第5話:欠けた両手と、無能なる鑑定
リンドヴルムの朝は、深い霧と家畜の匂い、そして隣り合う時計塔が奏でる重厚な金属音と共にやってくる。
便利屋『灰色の月』を開業して数週間。俺たちの生活は、相変わらず「静かな生活」とは程遠いものだった。
「アルス様! 大変ですわ! 今日の朝食、パンの耳すら残っていませんのよ! 私たちの活動資金……いえ、お肉代は一体どこへ消えてしまいましたの!?」
寝癖のついた銀髪を揺らしながら、ラピスが台所で声を張り上げている。彼女の胃袋は、どうやらリンドヴルムの迷宮よりも深く、複雑な構造をしているらしい。
昨日、ドブさらいの報酬で買ったはずの食料は、夜の間にルナとの話し相手(という名の深夜の女子会)の供え物として消滅したようだった。
「……叫ぶな。お前の声のせいで、せっかくルナが教えてくれた昨夜の街の様子が頭から飛ぶだろうが」
「そんなことより今は胃袋の静寂の方が深刻です! 何かこう、一気に金貨が降ってくるような依頼はありませんの!?」
俺はため息をつき、テーブルに広げた街の掲示板の写しを指先で叩いた。そこには、今朝未明に街を駆け巡った陰惨な事件の報が記されていた。
『街の北門守備兵ジラス、廃屋にて遺体で発見。遺体に著しい損壊あり』
「……これだ。さっき、衛兵隊が青い顔をして通り過ぎるのを見た。ギルドが動いているようだが、どうにも雲行きが怪しい」
「守備兵殺し……物騒ですわね。でも、ギルドや衛兵が動いているなら、私たちのような無名の便利屋に出番なんてありますの?」
「出番はあるさ。……ルナ、昨夜、北門の方で見かけた話、もう一度聞かせてくれ」
薄暗い部屋の隅から、ふわりとルナが姿を現した。彼女はまだ実体化する前の、儚げな幽霊の姿だったが、その瞳には明確な戸惑いが宿っていた。
「……うん。あのね、衛兵さんの詰め所の近くで……女の人が、手錠をかけられて連れて行かれるのを見たの。……あの人、悲しい匂いしか、しなかったよ」
ルナ自身が嘘をつくことはない。
だが、彼女が感じ取るのはあくまで主観的な感情の残滓であって、犯行の有無を物理的に証明する証拠ではない。
それでも、現場の空気が歪んでいることを察知する手がかりとしては十分だった。
「よし、ラピス。準備しろ。……朝食代を稼ぎに行くぞ」
事件の起きた廃屋は、リンドヴルムでも特に治安の悪い『影の路地』の一角にあった。現場の周囲にはすでに衛兵とギルドの鑑定官が集まり、野次馬たちが遠巻きにその様子を伺っている。
「どけ、どけ! 無能な便利屋の出る幕じゃない。ここはギルドが『魔法犯罪』と断定した現場だ!」
俺たちが近づこうとすると、仕立ての良いローブを着たギルドの捜査官が鼻を鳴らした。 彼の視線の先、板張りの床には目を背けたくなるような惨状が広がっていた。
被害者は守備兵のジラス。屈強な体格だったはずのその男は、全身に執拗な打撲痕を受け、そして、両手首から先が、無残に切り落とされていた。
「ひっ……! 何ですの、このえげつない殺し方は……!」
ラピスが俺の背中に隠れるようにして小さく息を呑む。
「……鑑定官殿。これがなぜ『魔法犯罪』なんです?」
俺がとぼけた顔で尋ねると、捜査官は勝ち誇ったように胸を張った。
「決まっているだろう。被害者は守備兵だ。武器を扱うのが商売の男から、わざわざ『両手』だけを奪い、徹底的な拷問を施す。これは魔術的な儀式だ。失われた手首は、何か特殊な術式を刻むための触媒に使われたに違いない。……そして、犯人は既に割れている」
捜査官が指差した先。
衛兵の詰め所へと連行されていく、一人の若い女性がいた。ボロボロの服を纏い、絶望に打ちひしがれたその女性は、被害者ジラスの恋人、エレナだそうだ。
「エレナはジラスと痴話喧嘩を繰り返していたという証言がある。……彼女が呪術師の末裔であるという噂もな。愛が憎しみに変わり、禁忌の魔術に手を染めた……。動機も手段も明白だ」
「……なるほど。痴話喧嘩で魔術儀式ですか。そりゃあ、ギルドの報告書が捗りそうなストーリーだ」
俺は野次馬の視線を遮るように死体の傍らに屈み込んだ。
ギルドの鑑定官たちは、
「魔力の残滓が薄いのは、強力な隠蔽魔法が使われた証拠だ」
などと、自らの都合のいい推論を語り合っている。
俺の目に見えているのは、魔法の鑑定結果などではない。
皮膚の変色、傷口の角度、血液の凝固の度合い、打撲痕の集中箇所。
一つ一つは誰の目にも映る物理的な事実に過ぎないが、前世から培った観察眼が、それらを冷徹な一本の線へと繋ぎ合わせていく。
「……ラピス。少しこいつを『鑑定』してみろ。近くでよく見ろ」
俺が小声で促すと、ラピスは顔をしかめながらも、その鋭い青い瞳でジラスの遺体を凝視した。
「……酷いですわ。一思いに命を奪ったわけではありませんわね。この酷いアザ、お腹と太腿に集中しています」
「ああ。内臓を破裂させず、かつ最大限の苦痛を与える場所を選んで叩いている。典型的な聞き出しのための暴力だ。こいつは死ぬ直前まで、激しい拷問を受けていた」
俺はジラスの無残な腕の断面に視線を落とした。そこには高尚な儀式魔術などではなく、あまりにも生々しく泥臭い事実が刻まれていた。
「ラピス、この切り口を見てどう思う?」
「どうって……。鋭い刃物で一太刀というよりは、重い鉈か何かで何度も叩き切ったみたいにボロボロです。骨も砕けて……。魔法の儀式に使うなら、もっと綺麗な素材を欲しがるはずですわ」
「その通りだ。それに、こいつを見てみろ」
俺は切り落とされた手首の数センチ上、剥き出しになった前腕部分を指差した。
「……アザ、ですの? 腕を一周するように、青黒い帯ができています」
「ただのアザじゃない。一定の幅があって、肉に食い込むほど強く締め付けられている。……金属質の硬い輪が、長い時間ここに留まっていた痕跡だ。分かるか?」
ラピスはハッとしたように目を見開いた。
「これ……手錠の痕ですわ! でも、それなら尚更おかしいじゃありませんか。手錠をかけて拘束していたなら、わざわざ手首を切り落とす必要なんて……」
「普通はないな。だが、もし外せなくなったとしたらどうだ?」
俺は立ち上がり、汚れたズボンの膝を払った。
魔術的な儀式などという都合のいい動機は、ここには存在しない。そこにあるのは、自らの失態に焦り、血迷った犯人の稚拙な「証拠隠滅」だ。
「……ラピス。犯人はあのエレナという女じゃない」
耳元で囁くと、彼女は一瞬だけ驚きに眉を動かしたが、すぐに納得したように頷いた。
「……そうですわね。恋人の腕を、鍵をなくしたからといって力任せに叩き切るような真似、常人にはできません。そんなことができるのは、よほど保身に必死な」
「ああ。自分の立場と保身に怯えている、愚かで臆病な奴の仕業だ」
俺は詰め所の方向へ視線を向けた。今頃、取り調べという名の茶番が、罪のない女性を追い詰めているはずだ。
「行くぞ。無理やり自白させられる前に、奴らの喉元に真実を突き付けてやる」
「……了解いたしました! 便利屋の誇りにかけて、きっちり真相を暴いてやりますわ!」
ラピスを促し、俺は血の匂いが漂う影の路地を後にした。
隠された真実を暴くのに、魔力なんて不確かなものは必要ない。必要なのは、冷徹な観察眼と、ほんの少しの泥臭い論理だ。




