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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――11ページ目
「さよならより痛いもの」
ロビーの空気が凍りついた。
雨音だけが静かに響いている。
黒川亮介は、紗月と蓮を交互に見ていた。
その目には、驚きと焦りと、わずかな怒りが混ざっている。
「……誰、その男」
低い声だった。
紗月は反射的に立ち上がる。
さっきまでの柔らかな空気が、一瞬で壊れてしまった。
「亮介」
「答えて」
亮介の視線が蓮へ向く。
蓮はソファに座ったまま、静かに亮介を見返した。
その横顔には感情が見えない。
けれど紗月には分かった。
蓮は今、自分を抑えている。
「宿泊のお客様です」
紗月はあえて事務的に答える。
しかし亮介は笑わなかった。
「客とキスするんだ」
その言葉に、紗月の顔から血の気が引く。
見られていた。
さっきの瞬間を。
蓮がゆっくり立ち上がる。
「……言い方、気をつけた方がいいですよ」
静かな声だった。
だが空気が変わる。
亮介も負けじと蓮を見る。
「あなたには関係ない」
「あります」
蓮ははっきり言った。
「彼女、嫌がってる」
紗月の心臓が跳ねる。
“彼女”。
その言葉が胸に残った。
亮介は苛立ったように舌打ちする。
「紗月」
昔と同じ声。
優しく名前を呼ぶ声。
でも、もう昔みたいに心は揺れなかった。
「本気なの?」
亮介が言う。
「そんな男と」
紗月は眉をひそめる。
「どういう意味」
「見れば分かるだろ」
亮介は蓮を見ながら続けた。
「顔色最悪じゃん。まともじゃない」
その瞬間。
紗月の中で何かが切れた。
「やめて」
強い声が出る。
亮介が目を見開く。
「紗月?」
「佐伯さんのこと、何も知らないくせに」
胸が熱い。
怒りで。
悲しみで。
「軽く言わないで」
亮介は言葉を失った。
紗月自身も驚いていた。
こんなふうに誰かを庇うなんて。
でも止まらなかった。
「私を傷つけた人に、佐伯さんを悪く言う資格ない」
亮介の顔が苦しそうに歪む。
「……まだ怒ってるのか」
「当たり前でしょ」
紗月は笑った。
乾いた笑いだった。
「四年だよ?」
胸の奥の傷が疼く。
「私、どれだけ苦しかったと思ってるの」
亮介は何も言えない。
「信じてたのに」
声が震える。
「結婚すると思ってたのに」
ロビーの照明が滲む。
泣きたくなんかなかった。
でも、ずっと押し込めてきた感情が溢れそうになる。
「私はあの日、本当に全部壊れた」
亮介が小さく「ごめん」と呟く。
でももう遅い。
「今さら謝られても、戻れない」
紗月ははっきり言った。
「私はもう、あの頃の私じゃない」
静かな沈黙。
亮介はしばらく俯いていた。
やがて、苦しそうに笑う。
「……そっか」
その声は少し掠れていた。
「本当に終わったんだな」
紗月は答えなかった。
もう答える必要もない気がした。
亮介は最後に蓮を見る。
「……あんた、ちゃんと幸せにできるの?」
その一言に、紗月の胸がざわつく。
蓮の表情が止まった。
亮介は続ける。
「病気なんだろ」
紗月が息を呑む。
「紗月泣かせるなよ」
その言葉は皮肉ではなかった。
本気で言っている顔だった。
蓮は静かに目を伏せる。
「……約束はできません」
紗月の胸が痛む。
でも蓮は続けた。
「でも、泣かせたくないとは思ってます」
亮介は少しだけ目を細めた。
そして小さく笑う。
「そっか」
それ以上は何も言わず、亮介は踵を返した。
自動ドアが開く。
雨の匂いが流れ込む。
出ていく直前、亮介は振り返らずに言った。
「……ちゃんと幸せになれよ」
ドアが閉まる。
静寂。
紗月はその場に立ち尽くした。
終わったのだ。
本当に。
四年間、自分を縛っていた過去が。
「……大丈夫ですか」
蓮の声で我に返る。
紗月は小さく息を吐いた。
「うん」
涙は出ていなかった。
不思議なくらい、心は静かだった。
「終わりました」
そう言うと、蓮が少しだけ安心したように笑う。
「よかった」
「……佐伯さん」
「はい」
「さっき、どうして」
「ん?」
「“幸せにできるか分からない”って」
胸が少し痛む。
蓮は視線を逸らした。
「だって本当だから」
「私は、そんな約束求めてません」
紗月は真っ直ぐ彼を見る。
「未来がどうなるかなんて、誰にも分からない」
亮介とだって、永遠だと思っていた。
でも壊れた。
なら、最初から終わりを恐れて逃げるのは違う気がした。
「私は今」
紗月は小さく笑う。
「佐伯さんと一緒にいたいだけです」
その言葉に、蓮の呼吸が止まる。
「……それ、ずるい」
「また言った」
「だって」
蓮は苦しそうに笑う。
「本当に、生きたくなるから」
紗月は静かに蓮へ近づく。
そしてそっと、彼の手を握った。
「生きてください」
その瞬間。
蓮の目に、初めてはっきりと涙が浮かんだ。
紗月は胸が締めつけられる。
この人は、ずっと一人で怖かったのだ。
死ぬことも。
残される人間を作ることも。
「……怖いんです」
蓮が掠れた声で言う。
「期待して、駄目だった時」
「うん」
「あなたを残していくの」
紗月は何も言えなくなる。
苦しい。
でも逃げたくなかった。
「それでも」
紗月は静かに言う。
「私は、逃げません」
蓮は泣きそうな顔で笑った。
そして。
紗月を抱きしめた。
優しく。
壊れ物に触れるみたいに。
「……好きです」
耳元で聞こえる低い声。
「本当に」
紗月の胸が熱くなる。
抱きしめ返した瞬間、蓮の身体がわずかに震えていることに気づいた。
怖いのだ。
この人も。
同じくらい。
「私も」
紗月は目を閉じる。
「好きです」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい涙が出そうになった。
怖かった。
でも嬉しかった。
もう、自分の気持ちから逃げなくていい気がした。
その時だった。
蓮のスマートフォンが震える。
彼は画面を見た瞬間、表情を止めた。
「……病院」
紗月の胸がざわつく。
蓮は電話に出る。
「はい……え?」
次第に彼の顔色が変わっていく。
「そんな急に……」
嫌な予感が走る。
蓮は静かに電話を切った。
そして数秒後。
苦く笑った。
「……入院、決まったみたいです」
その一言が、紗月の胸を強く締めつけた。
幸せを感じた直後だった。
まるで神様が、“永遠なんてない”と告げるみたいに。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




