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選ばれたあとも、彼女は僕だけに壊れてみせる。―恋人になっても、彼女の愛は少しも軽くならない―  作者: 翡翠


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第33話 名前で呼ぶだけのことが、こんなにも心臓に悪い

 金曜日の朝、佐伯直人は駅から学校までの道を歩きながら、今日こそは少し落ち着いていようと思っていた。


 思っていただけだった。


 昨日の帰り際、澪に言われた言葉がまだ耳の奥に残っている。


 また、ちゃんと実感しましょう。


 付き合った事実を、一日ごとに少しずつ身体に馴染ませていくみたいな言い方だった。澪らしいと思う。重いのに、どこか丁寧で、勢いだけで全部を奪いにくるわけではない。いや、本質的にはかなり奪いにきているのだろうけれど、それをちゃんと「二人で探していく形」に整えようとしている。


 その努力が見えるから、直人は前よりも彼女の重さを受け止めやすくなっていた。


 教室の扉を開ける。


 朝のざわめき。椅子を引く音。窓際で話す女子たち。何も変わらない学校の風景の中で、前方の席にいる澪だけが、やはり直人には少し違って見える。


 目が合う。


「おはよう、佐伯くん」


 いつもの穏やかな声。


 直人は一瞬だけ迷った。

 昨日までは、教室の中では名字で呼び合う方が自然だと思っていた。実際、その方が周囲に余計な違和感を与えずに済む。そう頭では分かっている。


 でも、その理屈とは別のところで、今日は妙に名前を呼びたかった。


「……おはよう、澪」


 言った瞬間、直人は少しだけ息を止めた。


 教室の空気が止まるほどではない。

 でも、前の席の肩がわずかに揺れたのははっきり分かった。


 澪は目を見開き、それからほんの少しだけ視線を落とした。

 耳がうっすら赤くなっている。


「……おはようございます」


 返し方が、さっきより少しだけ遅い。


 それだけで、直人の方まで変に心臓がうるさくなった。


 席に着くと、ひよりが後ろからぼそっと言った。


「朝から攻めるじゃん」


「……聞こえてたのか」


「教室で言えばそりゃね」


 ひよりは呆れたように笑う。


「でも、あれくらいなら多分セーフ」


「基準どこだよ」


「私の勘」


 それから、少しだけ声を落とす。


「榊原さん、いま相当やばいと思う」


 直人は前の席を見た。


 澪はすでにノートを開いている。見た目はいつも通りだ。いつも通りに整っている。だがペンを持つ指先が、ほんの少しだけ硬い。


 あれはたしかに、かなり意識している時の澪だ。


 一時間目が始まっても、直人の意識は少しだけ前の席に引っ張られていた。


 名前で呼んだだけ。

 たったそれだけなのに、こんなにも空気が変わるのかと思う。


 いや、変わったのは空気ではなく、二人の受け取り方なのだろう。

 クラスメイト同士の名字呼びから、二人だけが知っている名前呼びへ。そこにはたしかに意味がある。


 二時間目の休み時間、机の端に小さな付箋が置かれた。


『朝から心臓に悪いです』


 整った字。

 でも最後の「です」が少しだけ小さい。


 直人は思わず口元を押さえた。

 前の席の澪は振り返らない。だが、耳だけはまた少し赤い。


 直人は付箋の裏に短く書く。


『そっちが言うのかよ』


 数分後、返ってきた紙にはこうあった。


『私ばかりだと思ってました』 『でも佐伯くんも、少しだけ顔が危なかったです』


 見られている。

 やはりそこは変わらない。


 昼休み、今日はひよりが珍しく直人の席に来た。


「相談」


「何」


「恋人っぽい顔、もう少し隠した方がいいよ」


「そんなに出てる?」


「前よりは」


 ひよりはパンの袋を机に置きながら言う。


「名前呼びだけなら別に言い訳きくけど、そのあとお互いちょっと黙りすぎ」


 そこまで見ているのか、と直人は半分呆れた。


「お前、もう観察者みたいになってるな」


「なりたくてなってるわけじゃないんだけど」


 ひよりは苦笑する。


「ただまあ、私は分かる。で、分かる人には多分分かる」


 その忠告はありがたかった。

 実際、付き合い始めたばかりで自分たちはまだ距離感が掴めていない。学校の中でどこまで自然に振る舞うか、その調整はこれから必要なのだろう。


「ありがと」


「どういたしまして」


 ひよりはそこで少しだけ表情を和らげる。


「あと、一個だけ言っとくけど」


「何」


「名前で呼ばれるの、女子はだいたい弱いからね」


「雑な一般論だな」


「でも当たってるでしょ」


 それには返事ができなかった。


 五時間目の終わり、教師が小テストを回収している間に、直人は前の席の背中を見た。

 名前で呼んだだけで、あそこまで分かりやすく揺れるのなら、今まで澪がどれだけその一つ一つに意味を乗せてきたのか、少しだけ分かる気がする。


 言葉は小さい。

 でも小さいからこそ、当人には強く刺さる。


 放課後、教室の人が少しずつ減っていく。


 今日は昨日よりも、二人とも自然にそのタイミングを待てていた。

 帰る流れがもう、ある程度身体に入ってきたのかもしれない。


「帰れますか」


 今日は澪の方から先に言った。


「うん」


「じゃあ」


 そこまで言ってから、澪はほんの一瞬だけ迷うように目を伏せた。


「今日は、下で待ってます」


「何で」


「同時に出ると、少しだけ分かりやすすぎるので」


 その判断が妙に冷静で、直人は思わず小さく笑った。


「そこはちゃんと考えるんだな」


「考えます」


 少しだけ拗ねたように言う。


「付き合っても頭は悪くなってないので」


「誰もそんなこと言ってないだろ」


「でも、朝のあれのあとで少し自信なくなりました」


 その言い方が可笑しくて、直人はまた笑ってしまう。


「分かった。じゃあ下で」


「はい」


 時間をずらして昇降口へ向かうと、澪は本当に外で待っていた。


 校門の少し手前、街路樹の影のところに立っている。

 人通りはある。

 でも教室よりはずっと息がしやすい。


「お待たせ」


 直人が言うと、澪は少しだけ視線を上げる。


「いえ」


 そこから少し歩いたところで、昨日と同じように自然に手が近づく。

 もう、確認の言葉はいらなかった。


 指先が触れて、次に重なる。

 手を繋ぐこと自体は二日目なのに、不思議と昨日よりも落ち着いている。


「……今日は、だいぶ普通ですね」


 澪が言う。


「何が」


「手を繋ぐの」


「昨日よりはな」


「私は、名前で呼ばれた方が危なかったです」


 その返しに、直人は横目で彼女を見た。


 澪は少しだけ俯いている。

 表情は見えにくいが、耳はまた赤い。


「そんなにか」


「かなり」


 即答だった。


「たぶん、これから何回か呼ばれるたびに危ないと思います」


「慣れろよ」


「無理です」


 そこは迷わない。


「でも」


 澪は少しだけ視線を上げる。


「無理な方がうれしいです」


 その言葉に、直人は少しだけ胸が熱くなるのを感じた。


 慣れてしまって、当たり前になるより。

 いちいち嬉しくて、少し心臓に悪いくらいの方がいい。

 それはたぶん、直人にも少し分かる。


 駅前の本屋に少しだけ寄ることになった。


 特に大きな用事はない。ただ、帰り道を少し延ばす口実みたいなものだ。

 澪は新刊コーナーを見て、直人は雑誌棚の前に立つ。

 別々に動いているのに、少し視線を上げれば互いの居場所がすぐ分かる距離。


 こういうのも、恋人っぽいのかもしれないと思う。


 会計のあと、ビルの一階にある小さなカフェスペースで飲み物だけ買って座る。


「今日」


 澪がストローを指でいじりながら言う。


「朝のこと、勢いでしたか」


「何が」


「名前で呼んだの」


 直人は少しだけ考えた。


 勢い。

 たしかに半分はそうだ。

 でも、それだけではない。


「勢いもあった」


「はい」


「でも、呼びたかったのも本当」


 そう答えると、澪はしばらく黙った。


 それから、ほんの少しだけ目を細める。


「それなら、今日一日かなり持ちます」


「そればっかだな」


「だって本当にそうなので」


 変わらない。

 けれど、付き合ったあとだからこそ、その“変わらなさ”が少し甘く聞こえる。


「お前さ」


「はい」


「付き合ったらもう少し落ち着くのかと思ってた」


「無理です」


 また即答だった。


「でも」


 少しだけ真面目な顔になる。


「前みたいに、選ばれてない不安で壊れる感じとは違います」


「どう違うんだ」


「今は」


 言葉を選ぶように少し間を置く。


「ちゃんと嬉しくて浮かれてる感じです」


 その自己分析が妙に正確で、直人は思わず笑った。


「それはそれで危ないな」


「かなり」


「自覚あるんだな」


「あります」


 澪は頷く。


「だから、学校の中では少し抑えます」


「助かる」


「でも」


 そこで少しだけ視線を逸らす。


「二人きりの時は、あまり我慢したくないです」


 その言い方は静かなのに、含んでいるものはかなり大きい。


 直人は一瞬だけ返事に詰まった。

 だが、ここで変に濁すのも違う気がする。


「……やりすぎないなら」


 そう答えると、澪はすぐにこちらを見る。


「それ、かなり都合よく解釈していいですか」


「そこはいつも通りだな」


「大事なので」


 結局そこへ戻る。


 カフェを出て、改札へ向かう道を歩く。

 もう辺りはかなり暗い。


 別れ際、澪が少しだけ立ち止まった。


「一つだけ、確認してもいいですか」


「何」


「明日も、名前で呼んでくれますか」


 その問いに、直人は思わず笑いそうになった。


「そこまで重要なのか」


「かなり」


 やはり即答だった。


 少し考えてから、直人は答える。


「教室では、たぶん時と場合による」


 澪の表情が、ほんの少しだけ曇る。


「でも」


 直人は続けた。


「二人きりの時は、呼ぶ」


 その一言で、澪の目の奥がすっと明るくなった。


「……それで十分です」


 またその言葉。


 十分。

 でも、それが最大限の満足を意味しているのではなく、その瞬間の幸福をちゃんと抱きしめるための言葉なのだと、もう直人にも分かる。


「じゃあ」


 直人が少しだけ息を吐く。


「また明日、澪」


 別れ際に、わざとそう呼ぶ。


 澪は一瞬だけ息を止めて、それから小さく笑った。


「……はい」


 声が少しだけ掠れている。


「また明日、直人くん」


 名前で呼び返された瞬間、今度は直人の心臓の方がひどく鳴った。


 名前で呼ぶだけのことが、こんなにも心臓に悪い。


 それでも、たぶんもうやめたくないと思ってしまっている時点で、僕たちはすでにかなり深いところまで来ているのだろう。

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