第32話 手を繋いだあとの沈黙は、昨日までよりずっと甘い
翌日の放課後、佐伯直人は教室の窓から差し込む西日の色をぼんやり見ていた。
昨日、榊原澪と付き合い始めた。
ひよりにもきちんと伝えた。
名前も呼んだ。
手も繋いだ。
やることだけ並べれば、もう十分すぎるほど進んでいる。
なのに、教室の中では何も変わらないふりをし続けているせいで、現実感だけが妙に遅れてついてくる。
授業が終わった今もそうだった。
前の席には澪がいる。
普通に教科書をしまっている。
周囲にはまだ数人残っていて、誰かが文化祭後の提出物の話をしている。
何も変わっていないように見える。
でも、変わっている。
たぶん今の自分は、教室の中で一番前の席を意識しているし、澪の方も、振り返らないままこちらの空気を拾っている。
「佐伯、帰らないの?」
後ろから男子にそう聞かれて、直人はようやく我に返った。
「ああ、帰る」
「珍しくぼーっとしてんな」
「ちょっと疲れてるだけ」
「文化祭ロス?」
「そんな感じ」
適当に返すと、相手は深く考えずに笑って帰っていった。
そういう、誰にも気づかれない普通の会話の中にいると、なおさら不思議な気分になる。
昨日までは、澪との間にあるものは自分たちだけが勝手に濃くしていたものだった。
でも今は違う。
ちゃんと形になった。
形になったのに、外からはまだ何も見えない。
その見えなさが、少しだけもどかしい。
前の席が、静かに動いた。
「帰れますか」
澪が振り返らずに言う。
声量は小さく、でもはっきりこちらへ向けられている。
「うん」
「じゃあ、少し待ってください」
「何で」
「今、呼び止められそうなので」
言われてそちらを見ると、確かにクラスメイトの女子が澪の席の近くまで来ていた。
プリントのことか何かを聞きたいらしい。
「榊原さん、昨日の資料ってもう先生に出した?」
「まだです。あとで職員室へ持っていきます」
「そっか、ありがと」
ほんの短いやり取り。
でもその間、澪はこちらを一度も見なかった。
前なら、それを少し寂しいと思ったかもしれない。
今は違う。
こちらを見なくても、ちゃんと自分と帰るつもりでいることが分かる。
その安心感があるから、変に焦れなくて済む。
やがて女子が離れ、澪はようやく立ち上がった。
「お待たせしました」
「別に待ってない」
「待ってましたよね」
そう言って、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……見てたのか」
「見なくても分かるので」
相変わらずだと思う。
でもその相変わらずが、今日は妙に心地よかった。
二人で教室を出る。
廊下に出てしまえば、誰が見てもただの同級生だ。
並んで歩く距離も、会話のトーンも、昨日までと大きくは変わらない。
それなのに、胸の奥だけが少しずつ熱を持っていく。
階段を下りて、昇降口へ向かう途中。
人の気配がほとんどなくなった踊り場で、澪が小さく息を吐いた。
「学校の中だと、やっぱり少し変な感じですね」
「何が」
「付き合ったあと、っていう感じがまだしないです」
その言い方に、直人は少しだけ笑った。
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「昨日は実感がない感じでした」
澪は手すりの横をゆっくり歩きながら続ける。
「今日は、実感はあるんですけど、見た目が変わらなすぎて不思議です」
「まあ、いきなり変わったらそれはそれで怖いだろ」
「それはそうです」
「じゃあいいんじゃないのか」
「よくはないです」
即答だった。
「よくないのかよ」
「はい。少し足りないです」
そう言ってから、澪は少しだけこちらを見る。
「でも、それくらいがちょうどいいのかもしれません」
その調整感覚が、やっぱり今までと少し違う。
前なら足りないと思ったらそのまま踏み込んできた。
今は足りないと認めた上で、でも“ちょうどいい”の方へ自分を寄せようとしている。
それが選ばれたあとの変化なのかもしれなかった。
靴を履き替えて校門を出る。
夕方の空気は少しひんやりしていて、文化祭の慌ただしさが消えた学校は妙に静かだった。
校門を抜けて少し歩いたところで、澪の手が直人の手の甲にそっと触れた。
昨日みたいに、確認してから繋ぐわけではない。
でも、勝手に握るほどでもない。
触れて、止まる。
その一瞬のためらいが、かえって今の関係をよく表していた。
直人はその手を見下ろしてから、自分の方から指を絡めた。
ちゃんと繋ぐ。
澪の肩が小さく震えたのが分かった。
「……やっぱり」
澪が小さく言う。
「何」
「これは、まだ慣れないです」
「俺もだよ」
正直にそう返すと、澪は少しだけ笑った。
「でも、昨日より嬉しいです」
「昨日も十分喜んでただろ」
「昨日は、うれしさが大きすぎて処理できてなかったので」
それは何となく分かる気がした。
昨日は、告白も、返事も、手を繋ぐことも、一度にいろんなことが起きすぎた。
今日は、それを一つずつ身体に馴染ませている感じがある。
沈黙が落ちる。
でもその沈黙は、昨日までと少し違った。
気まずくないのは前からそうだった。
今はそこに、確かな甘さが混じっている。
何も話していないのに、互いの手の温度だけで十分すぎるほど満たされていく感じがあった。
「……なあ」
直人が先に口を開く。
「はい」
「付き合うと、こういう沈黙まで変わるんだな」
自分で言ってから少し照れくさくなったが、澪は笑わなかった。
代わりに、繋いだ手に少しだけ力を込める。
「変わります」
静かに、でもはっきりと言う。
「前は、何も話していない時って、私ばっかり好きなんじゃないかって不安になることもありました」
その告白は、思ったより重かった。
「でも今は」
「今は?」
「何も話してなくても、ちゃんと繋がってる感じがします」
直人はしばらく返事ができなかった。
そういうふうに考えていたのかと思う。
いや、考えていて当然なのかもしれない。
あれだけ感情を先に出していたのは澪の方だったのだから、沈黙の中で不安になるのも自然だ。
「……そっか」
ようやくそれだけ言うと、澪はほんの少しだけ目を細めた。
「はい」
「今は、平気なんだな」
「かなり」
そこで少しだけ言い直す。
「かなり、前よりは」
「またそれか」
「大事なので」
いつものやり取りなのに、今日はその一つ一つがやけに柔らかかった。
駅前へ向かう途中、小さな公園の脇を通る。
夕方のこの時間は子どもも少なく、ベンチもほとんど空いていた。
「少しだけ座りますか」
澪がそう聞く。
「うん」
二人でベンチに腰を下ろす。
繋いだ手は、そのままだ。
正面に大きな何かがあるわけではない。
街灯がつき始める空と、遠くの車の音と、少し冷たい風。
そんな何でもない景色の中で、直人は初めて、昨日から続いている緊張が少しだけほどけるのを感じた。
「……今日、やっと少しだけ現実感ある」
思わずそう言うと、澪が顔を向けた。
「何でですか」
「昨日はさ、勢いもあったし」
「はい」
「ひよりのこともあったし、いろいろ一気に片づいた感じだったから」
「はい」
「でも今日は、普通に授業受けて、普通に帰って、それでこうしてるだろ」
繋いだ手を少しだけ持ち上げる。
「だから、ああ、ほんとに付き合ったんだなって」
そう言うと、澪はしばらく直人を見ていた。
その視線が少し熱くて、直人は少しだけ落ち着かなくなる。
「……何だよ」
「いまの、かなりうれしいです」
「またか」
「だって、自分と同じこと思ってくれてたので」
その言い方に、直人は少しだけ笑ってしまう。
そうかもしれない。
昨日までは、感情の速さも深さも澪の方が先に行っている感じがあった。
でも今日は、少なくともこの感覚だけは共有できている気がする。
「じゃあ、お前もか」
「はい」
澪は静かに頷く。
「朝からずっと、少しだけ不思議でした」
「学校だと、あんまり変われないからか」
「それもあります」
そこで少しだけ視線を落とす。
「あと、昨日までみたいに振り返って、何でもないことで話しかけたくなって」
「うん」
「でも、今日はそれをやると逆にぎこちなくなりそうで」
その感覚も、直人にはよく分かった。
付き合ったからといって、急に別の人間にはなれない。
でも昨日までと同じにも戻れない。
その間のどこかに、新しい“ちょうどいい距離”を作っていくしかないのだ。
「難しいな」
直人がそう言うと、澪は小さく笑う。
「でも、少し楽しいです」
「そうなのか」
「はい。ちゃんと二人で探していく感じがするので」
その表現は、直人の胸に静かに落ちた。
ちゃんと二人で探していく。
付き合うというのは、たぶんそういうことなのだろう。
どちらかが一方的に押し込むのでも、合わせるのでもなく、二人にとっての温度を少しずつ見つけていく。
「……お前」
「はい」
「そういうちゃんとしたこと言うと、逆にびっくりする」
直人が言うと、澪は少しだけむっとした顔になった。
「ちゃんとしてないと思ってたんですか」
「思ってたっていうか、重い方が先に来るから」
「ひどいです」
けれど、その拗ね方もどこか柔らかい。
「でも」
澪は少しだけ考えるように言葉を継ぐ。
「たぶん、選ばれた安心があるからだと思います」
「何が」
「こういうことを、落ち着いて言えるの」
直人は返事に少しだけ詰まった。
選ばれた安心。
それは彼女の不安を全部消す魔法ではない。
けれど、今までのように“失う前提”で全部を考えなくていいだけで、こんなにも変わるのかと思う。
「……じゃあ、選んでよかったな」
ぽつりとそう言うと、澪の指先がぴくりと揺れた。
「それ、ずるいです」
「何が」
「不意打ちでそういうこと言うの」
顔は少し俯いている。
でも耳が少し赤くなっているのが見えた。
直人はそこで初めて、自分の方からもこういう言葉が少しずつ出るようになっていることに気づく。
努力する、と昨日言った。
まだ全然上手くはない。
でも、言いたいと思う時がある。
それはたぶん、もうかなり大きい変化だった。
ベンチから立ち上がり、再び駅へ向かう。
空はもうほとんど夜に近い色になっていた。
改札前で足を止めると、澪が少しだけ名残惜しそうな顔をする。
「明日も」
「ん?」
「帰れますか」
その聞き方は、昨日までの寄り道の誘いとほとんど変わらない。
でも今は、それがちゃんと“明日も一緒にいたい”と同じ意味に聞こえる。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「仕事みたいに確定で言うのも変だろ」
「私は確定で言えますけど」
「お前はそうだろうな」
そう返すと、澪は少しだけ笑って、繋いでいた手をゆっくりと離した。
「じゃあ、明日」
「うん」
「また、ちゃんと実感しましょう」
その一言が、今日はやけに甘く響いた。
手を繋いだあとの沈黙は、昨日までよりずっと甘い。
そしてその甘さに、自分はもう少しずつ慣れ始めているのだと、直人は帰りの電車の中で静かに自覚していた。




