第31話 恋人になった朝は、何も変わらないふりがいちばん難しい
翌朝、佐伯直人は教室の扉の前で、昨日以上に露骨に足を止めた。
理由は明白だった。
昨日、自分たちは付き合い始めた。
言葉にして、手を繋いで、ちゃんと互いを選んだ。
それはもう揺らがない事実だ。
問題は、そのあとだった。
付き合った次の日の朝、教室でどういう顔をすればいいのか、直人にはまったく分からなかった。
今まで通りでいい。
そういう話はした。
いきなり周囲に分かるように変わるのは面倒だし、澪だってそれは望んでいないはずだ。
でも、今まで通りでいられるわけがない。
昨日までと違って、もう気持ちを誤魔化す必要がない。
誤魔化す必要がないからこそ、逆に何をどう隠せばいいのか分からない。
「……ほんと難しいな」
小さく呟いて、扉を開ける。
教室の空気はいつも通りだった。
朝の雑談、椅子を引く音、窓から入る少し冷たい光。
非日常は終わって、学校はちゃんと普通に戻っている。
その中に、澪がいる。
前方の席。
ノートを出し、いつも通り背筋を伸ばして座っている。
直人が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ目を上げた。
「おはよう、佐伯くん」
声は、昨日までと同じくらい自然だった。
けれど直人には分かる。
その一言の奥に、昨日の夜までの全部がちゃんと繋がっている。
「……おはよう」
本当は名前で返したかった。
でも昨日の朝一発目でそれをやって、少し空気を止めたばかりだ。
今日はさすがに抑えた。
その微妙な逡巡まで、たぶん澪には伝わっている。
彼女は何も言わなかったが、目元だけがほんの少し柔らかくなった。
席に着くと、ひよりが後ろから小さく声をかけてきた。
「おはよ」
「おはよう」
「今日は名字なんだ」
「何の話だよ」
「分かりやす」
ひよりは呆れたように笑う。
「昨日の今日で、朝から名前呼びしたら逆に面白かったけど」
直人は思わず小さく咳払いした。
「……お前、ほんと見すぎだろ」
「見えるんだよ」
ひよりは机に頬杖をつきながら言う。
「でもまあ、それくらいぎこちない方が、ちゃんと始まった感あるね」
その言い方は、少しだけ痛いのに、思ったより優しかった。
「ひより」
「何」
「昨日は……ありがと」
ひよりは一瞬だけ言葉を止めて、それから肩をすくめる。
「そこ、朝に言うんだ」
「今しか言いにくいだろ」
「まあ、いいけど」
少しだけ視線を逸らしてから、また戻す。
「ちゃんと選んだなら、それでいいよ」
その一言が、やっぱり胸に残る。
ひよりは最後まで、ちゃんとした人だ。
一時間目が始まる前、直人は前の席を何度も見そうになって、無理やり黒板の方へ意識を向けた。
昨日付き合い始めたばかりの相手が、すぐ目の前にいる。
それだけで、授業前の数分が妙に長い。
でも、直人のそんな不器用さとは裏腹に、澪はかなり自然だった。
授業を受け、教師に答え、周囲と軽く話す。
完璧美少女の顔は崩れない。
ただ、休み時間に一度だけ、誰にも見えない角度で小さな付箋が直人の机の端に置かれた。
『ちゃんと寝られましたか』
それだけ。
たったそれだけの、でも明らかに“恋人になったあと”の確認だった。
直人は思わず前を見た。
澪は振り返らない。
でも耳だけが、少しだけ赤い気がした。
直人は付箋を裏返し、シャーペンで短く書く。
『あんまり』 『そっちは』
休み時間の終わり際、澪が後ろ手にそれを回収する。
数分後、新しい付箋が机の下に滑り込んできた。
『私もです』 『でも、嬉しくて眠れないのは少し好きです』
直人は危うくそれをその場で握り潰しそうになった。
こういうところだ。
教室では普通の顔をしているのに、届く言葉だけはしっかり熱を持っている。
しかも前より少しだけ遠慮がない。
「……何それ」
後ろからひよりの声がして、直人は反射的に付箋を伏せた。
「いや」
「いや、じゃないでしょ」
ひよりは半分呆れた顔をする。
「もうさ、隠すならもうちょっと上手くやったら?」
「努力はしてる」
「してないね」
そこで少しだけ笑う。
「でも、そういうの見ると安心するかも」
「何が」
「ちゃんと両想いなんだなって」
その言葉に、直人は一瞬返せなかった。
両想い。
そうだ。
いまさらだが、そういうことなのだ。
昼休み、今日はひよりがあえて距離を置いた。
友人たちと昼食を食べていて、直人の席には来ない。
その代わり、澪も今日は前の席から振り返ってはこなかった。
教室の中では、あくまで今まで通り。
でも、“今まで通り”の中にだけ、二人だけが知っている層が一枚増えている。
それが妙に落ち着かなくて、妙に満たされてもいた。
乃愛はというと、今日は廊下の向こうに一瞬だけ姿が見えた。
だが教室の中には入ってこなかった。
こちらに気づくと、小さく会釈だけしてそのまま去っていく。
その距離の取り方が、やはりあの日の影響を感じさせた。
直人は少しだけ胸が痛んだが、同時に今のところそれに手を入れるべきではないとも分かっていた。
澪との関係がやっと形になったばかりの今、下手にあちこちを動かせばまた何かが歪む。
放課後、授業が終わっても直人はすぐには立たなかった。
昨日までなら、ここでどちらからともなく声をかけていた。
今日はどうするのか。
教室で今まで通りを保つなら、ここでもあまり露骨に変えるべきではないのかもしれない。
そう迷っていると、前の席の澪がゆっくり振り返った。
「佐伯くん」
「ん?」
「今日、少しだけ寄れますか」
聞き方は、やっぱり前と同じだった。
でも今は、その“少しだけ”の意味が前とは違う。
断る断らないの駆け引きではなく、すでに付き合っている二人が、学校の外で少しだけ呼吸を合わせるための時間。
「……うん」
直人が答えると、澪はほんの少しだけ目を細める。
「ありがとうございます」
「お前、そこは変わんないな」
「何がですか」
「礼言うとこ」
「だって、うれしいので」
さらっと言う。
でも前より、どこか少しだけ落ち着いて聞こえた。
二人で教室を出ると、後ろからひよりが声をかけた。
「佐伯」
「ん?」
「明日、普通に話しかけるからね」
その宣言が少しだけ可笑しくて、直人は笑った。
「宣言することか、それ」
「するよ。気まずいの嫌だし」
「分かった」
「あと」
ひよりは少しだけ視線を和らげる。
「お幸せに、はまだ言わない」
「何で」
「まだちょっと悔しいから」
そう言って笑うその顔に、直人はもう返す言葉が見つからなかった。
校舎を出て、駅前へ向かう道に出る。
並んで歩くのは、昨日までと同じはずなのに、今日の空気は少し違った。
何も言わなくても、互いに昨日の続きとしてここにいることが分かる。
「今日は」
澪が小さく言う。
「少しだけ、ちゃんと安心してます」
「少しだけ?」
「はい」
「全部じゃないのか」
「全部だと慢心するので」
その返しに、直人は思わず笑った。
「何だそれ」
「大事です」
少しだけ間を置いてから、澪が続ける。
「でも、昨日よりはずっと安心してます」
「何で」
「朝、名字で返された時は、少しだけ不安になったので」
直人は足を止めかけた。
「……そこ拾ってたのか」
「かなり」
やっぱり見ている。
前より少し遠慮が減った分、こういう確認も前より素直だ。
「で、付箋にしたのか」
「はい」
「普通に聞けよ」
「教室では無理です」
「まあ、俺も無理だけど」
それを聞いて、澪が小さく笑う。
「それなら、同じですね」
駅前の小さなベーカリーに寄ることになったのは、澪が「母に頼まれていたパンを買いたい」と言ったからだった。
前にも一度寄った店だ。
その時はただの寄り道だった。
今日は、もう少しだけ意味が変わっている。
店内は夕方の客でそこそこ混んでいた。
焼きたての匂いの中で、二人は並んでトレーを取る。
「これ、前に買ってたやつですよね」
澪が塩パンを見ながら言う。
「覚えてるのかよ」
「覚えてます」
もはやそこは確認するだけ無駄だった。
澪は母向けらしい食パンと、自分用に小さなクリームパンを選ぶ。
その“自分用”を自然にカゴへ入れる仕草に、直人は少しだけ安心した。
自分の好きなものを選べるようになった、と言っていた。
たしかに、前より少しだけそうなっているのかもしれない。
店を出てから、近くのベンチに座る。
まだ明るさの残る夕方。
行き交う人はいるが、そこまで多くない。
澪が紙袋を膝の上に置きながら、小さく言う。
「今日、名前で呼んでくれなかったの、少しだけ寂しかったです」
「やっぱりそこか」
「大事なので」
「朝一発目でやるのはさすがにまだ無理だろ」
直人がそう言うと、澪は少しだけ考えるように首を傾げた。
「じゃあ、誰もいない時ならいいですか」
その聞き方が、妙に可笑しい。
条件交渉みたいで、でもそれがいかにも今の自分たちらしい。
「……それくらいなら」
直人が答えると、澪の目がわずかに和らいだ。
「じゃあ、今は大丈夫ですね」
「今は、な」
そう返してから、少しだけ息を吸う。
「……澪」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
「はい」
「これで満足か」
「全然です」
即答だった。
「でも、かなり嬉しいです」
やっぱりそう返ってくる。
直人は苦笑して、繋いでいない方の手で自分の額を軽く押さえた。
「お前、ほんとブレないな」
「そこは、もうたぶんずっとです」
その言い方が、以前よりもずっと穏やかだった。
選ばれた安心があるからかもしれない。
重さは残っている。
でも、重さの出し方が少しだけ変わった。
「なあ」
直人が聞く。
「付き合ったら、少しは軽くなるのかと思ってた」
「無理です」
「即答かよ」
「でも」
澪は少しだけ視線を落とす。
「壊し方は変わると思います」
その表現に、直人は思わず目を細めた。
「壊し方って」
「前は、取られるのが怖くて、先に周りを触ってました」
「……うん」
「でも今は」
少しだけ言葉を選ぶ。
「そうじゃなくて、ちゃんと不安とか寂しさを言う方にしたいです」
それはかなり大きな変化だった。
独占欲が消えたわけではない。
嫉妬もしなくなるわけではない。
でも、それを周りを壊す方へ向けるのではなく、自分の言葉として出そうとしている。
それだけで、二人の関係の運用はかなり変わる。
「……じゃあ、ちゃんと言えよ」
直人がそう言うと、澪は小さく頷いた。
「はい」
「我慢しすぎるな」
「はい」
「でも、やりすぎるな」
「それも、はい」
まるで取り扱い説明みたいな会話だった。
なのに、そのやり取り自体が妙にしっくりくる。
帰り道の最後、人気の少ない住宅街の角で、澪が小さく立ち止まった。
「どうした」
直人が聞くと、澪は少しだけ迷ったように視線を揺らした。
「一つだけ」
「何」
「付き合った感じが、まだ少し足りないです」
その言葉に、直人は思わず吹き出しそうになる。
「何だよそれ」
「だって、昨日は色々ありすぎて、ちゃんと実感する余裕がなかったので」
確かに、旧校舎の階段で気持ちを確かめ合って、そのまま手を繋いで帰った。
イベントとしては十分すぎる。
でも“恋人になった実感”という意味では、たしかに昨日は感情が大きすぎた。
「じゃあ、どうすればいいんだ」
直人が半ば呆れて聞くと、澪はほんの少しだけ目を伏せる。
「……少しだけ、近づいてもいいですか」
その言い方で、何を求めているのかは大体分かった。
分かった瞬間、心臓がまたうるさくなる。
それでも、いまはもう逃げたくなかった。
「少しだけ、な」
また同じ答えを返すと、澪はほんの少しだけ笑った。
それから、ゆっくりと距離を詰める。
直人の肩口に、額がほんの少しだけ触れた。
抱きつく、というほどでもない。
ただ、預けるみたいな短い接触。
なのに、その温度は驚くほど鮮明だった。
「……これで」
澪が小さく言う。
「少しだけ、実感しました」
直人は動けなかった。
肩に残る重みはほんの一瞬で、すぐに離れたのに、熱だけが長く残る。
「お前」
「はい」
「それは反則だろ」
「そうですか?」
澪は少しだけ首を傾げる。
「でも、嫌じゃないですよね」
その問いに、直人はもう笑うしかなかった。
「……嫌じゃない」
そう答えると、澪は満足そうに目を細める。
「よかったです」
恋人になった朝は、何も変わらないふりがいちばん難しい。
でもたぶん、それ以上に難しいのは、変わったあとも自分たちらしい温度を探していくことなのだろう。
選ばれたあとも、彼女は僕だけに壊れてみせる。
そして僕もまた、その壊れ方ごと受け入れる方へ、少しずつ慣れていくのかもしれなかった。




