第7話「十三歳から、その日まで」
それから、連れ子だった二人も結婚し、家を出ていった。
祖父が一番可愛がっていた息子も、家を出た。
あれだけ立派に建て直した家に残ったのは、祖父と義理の祖母の二人だけだった。
それから二十四年後、祖父が亡くなった。
祖父の葬式のとき、私は義理の祖母がこんなことを言っているのを聞いた。
「私、この家から追い出されるんじゃないかしら」
すると、父の姉が言った。
「大丈夫よ。住んでる人のほうが強いんだから」
そう言って、義理の祖母を励ましていた。
父は何も言っていなかった。
この土地は、父の名義だった。
父はこの家に住んでいない。
それでも、ずっと固定資産税を払っていた。
そのとき、義理の祖母が心配していたのは、自分がこの家に住み続けられるかどうかと、遺族年金のことだった。
義理の祖母は、祖父の位牌が私たちの家にあることを気にしていた。
位牌を持っていない自分は、祖父の妻として認められず、遺族年金をもらえないのではないか。
そう思ったらしい。
そして、祖父の仮の位牌まで作った。
自分には遺族年金を受け取る資格がある。
そう主張してきた。
しかし父は、その前にすでに、義理の祖母が遺族年金を受け取るための手続きを済ませていた。
私は、それが不思議だった。
なぜ父は、そこまでできるのだろう。
私には分からなかった。
その後、義理の祖母は足が悪くなり、一人で暮らすことが難しくなった。
連れ子だった息子が、義理の祖母が遺族年金を受け取っていることを確認した。
息子夫婦のもとへ引き取られることになった。
家を出たあと、連れ子の息子が、私たちの家へ挨拶に来た。
母は聞いた。
「家の片付けは済んだんですか?」
すると、
「土地の持ち主が片付ければいいだろ!」
そう怒鳴られたという。
土地の持ち主。
それは、父だった。
それから父は、仕事の合間を見つけては、何度も元実家へ片付けに行った。
家に残されていたのは、ほとんどがガラクタだった。
高価な家電だけは、すでに取り外されていた。
誰も住まなくなった家は、窓を割られることもあった。
父は、その家へ何度も通った。
十三歳のとき、母親を亡くした家。
リフォーム前の掘っ立て小屋で十五歳までしかいなかった家。
私たち家族が一度も泊まることはなかった家。
そして、いつの間にか自分のものにされていた土地。
父がどんな気持ちで、その家を片付けていたのか。
子どもの私でも、聞くことはできなかった。
それから、十四年が経った。
最終的に、その土地と家は不動産屋に引き取られることになった。
その土地は、日当たりが悪く、狭かった。
決して、条件のいい場所ではなかった。
それでも、長いあいだ父の名義だった土地が、父の手を離れた。
父は、ほっとしているように見えた。
母が父に言った。
「お疲れさま」
父は、
「ああ」
とだけ答えた。
譲ろうとしたこともあった。
それでも、土地は父のもとに残り続けた。
十三歳から、その日まで。
父はようやく、あの土地から解放された。
父が十三歳のとき、一人の大人の身勝手な行動から、この土地の話は始まった。
その後、どこかで話し合うこともできたはずだ。
父が大人になったとき。
祖父が家を建て直すとき。
腹違いの弟が成人したとき。
きっと、何度も機会はあった。
それなのに、なぜきちんと話し合わなかったのか。
それは、私には分からない。
もし私が父だったら、耐えられなかったと思う。
母もかなりハードな人生を送ってきた。
けれど父も、母とはまったく違う意味で、ハードな人生を送ってきたのだと思った。
まさか母のエッセイを書くために昔の話を聞いていて、父の実家についての謎が解けるとは思ってもみなかった。
子どもの頃から不思議に思っていたことの答えが、こんなところにあった。
父の話を聞いて、改めて思ったことがある。
話し合うことは、大切だ。
そして、家がどれだけ綺麗でも、料理がどれだけたくさん並んでいても、それと居心地の良さは別なのだと思う。
父の実家は、いつ行っても綺麗だった。
料理もたくさん並んでいた。
それなのに、子どもの私は、なぜかあの家を居心地がいいとは思わなかった。
反対に、母の実家は土ぼこりもあった。
虫も入ってきた。
料理の味だって、濃い日も薄い日もあった。
それでも、
「よく来たな」
「また、いつでも来なね」
そう言って、いつも笑ってくれた。
「何を食べるかより、誰と食べるかが大切だ」
そんな言葉を聞いたことがある。
今なら、その意味が少し分かる気がする。
家というのは、綺麗な建物のことではない。
そこにいる人と、安心してご飯を食べられる場所なのかもしれない。




