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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
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「近づくほど、怖くなる」
翌日の午後。
空は曇っていた。
今にも雨が降りそうな灰色の雲が街を覆い、ホテルのロビーにも薄暗い光が落ちている。
桐谷紗月はフロントで予約確認をしながら、小さく息を吐いた。
昨夜、ほとんど眠れなかった。
理由は分かっている。
佐伯蓮のせいだ。
あの人の言葉や表情が、何度も頭に浮かんできた。
まるで静かな雨みたいに、少しずつ心へ入り込んでくる。
「……重症だな」
ぽつりと呟き、自分で苦笑する。
恋愛なんて、もうしないと思っていたのに。
いや。
これはまだ恋じゃない。
そう言い聞かせる。
ただ少し気になるだけ。
それだけだ。
「桐谷さん」
声をかけられ、紗月は顔を上げた。
総支配人の高瀬慎吾が立っていた。
落ち着いたグレーのスーツ姿。
ホテル全体をまとめる立場にある男だが、部下への気配りを忘れない人だった。
「少し疲れてる?」
「え?」
「珍しくぼーっとしてた」
高瀬は穏やかに笑う。
「無理しすぎないようにね」
「大丈夫です」
「その台詞、君は信用できない」
図星だった。
高瀬は昔から、紗月の無理を見抜く。
「今日、早めに上がってもいいよ」
「いえ、平気です」
「真面目だなあ」
困ったように肩をすくめる。
その時、自動ドアが開いた。
冷たい風と共に、蓮がロビーへ入ってくる。
今日は黒いニット姿だった。
カメラバッグを肩に掛け、少し眠そうな顔をしている。
紗月の視線が無意識に向いてしまう。
すると蓮がこちらに気づき、ふっと笑った。
「こんにちは」
その瞬間。
胸が少しだけ熱くなる。
「……こんにちは」
高瀬がそんな二人を見て、軽く目を細めた。
「お知り合い?」
「宿泊のお客様です」
紗月が即座に答えると、蓮が小さく笑う。
「距離置かれてますね」
「仕事中なので」
「昨日はもう少し優しかったのに」
「気のせいです」
高瀬は意味ありげに紗月を見る。
紗月はわざと視線を逸らした。
「桐谷さん」
蓮がカウンターへ近づく。
「おすすめの喫茶店あります?」
「喫茶店ですか?」
「雨の日って、コーヒー飲みたくなるんですよ」
紗月は少し考えた。
そして頭に浮かんだのは、絵里奈の店だった。
「……駅前にカフェがあります」
「へえ」
「落ち着いてて、静かです」
「じゃあ行ってみようかな」
蓮は嬉しそうに笑う。
「あなたのおすすめなら、間違いなさそうだ」
その言い方が妙に自然で、紗月は少し困る。
「別に普通のお店です」
「でも桐谷さんが選ぶ場所、なんか信用できる」
心臓が小さく跳ねた。
信頼、という言葉に弱い。
昔、亮介にも似たようなことを言われた。
だからこそ、簡単には喜びたくない。
「……期待しすぎです」
「じゃあ外れたら怒ります」
「理不尽ですね」
紗月が呆れたように返すと、蓮は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
そんな自分が怖かった。
◇
夕方。
雨が降り始めた。
窓ガラスを細かな水滴が滑り落ちていく。
紗月はロビーで書類整理をしていた。
その時だった。
背後で、何かが倒れる音がした。
「佐伯さん!?」
振り返ると、蓮がロビーのソファ横に手をついていた。
顔色が悪い。
呼吸も少し荒い。
「大丈夫ですか!?」
紗月は慌てて駆け寄る。
「……平気」
そう言いながら笑おうとするが、明らかに無理をしていた。
「平気じゃないです」
思わず強い口調になる。
蓮は少し驚いたように紗月を見た。
「ちょっと立ちくらみしただけ」
「顔真っ青です」
「寝不足かな」
嘘だ。
紗月には分かった。
これはただの寝不足じゃない。
でも蓮は、それ以上何も言わない。
「医務室行きます」
「そこまでじゃ」
「行きます」
半ば強引に肩を支える。
驚くほど体温が低かった。
「……軽い」
思わず漏れた言葉に、蓮が苦笑する。
「男として傷つくなあ」
「冗談言ってる場合じゃないです」
紗月は真剣だった。
自分でも驚くくらい。
蓮が苦しそうにしているのを見ると、胸がざわつく。
怖かった。
この人が壊れてしまいそうで。
「桐谷さん」
医務室へ向かう途中、蓮がぽつりと言う。
「そんな顔しないで」
「……どんな顔ですか」
「泣きそう」
紗月は足を止める。
そんな顔、していたのだろうか。
「してません」
「してますよ」
蓮は静かに笑った。
「優しいですね」
その言葉が胸に痛かった。
優しいんじゃない。
ただ、放っておけないだけだ。
医務室で休ませると、蓮はしばらく目を閉じていた。
紗月は隣の椅子へ座る。
「病院、行った方がいいです」
「大丈夫」
「その“大丈夫”信用できません」
蓮が小さく笑う。
「言い返された」
「いつも言ってるじゃないですか」
「確かに」
少し沈黙が落ちる。
外では雨音が強くなっていた。
「……心配しました」
気づけば、そう口にしていた。
蓮はゆっくり目を開ける。
「どうして」
「え?」
「どうしてそんなに心配してくれるんですか」
真っ直ぐ見つめられる。
紗月は答えに詰まった。
どうしてだろう。
まだ知り合って数日なのに。
なのにこの人が苦しそうだと、自分まで苦しくなる。
「……分かりません」
本音だった。
蓮は静かに紗月を見る。
その目が、ひどく優しかった。
「俺は分かる」
「え?」
「桐谷さん、寂しい人放っておけないんですよ」
胸の奥が揺れる。
「自分が寂しいから」
その言葉に、息が止まりそうになった。
図星だった。
蓮はまた見抜いた。
紗月がずっと隠してきた部分を。
「……ずるいですね」
「何がですか」
「人の心ばっかり読む」
蓮は少し笑う。
「でも、自分のことは全然話さない」
その瞬間、彼の表情が止まった。
紗月はすぐ後悔する。
踏み込みすぎた。
けれど蓮は怒らなかった。
ただ静かに視線を落とす。
「……怖いんです」
小さな声だった。
「知られるのが」
紗月は何も言えない。
「幻滅されるの、慣れてるから」
その言葉に、胸が締めつけられる。
この人は、どれだけ傷ついてきたのだろう。
どれだけ一人で抱えてきたのだろう。
「私は」
紗月はゆっくり口を開く。
「まだ何も知りません」
蓮が顔を上げる。
「だから、勝手に幻滅もしません」
静かな沈黙。
雨音だけが部屋を満たす。
そして次の瞬間。
蓮が、ひどく苦しそうに笑った。
「……本当に優しい人だ」
その声があまりにも切なくて、紗月の胸は強く痛んだ。
きっとこの人は、もう長くない。
なぜかそんな嫌な予感が、胸の奥に静かに広がっていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




