第3話:泥の中の青い月、あるいは始まりの嘘
人生の幕引きというのは、意外なほどあっけないものだ。
俺の場合は、包丁一本だった。
前世での俺――月岡竜司の生業は、雑居ビルの片隅にある探偵事務所の調査員だった。浮気調査に素行調査、迷い猫探し、ついでに事務所の壊れた備品の修理。
ただ、「探偵」と呼ぶには華がない。他人の裏側を覗き込んでは、ほころびを繕うだけの日々だった。
死因はまさに、その「裏側」に深入りした報いだった。
不貞を暴かれ、家庭も社会的地位も失った男が、血走った目で包丁を手に突っ込んできたのだ。
相手の瞳孔の開き、重心の移動、震える指先。長年の観察眼は、刃の軌道をミリ単位で見切っていた。
……だが、いかんせん身体が追いつかなかった。
「……あ、これ死ぬな」
脇腹を貫く冷たい感触。急速に遠のく意識の中で、俺は自分の運動不足を棚に上げ、「せめてもう少し手入れのされた包丁で刺してほしかったな」などと、どうでもいいことを考えていた。
「ハロー、ラッキーボーイ! 君だよ、君! まさか『世界の理』を構造として理解できる変態的な魂が、こんなドブ板の下に転がってるなんてね!」
次に目を覚ました時、視界を埋め尽くしたのは眩い純白と、やたらと声のデカい女だった。
自称・女神。
金髪を振り乱し、深夜番組の司会者のようなハイテンションで俺に詰め寄ってくる。
「キミには特別に《終焉の理》を授けちゃう! あらゆる事象を構成要素に分解し、無に帰すチートだよ!」
女神が指を鳴らすと、空間にぽっかりと黒い穴が口を開けた。
穴の奥から、禍々しい粘液のような攻撃術式が蠢き出てくる。
「手を出して、その力をイメージしてみて!」
俺はため息をつきながら、右手を前にかざした。
頭の中で、粘液を形作っているエネルギーが、まるで古い書類の文字列のように見えていた。その中心にある『起点』を、指先で弾く。
「《終焉の理》」
パリン。
空間が小さく澄んだ音を立て、粘液は跡形もなく消え去った。
「さすが! これさえあれば、この世界の魔法も物質も神様のプライバシーもおもちゃ同然! さあ、異世界で好き放題暴れちゃって!」
「……いらないな、そんな物騒なもの」
「へっ?」
女神が間抜けな声を上げた。
「俺は前世で、力任せに物事を解決しようとした連中が、最後にはどんな無様なツラで自滅するかを嫌というほど見てきたんだ。……今度はもっと、自分の頭と知恵だけで静かに生きていきたい」
「ええーっ!? チートだよ!? 本当にいらないの!?」
「ああ。押し売りならお引き取り願おう」
俺が冷たく突き放すと、女神は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに「あはは!」と豪快に笑い飛ばした。
「いいよいいよ、使い道はキミの自由! 渡すだけ渡しておくから、好きにしちゃって! それじゃ、行ってらっしゃーい!」
次に意識を取り戻した時、俺は薄暗い森の泥濘の中に突っ伏していた。
脇腹の傷は綺麗に消えている。だが代わりに、身体の奥底に澱のように沈んだ、不気味なほど静かな力の感触があった。
「……あの駄女神、押し売りしやがったな」
ため息をついて身体を起こしかけた時、近くの茂みから微かな声が耳に届いた。
「……死ぬよりは、ずっとマシ。これはただの食事……そう、少し野趣あふれるフルコースですわ……」
か細く、だが凛とした声音。
少し先の泥溜まりに、ボロ布を纏った小柄な少女がうずくまっていた。
グレーの髪は泥にまみれ、身体は見る影もなく痩せ細っている。彼女は震える手で、地面から掘り出した薬草の根とおぼしき泥の塊を、必死に口へ運んでいた。
家畜すら見向きもしない泥を噛み締める、その双眸。
澄み切った青い月のような瞳だけは、絶望に濁ることなく、燃えるような傲慢さと気品を宿していた。
「……おい。それ、美味いのか? 特製の泥料理か何かか」
俺が声をかけると、少女はビクリと肩を跳ねさせ、噛み付くような鋭い視線を返してきた。
「……誰ですの。私の優雅な晩餐を邪魔するなら、タダではおきませんことよ」
「晩餐、ね。……その割には、ずいぶん顔色が悪いようだが」
「これは……こういうメイクです! 流行の最先端ですのよ!」
立ち上がる力も残っていないくせに、彼女は顎を上げて精一杯の虚勢を張った。
ボロボロの布を纏いながらも、その背筋の伸ばし方には、隠しきれない品格が滲み出ている。
「俺と一緒に来ないか」
「……へ?」
この世界の常識も、言葉も、地理も俺は知らない。
殊勝な人助けのつもりはなかった。ただ、泥を啜りながらも前を見据えるこの少女に、案内人として手を貸してほしかったのだ。
「俺はアルス。……探偵だ」
「たんてい……?」
「便利屋、と言えば通じるか? この辺りの事情に疎くてね。その泥のレシピの代わりに、知恵を貸してほしい」
「案内、ですか……」
少女が怪訝そうに眉を寄せた、その時だった。
ズシン、と森の奥から重い地響きが轟いた。
木々をなぎ倒して姿を現したのは、体長三メートルを超える巨大な猪の魔獣だった。岩をも砕きそうな一対の牙を剥き出しにし、飢えた赤い目をこちらへ向けている。
「魔獣……!」
「こんなのが普通にうろついてる場所なのか」
「立ち向かってはダメ、逃げなさい! あなたのような人が勝てる相手ではありません! 私が囮になりますから、早く……!」
震える足で立ち上がり、俺の前に立ちはだかろうとする少女。
その必死な姿に、俺は小さく息を吐いた。
「……せっかくの申し出だが、頼ったばかりの案内人を最初の五分で失うわけにはいかないんでね」
チートには頼らない。頭脳と観察眼だけで生きていく。
そう決めたばかりだったが、背に腹は代えられない。
「悪いな、女神様。さっそく前言撤回だ」
俺は突進してくる巨獣の正面へ、静かに一歩踏み出した。
魔導の詠唱も、派手な構えもない。迫り来る牙の間をすり抜け、その眉間の中心点――生命活動を司る術式構造の結節点へ、人差し指をそっと添える。
「《終焉の理》」
パリンッ。
薄氷を踏み割るような、乾いた音が森に響いた。
次の瞬間、猪の巨体は前進の勢いを失い、硬質な外殻と不要な魔力構造だけが光の砂となって霧散した。どさりと地面に落ちたのは、綺麗に筋繊維ごとに切り分けられた、新鮮な肉の塊だった。
「……え?」
泥だらけの少女が、口を開けたまま固まっている。
「見ての通り、解体だけは得意なんだ。火を起こすことはできるか?」
「火くらい、魔法を使えば一瞬ですわ……! 見ていなさい!」
ラピスが指を鳴らす。
何も起こらない。
「……」
もう一度、鳴らす。
小さな火花が一つだけ散った。
「……」
「……今のは準備運動ですわ」
「そうか」
三度目の挑戦で、ようやくマッチほどの小さな炎が灯った。
少女が指先を必死に擦り合わせて起こした小さな焚き火から、香ばしい肉の焼ける匂いが漂い始めた。
ラピスと名乗ったその少女は、さっきまでの気高さはどこへやら、涙目で肉の塊にかじりついていた。
「んぐっ……ふぐっ……お、美味しい……! 泥じゃない……ちゃんと味がします」
「ゆっくり食え。喉を詰まらせるぞ」
雲間から、鈍く光る灰色の月が顔を出していた。
前世を隠した探偵と、素性を隠して泥を啜っていた少女。
互いに嘘を抱えたまま始まった、これが俺たちの最初の出会いだった。
それから数日後。
森を抜け、俺たちは近くの街の市場へと辿り着いていた。
隣では、体力を取り戻したラピスが、荷車を引く俺を指差して不満の声を上げている。
「ちょっとアルス! どうしてただの荷物運びでそんなにフラフラしていますの!? あの魔獣を一瞬で仕留めた力はどうしたんです!?」
「あれは一回きりだ。たまたま魔獣の急所に触れただけ」
「たまたま触れただけで、三メートルの魔獣が肉になるわけありませんでしょう!」
俺はわざとらしく震える膝を押さえ、ヘラヘラと笑ってみせた。
あんな物騒な力を常用して目立てば、求めている平穏な生活など一瞬で崩壊する。
無能のフリをして生きる。これこそが、厄介事を避けて生き抜くための俺の「知恵」だ。
「嘘をおっしゃい! 絶対にもっと何か隠していますわ!」
「買いかぶりすぎだって。俺はただのしがない便利屋さ。……あ、ラピス。あそこの屋台の串焼き、美味そうじゃないか?」
「……っ! は、鼻先をヒクつかせても誤魔化されませんことよ! ……クンクン……。……一つだけですからね!」
食べ物の匂いに釣られて小走りで駆けていくラピスの背中を見送りながら、俺は小さく口角を上げた。
前世の殺伐とした調査仕事に比べれば、この生意気な相棒をからかいながら歩く道は、そう悪くない。
「待てラピス、俺の分も残しておけよ」
俺は軽やかな足取りで、不機嫌そうな「相棒」を追いかけた。




