったと思ってるんですか」
蓮は少し黙る。
そして静かに言った。
「……嬉しかった」
「え?」
「そんなふうに言ってくれる人、あんまりいなかったから」
その声が優しくて、胸が痛む。
蓮は昔から、一人で抱え込んできたのだろう。
弱音を吐かず。
迷惑をかけないように。
消える準備をするみたいに。
「佐伯さん」
「はい」
「私、簡単に慣れませんから」
蓮が不思議そうに目を細める。
「慣れる?」
「あなたが無理するの」
紗月は真っ直ぐ蓮を見る。
「だから、ちゃんと生きてください」
沈黙。
ロビーの雑音が遠く聞こえる。
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「……ずるいな」
「何がですか」
「そんなこと言われたら」
蓮の目が少し潤む。
「本当に、未来欲しくなる」
紗月の胸が締めつけられる。
未来。
その言葉がこんなに切ないなんて知らなかった。
「欲しがってください」
紗月は静かに言った。
「諦めないで」
蓮はゆっくり視線を落とす。
「怖いんですよ」
「……うん」
「期待した後で終わるの」
その声は、ひどく弱かった。
紗月は思わず彼の隣へ座る。
近い。
でも不思議と嫌じゃない。
「私も怖いです」
紗月は小さく笑った。
「また傷つくの」
「……それでも?」
「それでも」
答えた瞬間、自分で驚く。
でも嘘じゃなかった。
蓮と出会ってから、ずっと怖かった。
けれど、それ以上に。
一緒にいたいと思ってしまった。
蓮はそんな紗月を見つめる。
静かに。
愛おしそうに。
「……キスしたら」
低い声。
「もっと戻れなくなりますよ」
紗月の呼吸が止まる。
心臓がうるさい。
逃げなきゃと思うのに、身体が動かない。
「佐伯さん」
「はい」
「今、ずるい顔してます」
蓮が小さく笑う。
「知ってます」
そして。
ゆっくりと、紗月の頬へ触れた。
熱い。
触れられた場所から、心まで熱くなる。
「……嫌なら止めて」
その声が震えていた。
怖いのだ。
蓮も。
きっと同じくらい。
紗月は目を閉じる。
逃げなかった。
次の瞬間。
優しく唇が重なる。
触れるだけの、短いキス。
なのに胸が痛いほど苦しい。
好きだと思ってしまう。
もう完全に。
蓮がゆっくり離れる。
額を寄せたまま、小さく笑った。
「終わった」
「え?」
「理性」
紗月は思わず吹き出す。
涙が出そうなのに、笑ってしまった。
蓮はそんな紗月を見て、幸せそうに目を細める。
その顔が眩しかった。
だからこそ怖い。
この幸せが、いつか壊れる気がして。
その時だった。
ロビーの自動ドアが開く。
雨の匂いと共に、一人の男が入ってきた。
「……紗月」
聞き慣れた声。
紗月の身体が強張る。
黒川亮介だった。
亮介は紗月と蓮を見て、表情を止める。
そして次の瞬間。
目に見えて顔色を変えた。
「……誰、その男」
ロビーの空気が、一気に張り詰めた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




