第4話:幽霊物件と「灰色の月」の旗揚げ
魔獣の肉で腹を満たし、ラピスという「この世界の教科書」を手に入れた俺は、彼女に案内されるがまま、辺境の街『リンドヴルム』へと辿り着いた。問題はこれからの活動拠点だ。
「アルス、いつまでも安宿の相部屋というわけにはいきませんわ! 私のプライバシーが危機です! 昨夜だって貴方、私の寝顔を見ていたでしょう! 早くちゃんとした家を借りられるくらい稼ぎませんと!」
「見てない。……というか、お前の寝相が悪すぎて俺がベッドの端に追いやられていただけだ。あと、見るまでもなくお前の腹の虫が一晩中鳴り響いていたせいで、金以前に俺の睡眠時間が足りない」
実際、手元の資金は心許なかった。俺が「無能」を装っているせいで、ギルドを通さずに引き受けられる仕事はドブさらいや荷物運びといった日雇いばかり。
そのわずかな報酬も、ラピスの底なしの胃袋を通過すると綺麗さっぱり消滅する。
リンドヴルムの安酒場。この街の象徴である大蛇の紋様が彫られた木のジョッキを傾けながら、俺たちはこれからの暮らしについて話し合っていた。
「……そういえば、聞きそびれていたな。あんた、なんであんな森の中で泥を食っていたんだ?」
俺の問いに、ラピスは一瞬だけフォークの手を止め、それから大げさに肩をすくめて見せた。
「……ありふれた話ですわ。私の故郷は西にある小さな国でしたけれど、隣接する帝国に滅ぼされてしまいましたの。私は運良く逃げ延びた市民の一人……。あそこで野垂れ死ぬつもりはありませんでしたけれど、お腹の空き具合だけはどうしようもありませんでしたのよ」
背筋の伸び方、言葉の端々に漏れ出る染み付いた気品。ただの市民が、あんな極限状態で「野草のフルコース」などと笑ってみせられるはずがない。
だが、俺はそれ以上追求しなかった。人が隠したがる過去には、それ相応の理由と覚悟がある。無理に暴き立てるのが悪手であることは、前世で嫌というほど学んでいた。
「そうか。……俺の方は、そうだな。この『外』の世界から来た。あんたたちの言う魔法なんてものが存在しない、もっと退屈で、理屈ばかりの場所だ」
「外……? 海の向こうの別の大陸ですの? 変わった話し方をすると思いましたけれど、だからあんな変な術を使うんですのね。納得いたしましたわ」
まあ、そういうことにしておこう。
「でもどうしますの? 手っ取り早く稼ぐならギルドに登録するのが一番でしょうけれど、貴方は頑なに嫌がりますし」
「身元調査や魔力測定を受けさせられるんだろ? 目立つのはごめんだ。フリーで便利屋をやる方が性に合ってる」
「何か深い事情があるようですけれど……どちらにせよ、依頼を受ける窓口になる拠点くらいは必要ですわよ」
「……安くて、それでいて仕事の種が転がっていそうな場所。都合のいい物件に、一つだけ心当たりがある」
俺は酒場の片隅、埃を被った掲示板の端にピンで留められた一枚の貼り紙を指差した。
『呪われた時計塔の隣家。家賃:格安。条件:幽霊を気にしないこと』
「ゆ、幽霊!? ダメですわ、即刻却下です! わたくし、お化けの類は……その、専門外なんですの!」
「安心しろ。死体なら前世で嫌というほど見てきた。幽霊なんて、実体のないただの物理現象だ」
嫌がるラピスを引きずり、俺たちはその物件へと向かった。
街の北端、空を突く古びた時計塔の影にひっそりと佇む二階建ての空き家。家主の老人は、俺たちが「借りたい」と申し出た瞬間、救世主でも拝むような目で鍵を押し付けてきた。
「夜な夜な二階から、女の啜り泣く声と床を叩く不気味な音が響くんじゃ……。高名な魔導師様も『強力な怨念だ』と匙を投げて逃げ出してな」
「へぇ、そいつは楽しみだ」
中に入ると、冷え切った空気と黴の匂いが鼻を突いた。ラピスは俺の上着の裾をぎゅっと握りしめ、青ざめた顔で周囲を油断なく警戒している。
「ア、アルス……。今の、聞こえましたこと? ギギッ、っていう……」
「ただの建付けの軋みだ。……二階へ行くぞ」
埃の積もった階段を一歩上がるごとに、噂の「啜り泣き」が明瞭になってきた。
ヒタヒタ、と何かが床を這うような微かな摩擦音。そして、ヒィ、ヒィ、と喉を詰まらせるような細い息遣い。
「出たああああ! やっぱり出ましたわ! アルス、早くあの魔獣をバラバラにしたやつでドカンとやってくださいまし!」
ラピスが俺の背中に顔を埋め、全力で震えている。
俺は視覚の奥を研ぎ澄まし、大気の流れを観察した。壁に走る魔力の微小な乱れの奥に、悪意や殺傷能力を持たない、不安定な「構造体」を捉える。
「……落ち着け。物理的な害はない」
俺が静かに声を落とすと、啜り泣きがピタリと止まった。
二階の薄暗い寝室の隅。月明かりに舞う埃の向こうに、淡く輪郭のぼやけた人影が浮かび上がっていた。
それは、透き通るような白い肌をした、十歳そこらの少女だった。
怨霊というにはあまりに儚げで、長い黒髪の間から覗く瞳は、泣き腫らしたせいで潤んでいる。
「あ……あぅ……」
少女の霊は、じっと見つめる俺に怯えたように、身体をさらに小さく縮こまらせた。
「お化け……ですわよね? あ、足、透けてますわよね?」
ラピスが俺の肩越しに恐る恐る覗き見る。
「……あんた、名前は? なんでこんなところで泣いているんだ」
俺が問いかけると、少女の霊は悲しげに首を横に振った。
「……わから、ないの。自分が誰だったのかも……いつからここに、いるのかも……」
記憶を失った地縛霊か。魔導師たちが「強力な怨念」と恐れて逃げ出したのは、未知の現象に尾ひれがついただけのようだ。
「なるほどな。……一つ、提案がある」
俺は前世の事務所で厄介な依頼人と向き合う時のトーンで切り出した。
「俺はこの家を拠点にして便利屋を始める。あんたに毎晩泣き叫ばれると、客が寄り付かなくて商売にならない。……だから、不気味な物音を立てるのは今日限りでやめてくれないか」
「……えっ?」
少女の霊がきょとんと目を瞬かせる。横でラピスが、
「交渉相手が根本的に間違ってますわ」
と小声で突っ込んできたが無視した。
「便利屋ってのは、街の困りごとを解決する仕事だ。看板を掲げる最初の記念に、あんたが何者だったのか、俺がいつか解き明かしてやる。それが片付くまで、ここに住んでいていい」
「……ほんとうに? わたしのことを、見つけてくれるの?」
少女の瞳に、微かな光が宿った。
「朝は姿を見せないって約束します。午前中は、うまく身体が動かせないから……。その代わり、夜になったら、少しだけお話ししてくれませんか?」
消え入りそうな声だったが、それは明確な願いだった。
「お化けらしいこと、もう絶対にしません。怖いことも、しません。……一人きりだと、自分が誰なのか、どんどん消えていってしまいそうで……。だから、暗い時間だけでいいんです。……だめ、でしょうか」
怨念などではない、ただの迷子の寂しがりだ。出口のない暗闇で一人、自分の輪郭を繋ぎ止めるために啜り泣いていたに過ぎない。
多少の奇妙さはあるが、それを呑み込めば格安で堅牢な拠点が手に入る。
「……いいだろう。俺は静かに暮らしたいんだ。客を驚かせて逃がすような真似さえしなければ問題ない」
「……ありがとう、ございます!」
少女の霊が、初めて柔らかく微笑んだ。
ラピスはといえば、先ほどまでの怯えはどこへやら、少女の寂しげな笑顔を見て急に毒気を抜かれた顔をしている。
「……ふん、仕方がありませんわね。このラピス様を話し相手に選ぶなんて、なかなか見る目がありますわ。……ただし! 私の夜食を盗み食いするのは禁止ですからね! 実体がないからって、匂いだけ嗅ぐのも泥棒と同じですわよ!」
「食べられない、よ……。匂いも、わからないの」
「ならよろしいですわ! 仲良くしてあげます!」
単純な奴だ。俺は少女に向き直った。
「ところで、名前をどう呼べばいい?」
「えっと……それも、思い出せなくて……」
俺は窓の外へ視線を向けた。
時計塔の影の向こう、夜空には鈍い光を湛えた月が浮かんでいる。
「ルナ。俺の故郷の古い言葉で『月』って意味だ。呼ぶ名前がないと不便だろ」
「……ルナ」
少女はその響きを確かめるように、小さく口の中で転がした。
「……はい! すごく、素敵な名前です」
「そうか。記憶が戻るまでは、ルナでいけ」
こうして、俺たちの拠点獲得交渉は、一人の幽霊を同居人に加えることで成立した。
死体なら前世で嫌というほど見てきたが、幽霊との共同生活というのは流石に初めての経験だった。
翌朝。
俺は森の端から調達してきた古い一枚板の表面を削り、墨で屋号を書き入れた。
『便利屋:灰色の月』
前世の俺の名前である「月岡」の『月』。
隣で欠伸をしている少女の、灰色の髪。
そして、この世界に放り出された夜、最初に見上げたあの鈍色の月。
いくつかの理由を重ねて、俺はその名前を選び、入口の扉の横へと掲げた。
「便利屋、ですのね……。ふん、本当はもっと華やかな名前が良かったですわ。『聖女ラピスと下僕の館』とか」
「即刻却下だ。……おい、ラピス。拠点が決まった祝いだ。市場で肉を買ってきてやる」
「本当ですの!? では、すぐにお肉屋へ行きましょう!」
軽い足取りで駆け出すラピスの背中を見送りながら、俺は扉の鍵を閉めた。
過剰な力を隠し、無能な便利屋として、この生意気な少女と、記憶のない幽霊と共に生きていく。前世で失ってしまった「平穏」を、今度こそこの手で守り抜くために。
「……待てラピス。一番安い肉の屋台だ、そっちは高級店だぞ!」
灰色の月の下、俺たちの二度目の人生が本格的に動き出した。




