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第10話:『ごっこ遊び』の終焉

 屋根の上に立つ銀色のマント、帝国の男が放つ威圧感は、路地裏の湿った空気を重く淀ませ、俺たちの肩へと圧し掛かってきた。


 先刻の男たちが使っていた、付け焼き刃の小細工とは次元が違う。研ぎ澄まされた刃そのもののような、純粋で濃密な殺意の塊。


「……下がっていろ、ラピス」


 俺は喉の奥にせり上がる震えを押し殺し、一歩前に出ようとした。だが、指先に力が入りきらない。


 自嘲するまでもない。俺はこの力を使いたくなかった。

 事象を解体し、定義そのものを崩す《終焉の理(デリート・コード)》。


 これを行使すれば目の前の脅威を退けるのは容易い。だが、それは前世の探偵時代に嫌悪し、最後にはその犠牲となった「力任せの解決」そのものだ。


 手加減がきかないほど強い相手に対し、力を使えば相手を完全に壊してしまう。人を殺したくない。

一度でもその一線を越えれば、二度と「ただの便利屋」には戻れない気がしていた。


 男の手が、月光を反射する長剣の柄へと伸びる。


「亡国の処刑姫が、路地裏で便利屋の娘ごっこか。随分と楽しそうじゃないか」


 男の嘲笑とともに、大気が震え、不可視の魔力が収束していく。

 俺の脳がコンマ数秒のうちに回避と迎撃の可能性を弾き出した、その時だった。


「アルス様。そんなに迷っていたら、お肉が冷めてしまいますわ」


 背後にいたはずのラピスが、羽毛が舞うような軽やかさで俺の横をすり抜けた。

 そこには、さっきまで俺の袖を掴んで震えていた少女の面影はなかった。一切の躊躇も、一抹の恐怖も消え失せている。


「な……!?」


 手前にいた魔法使いの男が、防御障壁を展開する暇さえなかった。

 ラピスは懐から取り出した無骨なナイフに、極めて細く鋭い風の魔力を纏わせる。


 その足運び、重心の移動、刃の軌道。それは天真爛漫な少女の動きではない。獲物の急所を最短距離で貫き、確実に命の灯を消すための、洗練され尽くした暗殺の所作だった。


 ザシュッ。

 乾いた音が路地裏に落ちる。


 ラピスの表情には、笑みも怒りもなかった。朝食のパンを切り分ける時と同じ、不気味なほど平坦な無表情のまま、男の喉元へナイフを突き立て、一切の抵抗を許さず横へと引き絞る。


 噴き出す鮮血を避けることもせず、彼女は間髪入れずに次の男へと跳躍した。


「がっ!」


 風の刃を纏った一閃が、二人目の男の急所を正確に捉え、その場に縫い止める。鮮やかで、迷いのない無慈悲な連撃。


 俺はようやく気づいた。

 さっきまでの彼女の震えは、迫り来る死への恐怖だけではなかったのだ。


 二度と使わないと封じていた過去の技術を暴かれ、俺との平穏な暮らしを失ってしまうことへの恐れ。

 それでもなお、目の前の危機を排除するために、彼女は自らその封印を解いてみせたのだ。


「……っ」


 最後の一人を薙ぎ倒し、ラピスが足を止めた。

 頬に付いた血を上着の袖で乱暴に拭い、眉をひそめる。


「……この服、気に入っていましたのに」


 屋根の上にいた銀マントの男は、すでに地上へと転落していた。


ラピスが初撃と同時に放っていた不可視の風刃が、男の体幹を深く捉えていたのだ。男は路地裏の泥にまみれ、壁にもたれかかりながら力なく血を吐き出していた。


「……は、は……。なるほどな」


 男の濁った瞳が、返り血を浴びたラピスを凝視する。


「……やはり生きていたか、『灰銀の処刑姫』」


 その言葉を聞いた瞬間、ラピスの肩がわずかに跳ねた。

 だが彼女は振り返らず、ナイフについた血を払い、いつもの調子を作ろうと口を開く。


「何を言っているのか、さっぱり分かりませんわ。アルス様、この方、頭を打って混乱しているようですわね」


 ラピスは取り繕うように笑ってみせた。だが、その声は微かに震え、俺の胸に冷たく突き刺さった。


 彼女がただの逃走市民ではないことなど、最初から分かっていたはずだ。

 それでも俺は、彼女を「守られるべき相棒」として都合よく定義し、自分の平穏を守るための言い訳に使っていた。


 俺が「力を使いたくない」と立ち止まっている間に、彼女は俺を守るために、自ら禁忌の刃を抜いたのだ。


「……ラピス」


 俺の声に、彼女の背中が小さく強張る。

 俺は一歩前に出ると、まだ息のある銀マントの男の前へ立った。


 男がかすかに顔を上げ、残された魔力で腰の短剣を抜こうと指を動かす。

 俺はその胸元へ、静かに右手を向けた。


「……雇い主に伝えておけ。次はない、とな」


「……な、にを」


 俺は右手の指先を弾いた。


「《終焉の理》」


 パリン。


 薄い氷が砕け散るような澄んだ音が響いた。


 放たれた波導は、男の肉体を害することなく、その体内を巡る魔術回路と、マントに刻まれた通信用の術式構造だけを綺麗に消去した。


 男の手から短剣が転がり落ちる。体内の魔力を完全に失った男は、二度と術を行使できない身体となり、虚脱感に目を見開いたまま意識を手放した。


 路地裏に、夜の静寂が戻る。


「アルス、様……?」


 ラピスが、怯えたような瞳で俺を見上げていた。隠していた本当の姿を見られ、拒絶されることを恐れるかのように。


 俺は彼女の前にしゃがみ込み、汚れるのも構わずに、その頬に残ったわずかな汚れを指先で拭った。


「悪かったな、ラピス。……俺がもたもたしていたせいで」


「……え?」


「お前が過去に何を背負っていようと、関係ない。今のあんたは俺の便利屋の相棒だ」


 俺は立ち上がり、彼女の頭を軽く小突いた。


「お互い、隠し事はこれでおしまいだ。……帰るぞ。ステーキは無理だが、美味い肉を焼いてやる」


「……はい、アルス様。……お腹が、空きましたわ」


 ラピスは小さく頷き、俺の服の端をぎゅっと握り直した。


 お互いに平凡な人間を演じ合う、都合のいい「ごっこ遊び」は終わった。

 だが、冷たい夜空の下を歩く二人の足取りは、前よりも少しだけ確かな重みを持っていた。

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