第35話 普通の彼女みたいに笑おうとして、やっぱり少しだけ重い
火曜日の朝、榊原澪は珍しく少しだけ寝不足だった。
理由は分かっている。
昨夜、直人と別れたあとに買ったばかりの硝子のしおりを机の上に置いて、何度も見てしまったからだ。
綺麗で、ちゃんとして見えるのに、中に少しだけ不安定な色が入っている感じ。
お前っぽいな。
あの言葉が、思った以上に胸に残っていた。
直人は時々、無防備に澪の核へ触る。
狙っているわけではないのに、本人だけが気づいていないまま、澪がいちばん隠したいところや、見てほしかったところをすくい上げる。
そのたびに嬉しくて、困る。
そして、選ばれたあとの今は、その嬉しさを前より素直に感じてしまう。
前なら「こんなふうに受け取ったら重いかもしれない」とブレーキをかけていたものまで、少しだけそのまま抱きしめてしまう。
だから寝不足になった。
教室に入ると、直人はまだ来ていなかった。
少しだけ残念に思う。
でも同時に、ほっともする。
先に顔を合わせていたら、たぶん今日の自分は少しだけ分かりやすすぎる。
席についてノートを出し、深呼吸を一つ。
今日は少しだけ、普通の彼女みたいに笑えたらいいと思う。
重くなく。
欲しがりすぎず。
選ばれたことを盾にせず。
ただ、恋人になった女の子らしく、少しだけ嬉しそうに、少しだけ柔らかく。
そう思っていたのに。
「おはよう、澪」
教室の扉が開いて、直人の声が届いた瞬間、澪の計画は半分くらい崩れた。
もう名前で呼ばれること自体は分かっていた。
昨日もそうだった。
でも、朝一番の教室で、何でもない顔でそれをやられると、やはり心臓が正しく動かなくなる。
「……おはよう、直人くん」
返す声がわずかに遅れたのを、自分でも分かった。
直人は少しだけこちらを見て、それから席へ向かう。
その時の表情は、前よりずっと自然だった。
付き合い始めのぎこちなさが、少しずつ馴染んできている。
そこに安心して、でも少しだけ寂しいと思った自分に、澪は内心で苦笑した。
馴染んでほしい。
でも、慣れすぎて特別じゃなくなるのは嫌だ。
たぶんこういう矛盾が、澪の重さの正体なのだろう。
「おはよ」
ひよりも入ってきて、いつものように軽い調子で挨拶する。
直人と少しだけ話してから、さりげなく澪にも視線を向けた。
「今日、機嫌よさそうだね」
その一言に、澪は一瞬だけ目を瞬いた。
「そうですか?」
「うん。何か、昨日より柔らかい感じ」
ひよりの観察眼は相変わらず鋭い。
だからこそ、澪は少しだけ気をつける。
「普通ですよ」
「そっか」
ひよりはそれ以上追及しなかった。
でもその「そっか」には、見えているけれど敢えて言わない、という含みがあった。
一時間目が始まる前、直人が前の席を軽くつついた。
「今日、委員会あったっけ」
それだけの、どうでもいい確認。
けれど付き合う前とは違って、いまはその“どうでもいいことを最初に聞く相手”が自分なのだと思うと、胸の奥が少し熱くなる。
「今日はないです」
「じゃあ、放課後すぐ帰れるな」
「はい」
そこまで言ってから、澪は少しだけ笑った。
「寄り道、できますね」
直人が小さく息を漏らす。
笑ったようにも、少しだけ困ったようにも見えた。
「最初からそこまでセットなんだな」
「違いますか」
「……違わない」
その返事に、澪はちゃんと嬉しくなってしまう。
やっぱり駄目だと思う。
普通の彼女みたいに笑いたいだけなのに、少しずつ欲が混ざる。
昼休み、今日は珍しくクラスの女子数人に誘われて、澪は窓際で一緒に昼食を取る流れになった。
「榊原さんって、文化祭終わってからちょっと雰囲気違わない?」
一人がそんなことを言う。
「そう?」
「なんか前より優しい感じする」
その言い方に、澪は少しだけ困ったように笑った。
「元からそんなに厳しくないと思いますけど」
「いや、そうじゃなくて、丸い感じ」
別の子も頷く。
「分かるかも。なんか機嫌いいよね」
澪は視線を逸らした。
たぶん、それは否定できない。
選ばれた安心が、顔つきや空気に出ているのだろう。
そこでふと、教室の反対側を見ると、直人がひよりと話していた。
内容は普通だ。ノートか何かの話だろう。
ひよりが少し笑って、直人もそれに返している。
その光景を見た瞬間、澪の胸の奥に小さな針みたいなものが刺さった。
嫌だ、と思う。
そして、その“嫌だ”の次に来た感情が、以前とは少し違っていることに気づく。
前なら、どうやって会話を切るか。
どうやって流れを変えるか。
そこまで一気に思考が飛んでいた。
今は違う。
まず最初に来たのは、少し拗ねたい、だった。
ああ、自分はいま、壊すより甘えたい方へ変わってきているのだと、澪はその瞬間にはっきり理解した。
放課後、教室の空気がほどけていく頃には、その小さな嫉妬はまだ完全には消えていなかった。
でも重くはない。
ただ、直人に少しだけ意識してほしい、くらいの形で残っている。
それが、自分としてはかなり珍しい。
「帰れる?」
直人が席の横で小さく聞く。
「はい」
「今日はどこ寄る」
その問いに、澪は少しだけ考えるふりをした。
寄りたい場所はいくつかある。
でも今日は、どこへ行くかより、どう過ごすかの方が大事な気がした。
「今日は、少しだけ歩くだけでもいいです」
「珍しいな」
「そうですか?」
「だいたい店とか言うだろ」
「今日は、直人くんが隣にいれば十分なので」
言ってから、少しだけ言いすぎたかと思った。
けれど直人は困ったように笑っただけで、否定はしなかった。
「……そういうの、さらっと言うよな」
「本当なので」
そこは変えられない。
学校を出て、駅と反対方向の川沿いの遊歩道へ向かう。
夕方のこの時間は人が少なく、空も広く見える。
桜の季節ではないので木々は落ち着いていて、そのぶん風の音がよく聞こえた。
自然に手を繋ぐ。
もうそこはほとんど迷わなくなってきた。
少し歩いたところで、直人が横目でこちらを見る。
「今日、何かあった?」
澪は一瞬だけ目を瞬いた。
「何でですか」
「いや、何か」
直人は言葉を探す。
「朝からちょっと、柔らかい感じだった」
その表現が、まさに昼休みに女子たちが言っていたものと近くて、澪は少しだけ可笑しくなった。
「やっぱり出てるんですね」
「何が」
「機嫌のよさが」
直人は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、いいことあったのか」
「ありました」
「何」
「昨日、しおりを買えたので」
「それだけかよ」
「それもありますし」
澪は少しだけ視線を落とす。
「名前で呼ばれたのも、昨日より自然だったので」
正直にそう言うと、直人はほんの少しだけ歩幅を乱した。
「……そこか」
「かなりそこです」
即答する。
それから、少しだけ間を置いた。
「あと、昼休みに」
「うん」
「ひよりさんと話してましたよね」
直人がこちらを見る。
その視線に責める色はない。
ただ、ああ、やっぱりそこか、と察したような顔だ。
「話してたな」
「はい」
「それがどうかした?」
その聞き方が優しい。
言えばちゃんと受け止めるつもりなのが分かる。
それだけで、澪の中の甘えたい気持ちは少しだけ強くなる。
「少しだけ、嫌でした」
素直に言う。
「でも」
「でも?」
「今日は、割り込もうとは思わなかったです」
直人が少しだけ目を細めた。
「進歩だな」
「はい」
「褒めてほしいのか」
その問いに、澪はほんの少しだけ笑った。
「できれば」
直人は少し黙ってから、繋いだ手に力を込める。
「えらい」
たったそれだけ。
でも、その一言はかなり強かった。
澪は足を止めそうになるのを堪えた。
胸の奥がきゅっと熱くなる。
壊したい衝動を我慢して、代わりに甘えたいと思った日の褒め言葉は、思っていたよりずっと効く。
「……それ、ずるいです」
澪が小さく言うと、直人は少しだけ笑った。
「お前が言うのか」
「だって、かなり嬉しいので」
そこで少しだけ俯く。
「今日、普通の彼女みたいにしてみようと思ってたんです」
「普通の彼女?」
「はい」
「どんなだよ」
「重くなくて、すぐ嫉妬しなくて、ちゃんと可愛く笑えて、面倒じゃない感じです」
言いながら、自分でも少しだけおかしくなる。
そんな“普通の彼女”像を必死に組み立てている時点で、すでにだいぶ普通ではない。
直人も同じことを思ったらしく、少しだけ吹き出した。
「無理だろ」
「やっぱりそうですよね」
「少なくとも最後の“面倒じゃない”は最初から無理だと思う」
「ひどいです」
でも、その返しに本気で傷つきはしなかった。
むしろ、そうやって言ってくれる方が楽だ。
「でも」
直人が続ける。
「今の方がいい」
澪は思わず顔を上げた。
「何がですか」
「普通の彼女ぶるより」
直人は少し照れたように視線を逸らす。
「少し重くても、ちゃんと嫌だとか嬉しいとか言う方が、お前っぽいし」
その一言で、澪の中にあった変な力みがほどけた。
普通の彼女みたいに笑おうとして、やっぱり少しだけ重い。
その“少しだけ重い”ところまで含めて、お前っぽい。
それはたぶん、選ばれたあとの澪にとって、かなり救いになる言葉だった。
「……じゃあ」
澪は小さく息を吐く。
「これからも少しだけ重いままでいます」
「少しだけ、な」
「そこは努力します」
そう言ってから、ほんの少しだけ直人の腕へ寄る。
抱きつくほどではない。
でも肩が触れるくらいには近い。
「おい」
「今日の私は、普通の彼女みたいに可愛いより、少し重くて嬉しい方がいいらしいので」
かなり都合のいい理屈だと自分でも思う。
でも、直人はそれを拒まなかった。
代わりに、少しだけ肩の力を抜いて受け入れる。
その反応が、澪には十分すぎるほど甘かった。
選ばれたあと、独占欲は消えない。
ただ、壊す方ではなく、甘える方へ変わっていく。
今日の自分はたぶん、その最初の形なのだろうと澪は思った。




