第11話:洗い落とせぬ血と、帝国の深淵
時計塔の隣家へ戻った俺たちを待っていたのは、張り詰めた沈黙だった。
二階の階段から顔を覗かせたルナは、血に濡れたラピスと俺の姿を一瞥し、何かを言いかけた唇を閉じて、音もなく影の奥へと姿を引いた。
俺は何も言わず、台所の薪ストーブに火を入れて湯を沸かした。
鉄鍋の中で湯気が立ち上り、木べらが擦れる小さな音だけが狭い室内に落ちる。洗面器に湯を注ぎ、清潔な木綿の布を浸して固く絞ると、椅子に深く腰掛けていたラピスの前に置いた。
「……自分で、できますわ」
「いいから、じっとしてろ」
俺は布を広げ、彼女の頬にこびりついた赤黒い飛沫を、一枚ずつ薄皮を剥ぐように拭っていった。
普段なら、
「アルス様が私の顔を撫でるなんて、明日は槍が降りますわ!」
などと騒ぎ立てるはずのラピスが、今はただ視線を伏せ、感情を切り離したように俺の指先の動きに身を任せていた。
銀灰色の髪を指で梳き、固まりかけた血の塊を湯でゆっくりと解いていく。
人を殺害した技術への嫌悪はなかった。ただ、彼女にその牙を抜かせるところまで追い込んでしまった、自分の甘さと不甲斐なさへの苦い怒りだけが腹の底に残っていた。
「……エデルガルド」
膝の上で握りしめられた自分の手を見つめたまま、ラピスがぽつりと口を開いた。
「私の……故郷の国の名前ですわ」
絞り出すような声だった。
「王族に連なる者は、成人までにそれぞれの役目を与えられます。……私は、王位継承権第三位でしたの。けれど、王座を継ぐために育てられたわけではありません。王家には、表に立つ者と……表に出せない仕事を片付ける者が、どうしても必要でしたから」
ラピスは自嘲するように短く息を吐いた。
「王座から遠ざける意味も含めて、私に与えられた役目は……『牙』でした。王座を脅かす不浄を、密かに、確実に間引くための訓練だけを受けさせられて育ちましたの。……国が帝国に滅ぼされた夜、私は『生き延びて、いつか正統を証明せよ』と命じられました。それからは……追手を殺して、泥を啜って逃げるだけの毎日でしたわ」
彼女の手指が、スカートの布地をぎゅっと引き絞る。
「……アルス様に拾われるあの日まで、私の手は最初から赤く染まっていましたのよ。……後悔、しませんか? こんな私を、傍に置くことを。それに……最初、森であなたを見た時、その力を利用して生き延びようと考えたんです」
「お互い様だ」
俺は汚れた布を洗面器の湯に浸した。赤く濁った水面が静かに揺れる。
「俺だって、最初から全部を話していたわけじゃない。ただの無能な便利屋のフリをして、あんたを案内人として利用したんだ」
顔を上げたラピスの青い瞳に、俺の視線をまっすぐに合わせる。
「あんたの価値を、昔の国や帝国に決めさせる必要はない。俺が知っているのは、俺の焼いた肉を美味そうに食う便利屋の相棒だ。それで十分だろ」
「……アルス様」
「隠し事はこれでおしまいだ。……あんたが過去を隠して静かに生きたいなら、俺がその平穏を守る。そのために必要な知恵なら、いくらでも貸してやる」
俺は彼女の頭にポンと手を置き、立ち上がった。
「座って待ってろ。約束通り、とびきりの肉を焼いてやる」
もう、無能のフリをして何も知らない顔を決め込むつもりはなかった。
ラピスが帝国に追われているなら、その追手ごと退けるだけの備えを固める。それだけのことだった。
大陸の北方、極寒の地に広がる軍事国家――帝国ガラクシア。
オゾンの匂いと羊皮紙の香りが入り混じる帝都の魔導研究所の一室で、一つの異変が観測されていた。
黒檀の円卓に並べられた無数の水晶。その一角――リンドヴルムへ潜入させていた特務工作員の生体反応を同期していた『魂石』が、微細な破片すら残さず、サラサラとした灰色の砂へと崩れ落ちていた。
「……ただの損壊ではないな」
豪奢な軍服を纏った男が、トレイの上に残った砂を指先でつまみ上げた。
帝国の特務査察官、『断罪者』ヴィクトール。
右目には無機質な魔導の義眼を嵌め込み、常に大陸全土の魔力循環を監視している男だった。
「報告を。死亡したのか」
「それが……死亡反応ではありません」
控えていた魔導師が、困惑に声を震わせた。
「魂石との接続そのものが、基点から完全に切断されています。通常の死亡であれば魂が肉体を離れて死後領域へ移る際の残留波導が記録されるはずですが……そうした痕跡すら一切存在しません。まるで、対象の魔術回路と通信機構そのものが、術式の定義ごと存在しなかったかのように削ぎ落とされています」
「既存の魔導体系では説明がつかん、消去現象か」
ヴィクトールの義眼が、不気味な赤光を明滅させた。
「面白い。魔法でも、呪詛でもない力か。……辺境都市リンドヴルムで、何が起きている」
ヴィクトールは壁に掲げられた巨大な軍用地図へと歩み寄り、西の辺境に記されたリンドヴルムの座標に視線を落とした。
「『亡国の牙』の行方を追うだけの簡単な任務のはずだったが……想定外の毒が混ざったようだな」
ヴィクトールは背後の副官に短く命じた。
「直属の魔導騎士小隊を招集しろ。私自らが現地へ赴く」
「査察官自らがですか? たかが辺境の亡命者一人に」
「亡命者などどうでもいい。その消去現象を引き起こした『特異点』を確保する」
ヴィクトールは冷徹に言い捨て、地図の上のリンドヴルムの文字を指先で静かに押さえつけた。
「殺すな。生かして連れてこい。……もしこの現象を軍事的に再現できるなら、国家間の防壁など一枚の紙切れに過ぎなくなる」




