第34話 選ばれた安心は、独占欲を消すんじゃなくて形を変える
月曜日の朝、佐伯直人はいつもより少しだけ早く教室に入った。
理由は単純だ。
榊原澪がもう来ているかどうか、確かめたかった。
それだけのことなのに、自分でも少し呆れる。
前なら、同じ教室の誰が先に来ているかなんてほとんど意識しなかった。今は、扉を開ける前から前方の席の気配を探している。
教室にはまだ人が少なかった。
窓際に二人、後ろの方に一人。
そして前方の席に、澪がいた。
直人が入ってきたことに気づくと、澪は顔を上げる。
その一瞬、目元が少しだけ柔らかくなる。
「おはよう、直人くん」
教室の中だ。
それなのに名前で呼ばれて、直人は一瞬足を止めた。
すぐに周囲を見た。
幸い、誰もこちらを気にしている様子はない。まだ人が少なすぎて、逆に雑音に紛れているのかもしれない。
「……おはよう」
少しだけ低い声で返すと、澪は小さく首を傾げた。
「朝なので、まだ駄目ですか」
「いや」
直人は鞄を置きながら小さく息を吐く。
「駄目じゃないけど、心臓に悪い」
正直にそう言うと、澪は少しだけ笑った。
「私もです」
「お前が言い出したんだろ」
「はい。でも、実際に呼ぶとやっぱり違うので」
それはたぶん本音なのだろう。
昨日までも名前は呼ばれていた。けれど、付き合ったあとで教室の中でもそれを自然に混ぜてくると、響き方が変わる。
席に着く頃には、いつものざわめきが少しずつ広がっていた。
ひよりも入ってきて、直人を見るなり呆れたような顔をする。
「朝からもう顔に出てる」
「何が」
「何が、じゃないでしょ」
ひよりは自分の席に鞄を置いてから、小さく声を落とした。
「名前呼ばれてびっくりした顔、そのまま残ってる」
「……見すぎだろ」
「見えるんだよ」
そこで、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でもまあ、あれくらいならほぼ事故に見えるから平気かもね」
「事故扱いするな」
「じゃあ自然な流れ?」
「……それも違う」
ひよりは肩をすくめる。
「恋人って面倒だね」
その言い方は軽かった。
けれど、そこまで軽く言えるようになったこと自体が、ひよりなりの整理の仕方なのだろうと直人には分かった。
一時間目の授業中、直人は前の席の背中を何度か見た。
付き合ったあとも、澪の見た目はほとんど変わらない。
姿勢がよくて、字が綺麗で、教師への返答に無駄がない。
クラスの誰にとっても、たぶん今日も完璧美少女のままだ。
でも、直人にだけ分かる小さな違いがある。
昨日までは、自分が他の誰かと少し話しているだけで空気が冷えた。
今日はそうではない。
代わりに、視線が少し長い。
話しかけるタイミングが少し正確すぎる。
そして、直人が自分の方を見た時の安心したような微かな変化が、前より隠されていない。
独占欲が消えたわけではない。
ただ、出し方が少し変わっている。
二時間目の休み時間、直人が廊下へ出ようとした時、ひよりが先に声をかけてきた。
「佐伯、数学のノート見せて」
「今?」
「今」
そう言って、ひよりは直人の机の横に立つ。
別に不自然ではない。
同級生同士としては普通だ。
だが、普通だからこそ余計に直人は前の席の空気を意識してしまう。
澪は振り返らなかった。
けれど、ペンを持つ手がほんのわずかに止まったのが見えた。
直人はノートをひよりに渡す。
ひよりはそれを受け取りながら、あえていつも通りの調子で言う。
「助かるー」
「返せよ」
「あとでね」
ひよりが離れたあと、前の席がようやく静かに動いた。
「……えらいですね」
澪が振り返らないまま、小さく言う。
「何が」
「普通にしてるので」
その言い方に、直人は思わず少し笑った。
「お前もだろ」
「私はかなり頑張ってます」
そこは強調するらしい。
「分かるよ」
直人がそう返すと、澪はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、今日の私は少し偉いです」
「少しかよ」
「かなりだと、あとで甘やかしたくなるので」
その発想がもう少し危ない。
だが以前のように、そこで相手を動かそうとする方向ではなく、自分の感情の扱い方を先に宣言しているだけ、たしかに変わっている。
昼休み、今日は乃愛が来た。
一年の教室から少しおそるおそる覗くようにして、教室の入口から会釈している。
以前みたいに勢いよく中まで入ってくる感じはない。
「佐伯先輩、ちょっとだけいいですか」
その距離感に、直人は少しだけほっとした。
たぶん、前より警戒しているのだろう。
澪の言葉の影響もあるだろうし、自分でも少し考えるところがあったのかもしれない。
「何」
直人が扉の方へ寄ると、乃愛は小さなメモ用紙を差し出した。
「この前の展示の写真、先輩のクラスの分も送っていいか、委員長に聞かれたので」
「それだけ?」
「それだけです」
乃愛は少しだけ苦笑する。
「ちゃんと、距離考えてます」
その言い方に、直人は一瞬言葉を失った。
「……そうか」
「はい」
乃愛はそこで少しだけ視線を逸らす。
「前、ちょっと無邪気すぎたかもって思ったので」
その自己認識があることに、直人は小さく安心した。
簡単な確認をして乃愛が帰る。
教室へ戻ると、前の席の澪は何も言わなかった。
何も言わない。
でも、直人が席に戻った瞬間にだけ、ほんの少しだけ目元が和らいだ。
つまり見ていたのだろう。
そして、“ちゃんと距離が保たれている”ことを確認して安心したのだ。
それが以前のような露骨な牽制ではなく、ただ安心として出てきている。
そこに、付き合ったあとの変化がある気がした。
放課後、今日は委員会もなく、比較的すんなり帰れる流れだった。
教室の人数が減り、ひよりが先に「また明日」と軽く手を振って出ていく。
直人も鞄を持ち上げたところで、前の席の澪が振り返った。
「帰れますか」
「うん」
「今日は、少しだけ寄りたいです」
「どこ」
「この前の文房具屋の近くに、小さい雑貨店があったので」
「雑貨店?」
「はい。見るだけです」
その“見るだけ”が信用できるような、できないような。
でも直人はもう、それを断るつもりはなかった。
「分かった」
そう答えると、澪は静かに立ち上がる。
教室を出て、人の少なくなった廊下を並んで歩く。
階段の途中、誰もいない踊り場で、澪がぽつりと言った。
「今日」
「ん?」
「少しだけ、自分が変わった気がします」
「何が」
「嫉妬の仕方が」
その答えがあまりにも澪らしくて、直人は思わず足を緩めた。
「そんなの分析してるのかよ」
「します」
澪は少しだけ目を細める。
「前は、嫌だと思ったらすぐに流れを触りたくなってました」
「……うん」
「でも今日は」
少しだけ視線を落とす。
「触りたかったですけど、それより先に“直人くんがちゃんとしてくれる”と思えました」
その言葉は、直人の胸の奥へかなり深く落ちた。
信頼。
選ばれた安心だけじゃなく、相手が自分をちゃんと守る側に回ってくれるという実感。
たぶんそれがあるから、澪は今までみたいに先回りしなくて済んでいるのだ。
「だから、今日は壊したいより、少しだけ甘えたい方が強かったです」
そう言いながら、澪は少しだけ困ったように笑った。
「これがいい変化なのかどうかは分かりませんけど」
「いい変化だろ」
直人がそう返すと、澪は一瞬だけ驚いたようにこちらを見る。
「……即答ですね」
「そりゃそうだろ。壊すより甘える方がまだいい」
「まだ、なんですね」
「お前の場合はな」
そのやり取りに、澪はようやく小さく笑った。
校門を出て、夕方の道へ出る。
手はまだ繋がない。
でも少し歩いて人通りが減ったあたりで、自然に距離が寄る。
繋ぐのは今や確認ではなく、半分くらい習慣に近づきつつある。
ただ、その習慣に澪が毎回少しだけ安堵するのが、今日は指先から分かった。
雑貨店は本当に小さな店だった。
ガラス細工、便箋、栞、アクセサリー、小さな箱。
学生向けというより、少しだけ大人っぽい静かな空気のある店だ。
「こういうの好きなのか」
直人が聞くと、澪はゆっくりと棚を見ながら頷いた。
「見るだけなら、結構」
「買わないのか」
「欲しいものを見つけると困るので」
その返しが少しだけ、昔の澪を思わせた。
「困るって」
「我儘になりそうで」
やはりそういうところがあるのだろう。
けれど澪は、そこで少しだけ言い直した。
「……でも、前よりはマシです」
「またそれか」
「大事なので」
言いながら、澪は小さな硝子のしおりを手に取る。
透明の中に淡い青が入っていて、光が当たると少しだけ揺れて見えた。
「それ、お前っぽいな」
直人が何気なく言うと、澪の手が止まる。
「どういう意味ですか」
「いや、何か」
直人は少し考える。
「綺麗で、ちゃんとして見えるのに、中に少しだけ不安定な色入ってる感じ」
言ってから、我ながら妙な表現だと思った。
だが澪は笑わなかった。
代わりに、指先でしおりの縁をなぞりながら小さく息を吐く。
「……そういうこと、急に言いますよね」
「またかよ」
「でも今日は、かなりうれしいです」
その“かなり”が、いつもより少し深く聞こえた。
結局、澪はそのしおりを買った。
会計を済ませて店を出ると、紙袋を見下ろしながら言う。
「前なら、たぶん買わなかったです」
「何で」
「欲しいって認めると、失くした時にきついので」
その考え方は相変わらず少し痛々しい。
でも、直人はもうそれをただ否定する気にはなれなかった。
「でも今は?」
「今は」
澪は少しだけ微笑む。
「欲しいものがあるなら、ちゃんと持っておきたいと思いました」
その言葉は、しおりのことだけを指していない気がした。
直人はそれ以上聞かなかった。
でも、繋いだ手に伝わる熱が少しだけ増したのを感じた。
選ばれた安心は、独占欲を消すんじゃなくて形を変える。
誰かを排除して繋ぎ止めようとする愛から、ちゃんと自分の不安や欲しさを言葉にして、甘える方へ。
それが簡単なことではないと分かるからこそ、今日の澪の変化は、直人にとって思っていた以上に大きかった。




