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第8話:見えない相棒と、沈黙の帳簿

 便利屋『灰色の月』の朝は、腹の虫よりも先に、底をつきかけた革財布の軽さで現実を突きつけてくる。


「アルス様……見てください、このスープの透明度。底に沈んだ豆の粒が、まるで夜空に浮かぶ遠い星々のように見えますわ……。要するに、薄すぎて白湯の味しかしませんの!」


「文句を言うな。その星とやらを一個ずつ噛み締めながら飲むのが、今の我が家の流儀だ」


 俺は薄い塩味のスープを喉に流し込み、木製のスプーンを置いた。


 前の事件で手に入れた宝石は、まだ手元に置いたままだ。街を騒がせた事件の直後に無名の便利屋が大粒のダイヤモンドを持ち込めば、どこからか足がつく。


 俺たちが今使えるのは、手元に残ったわずかな日銭と、俺が無能を装ってこなしたドブさらいの報酬だけだった。


「お肉……炭火でじっくり脂を落とした、分厚いお肉が食べたいですわ……」


「街の掲示板に、北区の倉庫街で帳簿を食い荒らす害獣が出たって貼り紙があったぞ。紙喰い(ペーパー・ラット)の駆除依頼なら、ギルドを通さずとも商人が小銭を出すかもしれん」


「ネズミ退治なんて地味な仕事、お肉何グラム分にしかなりませんわよ!」


 ラピスが頬を膨らませて机に突っ伏した、まさにその時だった。

 階下の薄い木扉が、遠慮がちに二度叩かれた。


「……助けてください、便利屋さん。お父様が、衛兵に連れて行かれてしまったんです」


 部屋に通されたのは、瞳を潤ませた豪商の娘と、その肩口に手を添えて付き添ってきた一人の男だった。


「朝早くから申し訳ありません。ドンラ商会で番頭を務めております、ガイルと申します。こちらは当商会の会頭の娘、セーラ様です」


 整えられた口髭に、仕立ての良い灰色の三つ揃え。男は深々と頭を下げた。


「どうかセーラ様を……ドンラ会頭を救っていただきたい。会頭が横領など、天地がひっくり返ってもあり得ません。しかし衛兵団は聞く耳を持たず、私のような一介の使用人では手詰まりでして……」


「事情を話してくれ。何があった」


 俺が促すと、ガイルは沈痛な面持ちで語り始めた。


「昨夜のことです。我が商会のみならず、街の商人組合の全取引を記録した重要帳簿の一部が、忽然と消え失せたのです」


 男はハンカチで額の汗を拭いながら、身振りを交えて続けた。


「現場は商会の最奥にある書庫です。衛兵団直伝の強力な対魔法結界が常時張られており、魔法による侵入も、転移も、部屋の内部に対する外部からの干渉も一切受け付けません。窓一つない厚さ三十センチの石壁に囲まれ、唯一の鉄扉を開閉できるのは、会頭が肌身離さず持っている一点物の銀鍵のみ。予備など存在しないのです」


 窓のない石造りの部屋、魔法を遮断する結界、そして唯一の鍵。


「帳簿の消失が確認されたのは今朝のことです。会頭は昨夕、机の上に確かに帳簿があるのを確認して施錠しました。しかし今朝、自ら鍵を開けて入ると、重要なページだけが綺麗に失われていたのです。衛兵団は『魔法が効かない以上、鍵を持つ会頭自身が持ち出した』と断定し、連行してしまいました」


 ガイルは嘆くように両手を広げ、椅子の背にもたれかかった。


「……なるほどな」


 前世の事務所で、所長がよくこぼしていた言葉が脳裏をよぎる。『説明が詳しすぎる目撃者ほど、自分の見せたい景色を語っているものだ』。


それに、先ほどからセーラの肩に添えられているガイルの手。守るように見せかけて、指先には妙に力が入っていた。


「ベイン邸の事件を解決された便利屋さんだと、市場の噂で聞きました。どうか父を助けてください!」


 セーラが縋るように見つめてくる。


「引き受けよう。……ラピス、出かけるぞ」


「お肉! 解決の暁には特上の霜降り肉ですわね!」


 俺は立ち上がり、机の影に向かって指先で小さく合図を送った。



 封鎖されたドンラ商会の書庫は、重苦しい静寂に包まれていた。


 入り口の鉄扉には、衛兵団が貼った封鎖の紙が揺れている。ガイルは廊下の角で足を止め、申し訳なさそうに頭を下げた。


「私はここまでです。衛兵から現場を荒らすなと厳命されておりますので。……吉報をお待ちしておりますよ、アルス殿」


 男が去り、書庫の中に二人きりになると、ラピスが鼻をひくつかせた。


「ふん。慇懃な態度でしたけれど、なんだか鼻につく男ですわね。高級な香水の奥に、饐えた油のような嫌な匂いが混じっていましたわ」


「お前の鼻は鑑定眼より頼りになるな。……さて、中を調べるか」


 部屋の中央には重厚な樫の机があり、棚には無数の書類が整然と並んでいた。

 ラピスが指先を立てて周囲の気配を探るが、すぐに首を横に振る。


「駄目ですわ。部屋全体に分厚い結界が張り巡らされていて、私の探知魔法すら通りません。外からの魔法的な干渉は完全に遮断されています」


「ああ。だが、抜け道のない部屋なんてそうそう作れるもんじゃない」


 俺は床に膝をつき、壁に沿って指を滑らせた。


部屋の四隅、石壁の継ぎ目。空気を通すための、指先二本分ほどの細い通気管が外壁へと抜けている。


「……人間は通れないが、生き物なら話は別だ。ルナ、頼めるか」


 足元の影から、透き通るような姿をしたルナがふわりと現れた。


「……うん。この穴の先、見てくるね」


 実体のないルナは、結界の膜をすんなりと通り抜け、通気管の暗がりへと潜り込んでいった。


 数分後。

 壁の隙間から戻ってきたルナが、俺の耳元で小さく囁いた。


「……アルス、いたよ。小さくて、毛むくじゃらの変なネズミ。……さっきのおじさんの部屋の棚の奥で、青い紙の切れ端を、もぐもぐ食べてる」


「毛むくじゃらのネズミ、だと?」


 俺が呟くと、横で聞き耳を立てていたラピスが小さく声を上げた。


「……それ、今朝話していた『紙喰い(ペーパー・ラット)』じゃありませんの!? 普段は山奥にいる魔獣ですけれど、特定のインクを好物と勘違いして、紙ごと食い尽くしてしまう害獣ですわ!」


「特定のインク、か」


 俺は机の上に残されていた予備の帳簿を開いた。


ドンラ会頭が愛用していたという、鉱物粉末を調合した特製の青インク。独特の渋い香りが紙面から漂っている。


「帳簿そのものを盗み出せば、持ち出す過程で足がつく。だが、部屋の外から害獣を潜り込ませて『中身だけを食わせる』なら、鍵を持つ会頭しか犯行が不可能な密室を偽装できる……という筋書きか」


 俺が立ち上がると、ラピスが首を傾げた。


「でも、どうやってあの通気管を通したんですの? 紙喰いはただ放しても勝手には動きませんわよ」


「餌でおびき寄せたのさ。紙喰いを誘導する山香草の油を通気管の入口から奥へと垂らし、夜中に捕獲籠から放り込んだんだろう。……ラピス、少し使い走りを頼む。衛兵の詰め所へ行って、知り合いの隊長を呼んできてくれ」


「衛兵を、ですの?」


「ああ。犯人を追い詰めるには、証拠を公式に押収できる第三者が必要だからな。ガイルの部屋を改めさせる」




 翌朝。ドンラ商会の大広間には、商人組合の重鎮たちと、青ざめた顔で座り込むドンラ会頭、そして彼に寄り添うガイルの姿があった。


「残念だがドンラ、状況が揃いすぎている。横領の疑いは晴れん。……ガイル、後の商会はお前に任せる」


 組合長が重々しく告げると、ガイルは悲痛な顔を作って会頭の手を握りしめた。


「旦那様……商会は私が命に代えても守り抜きます。どうかご安心を……」


「話の途中で悪いが、少し事実関係を訂正させてもらおうか」


 広間の扉を押し開け、俺とラピスが踏み込んだ。

 ガイルの眉が、わずかに跳ね上がる。


「便利屋殿……何か見つかったのですか?」


「ああ。あんたが昨夜、自分の部屋で一生懸命に隠そうとしていた帳簿の残りカスのことだ」


 ガイルはわざとらしく首を振ってみせた。


「何を根拠にそのような言いがかりを。私の部屋には衛兵も立ち入りましたが、何も」


「昨夜、衛兵隊長立ち会いのもとで、あんたの部屋を改めて調べさせてもらったよ。床板の下から、紙喰いを入れる捕獲籠と、青インクの小瓶が出てきたぞ」


「……っ!」


 ガイルの呼吸が乱れる。間髪入れずにラピスが一歩前へ出た。


「紙喰いを誘導するには、乾燥させた山香草の香油が必要ですわ。ガイルさん、あなたの袖口から、その油の匂いがしっかり漂っていますのよ」


「香油など……身だしなみとして誰でも使う!」


「なら、その袖口の縫い目に挟まっている紙片は何だ?」


 俺はガイルの右腕を指差した。


「紙の繊維に、帳簿と同じ特製青インクが染み込んでいる。通気管から呼び戻した紙喰いから、食べ残しを回収した時についたものだな。紙喰いを誘導する山香草の油を使えば、通気管の中を往復させることもできる……山香草の香油、紙喰いの捕獲籠、帳簿の紙片、そして特製青インク。これだけ揃えば言い逃れはできんぞ」


 ガイルの顔から血の気が引いていく。


「帳簿そのものを消して横領の罪を会頭に着せ、失脚させて商会とその地位を手に入れる。……最初から、あんたが全部仕組んだことだ」


 ガイルの唇が震え、目が据わった。

 男は懐に手を滑り込ませ、掌サイズの赤い魔導具を抜き放った。


「黙れ……! しがない便利屋風情が、余計な真似を!」


 魔導具が赤い光を放ち、空間に歪んだ術式が広がりかける。転移の術式で逃走を図る構えだ。


「アルス様!」


 ラピスが身構えるより早く、俺は無造作に右手を伸ばした。

 魔導具の中心にある術式の結節点へ、人差し指を向ける。


「《終焉の理》」


 パリン。


 薄いガラスが割れるような澄んだ音が響いた。


膨れ上がっていた魔力は一瞬で霧散し、ガイルの手の中にあった魔導具は、ただの光沢のない石ころへと変わった。


「……え?」


 ガイルが呆然と手元を見つめる。


「魔法に頼りすぎるから、綻びが出るんだ」


 俺が告げると同時に、広間の扉から待機していた衛兵たちが雪崩れ込み、抵抗を失ったガイルを取り押さえた。



 夕暮れ時の『灰色の月』。


 居間のテーブルには、ドンラ会頭から弾むように手渡された謝礼金で買った、極上の霜降り肉が並んでいた。


「……お肉! 本物のお肉ですわ! この脂の甘み、噛むたびに生きている実感が湧いてきますわよ!」


 ラピスが頬を肉でいっぱいに膨らませ、幸せそうにフォークを動かしている。


「ルナ。よくやってくれたな」


 俺が二階の薄暗がりへ声をかけると、透き通るような身体をした少女が、恥ずかしそうに指先を弄りながら顔を出した。


「……おじさん、すごく怖かったけど……セーラちゃんが泣き止んで、よかった」


 前世の調査仕事でも、一番厄介なのは身内による裏切りだった。


 魔法が当たり前のこの世界で、見えない相棒と、欲望に忠実すぎる大食いの少女。


 この奇妙な顔ぶれとなら、俺の望む「静かな生活」も、案外悪くない形で守っていけるのかもしれない。


「……おいラピス。その一番大きい肉は俺の取り分だ。全部平らげるなと言っただろ」

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