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人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――3ページ目
「忘れたはずの痛み」
店の空気が、一瞬で変わった。
カウンター奥でコーヒーを淹れていた絵里奈も、露骨に表情を曇らせている。
けれど黒川亮介だけは、何事もなかったかのように穏やかに笑っていた。
「そんな顔する?」
その声音まで昔と同じだった。
優しくて、柔らかくて。
だからこそ厄介だった。
紗月はゆっくり立ち上がる。
「……何しに来たの」
「会いに来た」
「答えになってない」
「電話、出てくれなかったから」
当然だ。
むしろ、どうして出ると思ったのか。
紗月は奥歯を噛み締めた。
忘れたかった。
もう全部終わったことだと、自分に言い聞かせてきた。
なのに亮介は、当時のままの顔で簡単に目の前へ現れる。
まるで何も壊していない人間みたいに。
「帰って」
紗月は短く言った。
しかし亮介は動かない。
「少しだけ話せない?」
「話すことない」
「紗月」
「その名前、呼ばないで」
思った以上に強い声が出た。
店内が静まり返る。
絵里奈はすぐに「準備中」の札を扉へ掛けると、他の客が入って来ないよう鍵を閉めた。
「……最低」
小さく呟いたのは絵里奈だった。
「よく今さら来れたね」
「分かってる。俺が悪かった」
「分かってる人間は、四年も経ってから急に現れない」
亮介は反論しなかった。
代わりに、静かに紗月を見る。
その視線に、胸の奥が嫌なふうにざわついた。
昔、この目に弱かった。
真っ直ぐ見つめられると、自分だけが特別なんだと思ってしまった。
でも違った。
信じた先にあったのは裏切りだった。
「……今さら謝られても困る」
紗月は感情を押し殺して言う。
「俺、結婚したんだ」
一瞬、耳鳴りがした。
絵里奈が「は?」と低い声を漏らす。
だが亮介は続けた。
「でも、離婚した」
「だから何」
「その時、初めて分かったんだ。俺、本当に大事だったのは紗月だったって」
最低だ。
その言葉が最初に浮かんだ。
あまりにも自分勝手で、虫が良すぎる。
紗月は笑ってしまう。
「……何それ」
乾いた笑いだった。
「それを私に言って、どうしたいの」
「やり直したい」
はっきりと言われ、紗月の中で何かが冷えた。
ああ、この人は変わっていない。
自分の寂しさを埋めるために、人を利用する。
昔からそうだった。
「無理」
即答だった。
「紗月」
「私は、あんたのこともう信じられない」
亮介の表情がわずかに揺れる。
けれど紗月は止まらなかった。
「何回も電話したよね」
あの日を思い出す。
既読にならないメッセージ。
繋がらない電話。
そして偶然見てしまった、知らない女と歩く亮介の姿。
「私、何が悪かったんだろうって、ずっと考えた」
声が震えそうになる。
でも泣きたくなかった。
「仕事忙しくても頑張ったし、ちゃんと支えようって思ってた。でも、あんたは違った」
亮介は苦しそうに目を伏せた。
「……本当に悪かったと思ってる」
「遅いよ」
静かに言った。
「もう、全部」
終わったのだ。
四年前に。
亮介は何か言いたげに口を開き、しかし結局閉じた。
その沈黙を破ったのは絵里奈だった。
「帰って」
冷たい声。
「これ以上紗月傷つけるなら、本気で警察呼ぶ」
「……分かった」
亮介はゆっくり頷いた。
そして最後に紗月を見る。
「また連絡する」
「しないで」
間髪入れず返すと、亮介は苦く笑った。
「変わったな」
「変えたの。あんたのせいで」
その一言に、亮介は何も返せなかった。
店の扉が閉まる。
ようやく息ができる気がした。
紗月は椅子に座り込み、小さく俯く。
指先が冷たい。
「……最悪」
絵里奈が吐き捨てるように言った。
「大丈夫?」
「うん……」
大丈夫じゃなかった。
心臓がまだ速い。
思ったより傷は深かったのだと、今さら思い知る。
「紗月」
絵里奈が静かに隣へ座る。
「あんた、まだ無理してる」
「してない」
「してる」
優しい声だった。
「辛いなら辛いって言いなよ」
その瞬間、張っていた糸が少しだけ緩む。
紗月は俯いたまま呟いた。
「……悔しい」
「うん」
「もう平気だと思ってたのに」
まだ痛い。
名前を聞くだけで、胸がざわつく。
自分だけ前に進めていなかったみたいで、情けなかった。
「平気じゃなくて当たり前」
絵里奈はそっと紗月の頭を撫でた。
「四年で消える傷なら、あんたあんなに壊れてなかった」
その言葉に、紗月は何も言えなくなる。
確かにあの頃の自分は壊れていた。
食事も喉を通らず、眠れず、笑えず。
仕事だけして、生きているふりをしていた。
「でもさ」
絵里奈が少し明るい声を出す。
「今の紗月には、ちゃんと他人が入ってきてる」
「え?」
「写真家さん」
紗月は思わず顔をしかめた。
「関係ない」
「関係なくない。あんた、今まで男の話なんか一切しなかったじゃん」
「別にそんなんじゃ……」
「でも気になってる」
否定できなかった。
蓮といると調子が狂う。
閉じていた場所に、静かに入り込んでくる。
押しつけるでもなく、無理に近づくでもなく。
なのに気づけば、彼の言葉が残っている。
『雨の日って、過去が近くなる気がする』
あの声を思い出す。
優しかった。
そして、寂しかった。
「……何か抱えてる感じする」
ぽつりと漏らすと、絵里奈は「あー」と頷いた。
「危ない匂いするタイプね」
「そういう意味じゃない」
「でも、あんたが気になる相手って珍しいよ」
紗月は返事をしなかった。
怖いのだ。
また誰かを好きになることが。
信じて、裏切られることが。
だから近づきたくない。
なのに。
蓮の孤独を見るたび、なぜか胸が痛んだ。
同じ匂いがすると思ってしまった。
自分と似た、“何かを失った人間”の匂いが。
夕方。
ホテルへ戻った紗月は、いつも通り仕事に戻っていた。
フロントには観光客やビジネスマンが行き交い、慌ただしく時間が過ぎていく。
その忙しさがありがたかった。
余計なことを考えずに済む。
「桐谷さん」
不意に声をかけられ、紗月は顔を上げた。
蓮だった。
今日はカメラを首から下げている。
黒いシャツ姿の彼は、朝より少し疲れて見えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいまです」
宿泊客なのに“ただいま”と言う。
その自然さに、紗月は少しだけ笑いそうになった。
「撮影ですか?」
「はい。この街、雨上がり綺麗ですね」
蓮はカメラを軽く持ち上げる。
「光が柔らかい」
「……そういうの、分かるんですね」
「写真家なんで」
得意げに言って笑う。
けれど次の瞬間、蓮はふっと表情を変えた。
「何かありました?」
紗月の心臓が跳ねる。
「え?」
「朝より顔色悪い」
まただ。
どうしてこの人は、こんなにも気づくのだろう。
「別に何も」
「嘘」
優しい声だった。
責めるでもなく、見透かすような声。
紗月は視線を逸らす。
「……仕事ですから」
「それ、答えになってないですよ」
蓮は少し困ったように笑った。
「無理して笑うと、癖になります」
その一言が胸に刺さる。
紗月は言葉を失った。
ずっとそうしてきたから。
泣きたい時ほど笑って。
傷ついた時ほど平気な顔をして。
そうやって生きてきた。
蓮は静かに紗月を見る。
その目があまりにも穏やかで、危うかった。
この人の前では、隠しているものが剥がされそうになる。
怖い。
でも。
ほんの少しだけ、救われる気もした。
「……桐谷さん」
「はい?」
「もし今日、仕事終わるの遅くなかったら」
蓮は少しだけ迷うように笑った。
「夜景、撮りに行きません?」
その誘いに、紗月の時間が静かに止まった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




