第9話:星屑の対価と、忍び寄る影
便利屋『灰色の月』の朝は、相変わらず騒がしい。
だが今日、俺が向き合っていたのはラピスの朝食の催促ではなく、作業机の上に転がした一粒の輝きだった。
ベイン邸の事件で手に入れた、『スターダストダイヤモンド』。
窓から差し込む朝の光を吸い込み、何倍もの輝きとなって返すその鉱石は、物理法則さえ無視したような無色透明だった。
眺めているだけで吸い込まれそうな美しさだが、今の俺にとっては厄介事の結晶にしか見えなかった。
便利屋の台所事情は、控えめに言っても火の車だ。
昨日のドンラ商会の報酬でしばらくは食い繋げるが、このボロ家の修繕費、特に隙間風の鳴る二階の窓枠と、ラピスの底なしの胃袋を満たし続けるには、この石の一部を換金するしかなかった。
「アルス様、その石、本当に売ってしまうんですの? なんだか嫌な予感がしますわ。あんな強欲な未亡人が血眼になって探していたものですし……ろくな出所ではないと思いますわよ」
「宝石に罪はないさ。悪いのは、それを扱う人間の欲だ」
布に包もうとした俺の手を、ラピスがじっと見つめている。
「それに、お前がさっきから『お肉、お肉』と念じている声が、俺の頭の中に直接響いてくるんでね。このままだと、今夜の夢にまで牛の群れが出てきそうだ」
「そ、そんな超能力は持っていませんわ! ……でも、炭火で焼いた極上のステーキ、あの香ばしい脂がこの石一つで手に入るなら、確かに魅力的ですわね。背に腹は代えられませんわ!」
ラピスは実に現金なものだ。
さっきまでの懸念はどこへやら、すでに彼女の頭の中では今夜の晩餐会が始まっているらしい。
俺は小さく息を吐き、宝石を一粒、目立たない麻布に包んで懐に収めた。
リンドヴルムの商業区。
活気と馬のいななきが混ざり合う大通りを抜け、俺たちが向かったのは、街でも指折りの公認鑑定所『黄金の天秤』だった。
ギルドを通さない無名の便利屋が、この規模の宝石を持ち込むのは本来リスクが高い。
だが、裏路地の怪しげな商人に持ち込めば、どこから足がつくか分からない。
公的な場所で正当な鑑定を受けさせ、売買の記録を残しておく方が、後々の言い訳が立つ、そう踏んだのだ。
重厚なオーク材の扉をくぐり、通された奥の応接室。
現れた老鑑定士は、俺が差し出した石をベルベットのトレイに乗せ、ルーペで覗き込んだ瞬間、石像のように硬直した。
「……信じられん。これは、天然のスターダストか。しかも、欠け一つ、濁り一つない極上品だ。これほどの個体、一生拝めるものではないぞ」
「いくらになる。即金で払える額を提示してくれ」
俺が淡々と促すと、老人の指先がカタカタと震え、ルーペがトレイの縁を叩いた。
彼は顔を上げ、俺とラピスを値踏みするように見つめる。その瞳には、驚きを通り越した明白な恐怖が宿っていた。
「……若者よ。あんたは、これがどういう意味を持つか分かって持ち込んだのか? この石は数年前、西の帝国の国庫から消えたとされる『禁忌の秘石』と酷似している。魔法を反射し、理を歪める聖遺物……。これを所持しているだけで、国家反逆罪に問われかねん代物だぞ」
背筋を冷たいものが走った。
マダム・ベインの夫は、これを単なる隠し資産としてではなく、帝国絡みの危険な裏ルートから手に入れていたらしい。
「……換金はやめだ。少し調べ直す」
「待ちなさい! 帝国の秘石に関わる品となれば、公認鑑定士には即座の通報義務がある! 私個人の判断で帰すわけにはいかん、衛兵団に説明を」
「ラピス、出るぞ」
公的な記録を残して安全を確保する――その判断が、完全に裏目に出た。
俺はトレイから強引に石を奪い返し、呆然とする老人を置いて、ラピスの手を引いて鑑定所を飛び出した。背後で老鑑定士が警笛を鳴らし、人を呼ぶ鋭い叫び声が響き渡る。
大通りへ戻り、早足で家路を急ぐ。
だが、周囲の空気のわずかな歪みを、俺の目は見逃さなかった。
通りの角に立つ荷担ぎの男が、俺たちを一瞥した直後に視線を逸らした。
二つ先の路地の物陰にも、同じように歩調を合わせて移動する影がある。視線の角度、重心の運び方、雑踏の中で不自然に保たれる距離感。
偶然ではない。完全に包囲網を敷かれている。
「……ラピス。予定変更だ。ステーキはお預けにして、少し路地を抜けるぞ」
「私の鼻にも、さっきから酷く饐えた鉄の匂いが近づいてきてますわ。街のゴロツキの類じゃありませんことよ」
俺たちはあえて人通りの途絶えた、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
腐った木樽が積まれた行き止まり。そこで足を止めると、建物の影から三人の男が音もなく滑り出てきた。
一人は前腕に重厚な金属パーツを組み込んだ魔導具を纏う魔法使い。残る二人は、足音すら殺した暗殺者。
身なりには統一された規格があり、私設のゴロツキとは一線を画す組織の匂いが漂っていた。
「便利屋。その石を渡してもらおうか。大人しく差し出せば、命までは取らん」
「……随分と耳が早いな。どこかの国の飼い犬か?」
男たちは答えず、魔法使いが短く鋭い詠唱を口走った。空間が不自然に歪み、不可視の真空の刃が四方から首を刈り取らんと迫る。
「アルス様! 障壁が間に合いませんわ!」
「……耳を塞いでいろ」
俺は一歩踏み出し、空中に人差し指を滑らせた。
飛来する真空の刃、その圧力勾配を成立させている術式の結節点へ、指先を添える。
パリン。
薄い氷が割れるような音が響き、真空の刃は俺の数センチ手前で定義を失い、ただの生ぬるい風となって霧散した。
それだけではない。波導の逆流によって、魔法使いの腕に装着されていた金属魔導具のコアが内側から砕け散り、黒い煙を吹いて沈黙する。
「……な、何だ今のは……術式が、消えた!?」
「魔法ってのは理屈で編まれている。構造の弱い部分を突けば、解体するのはそう難しくない」
俺が一歩、冷淡に間合いを詰めた、その時だった。
頭上の屋根瓦を、微かな重量が踏みしめる乾いた音がした。
見上げれば、暮れゆく月を背負うようにして、一人の男が立っていた。
夕風に翻る、銀色のマント。
その胸元には、鋭利な刃を交差させた――帝国の紋章が、鈍く光を照り返している。
「……見つけたぞ」
冷え切った低音が、路地裏に落ちた。
その声を聞いた瞬間、隣にいたラピスの全身が凍りついた。
彼女の顔から一気に血の気が引き、俺の袖を掴む指先が、これまで見たこともないほど激しく震え出している。
「ラピス……?」
俺の呼びかけにも応えず、彼女はただ、屋根の上の銀マントを見開いた瞳で見つめ続けていた。
宝石を換金するまでもなく。
どうやら俺たちの前には、すでに厄介すぎる嵐が立ち塞がっていたらしい。




