第26話:告げられざる真実、告げるべき言葉
白樺堂の裏手に広がる一角は、かつて数百年前に打ち捨てられたという、石造りの古い礼拝堂の跡地だった。
屋根は半ば崩落し、剥き出しになった梁の間から冷たい夜風が吹き抜けている。ひび割れたステンドグラスの破片が石床に散らばり、祭壇の前に立てられた一本の松明が、暗がりの中に揺れる影を落としていた。
松明の赤い光に照らされ、祭壇に背を向けて立っていたのは、仕立ての古い黒の上着を纏った老人――シメオンだった。
「……来たか、アルス殿」
擦れた低い声が、静まり返った礼拝堂の石壁に反響する。
「ああ。地下から連れ帰ったルナは、今しがた眠りについたところだ」
俺は暗緑色のオーバーコートのポケットに手を突っ込んだまま、崩れかけた祭壇の前へと歩み寄った。
「あんたが地下の出口に先回りしていた理由、そしてルナの顔を見て本を取り落とした理由……そろそろ教えてもらおうか」
シメオンは深く、重いため息を吐き出した。その深く窪んだ瞳が、苦渋の色を帯びて俺を見据える。
「……あの地下神殿の壁画を、すでに見ただろう。初代封印の記録……我が一族が、数千年の長きにわたり背負い続けてきた、呪われた血の証だ」
「……あんたの一族の、だと?」
「そうだ。数千年前、大蛇の猛威によって滅びの淵に立たされたこの地で、都市そのものを檻とし、生贄を捧げる儀式を主導した筆頭神官……それこそが、我が始祖だ」
シメオンの告白が、冷え切った夜気の中に落ちた。
「大蛇リンドヴルムは、周囲の魔力や術式の構造そのものを侵食し、喰らい尽くす災厄だった。古代のいかなる魔導をもってしても、あの怪物を完全に殺しきることは叶わなかったのだ。そこで先人たちが出した結論はただ一つ……『都市そのものを巨大な檻とし、王族の少女の魂を核として縫い付ける』という、あまりにもむごたらしい人柱の術式だった」
老人は自嘲するように口元を歪めた。
「神官たちは『都を救うための崇高なる犠牲』と称え、幼き王女の胸に冷たい楔を打ち込んだ。……だが、どれほど偽りの繁栄が続こうとも、犯した罪が消えることはない。我が一族は代々、記録守と祭祀の監視役を引き継ぎ、近年は古書店の店主として身を隠しながら、地下の推移を見張り続けてきたのだ」
「……だから、ルナを見てあんな顔をしたのか」
「ああ。記録に遺された初代封印巫女――ルナリア様の肖像画と、寸分違わぬ姿の少女が目の前に立っていたのだからな」
シメオンは祭壇の縁に手をかけ、視線を落とした。
「一族の古文書の記述では、あのような現象が起きるなど想定されておらん。だが……あの方が目覚め、感情や身体の温もりを取り戻したのは、封印の結び目が緩み、本来繋ぎ止められていたはずの魂が剥離しかけている兆候に違いない。……そして今、灰満月の接近とともに、大蛇の覚醒の波導があの方を再び暗い底へと引きずり戻そうとしている」
「……ルナを救う方法はないのか」
俺の問いに、シメオンは静かに首を横に振った。
「外側から無理に壊そうとしても駄目だ。あの方の魂は大蛇の核や都市の封印と複雑に癒着している。中途半端に力を通せば、封印どころかあの方の魂そのものを傷つけることになる」
「なら、どうする」
シメオンは松明の炎をじっと見つめ、静かに懐へ手を入れた。
取り出されたのは、銀色に輝く一本の古びた短剣だった。柄には古い神官の紋章が刻まれ、刀身には微細な術式の溝が走っている。
「方法が、一つだけある」
シメオンの声は、凪のように静まり返っていた。
「我が始祖が編み出し、一族の長のみに口伝で受け継がれてきた秘術がある。……始祖の直系の血肉、そして我が生命力のすべてを対価として捧げることで、あの方と大蛇を繋ぎ止めている封印の深部構造――『契約の結節点』を、ほんの一瞬だけ外へ露出させることができる」
「……命を対価にするだと?」
「そうだ。結節点が露わになるのは、我が命が燃え尽きるまでの極めてわずかな刹那。その一瞬の間に、貴殿の持つ、ものの結び目を壊すあの力で、あの方を縛る人柱の接続だけを断ち切るのだ」
シメオンは短剣を両手で握りしめ、俺の目をまっすぐに見据えた。
「古い口伝では、術者は命を落とすとされている。だが……これこそが、数千年に及ぶ我が一族の罪を清算する道。老い先短い我が命一つで、あの方の呪縛を解き放てるのであれば、悔いはない」
「断る」
俺は即座に言い放った。
「誰かの命を身代わりに差し出すような真似は、俺の流儀じゃない。他人の犠牲の上に成り立つ解決なんて、ただの後味の悪い茶番だ」
「アルス殿!」
シメオンが一歩詰め寄った。その窪んだ瞳に、激しい感情が宿る。
「これは自己犠牲などではない! 我が一族が数千年の間、あの方に背負わせ続けてきた果てしない孤独に対する、当然の支払なのだ! あの幼き娘にすべてを押し付けたまま、畳の上で安らかに死ぬことなど、我が魂が許さん!」
老人の叫びが、崩れかけた礼拝堂の梁を震わせた。
その言葉には、一片の命惜しさもなかった。ただ数千年の歴史の重荷を自らの手で終わらせようとする、研ぎ澄まされた覚悟だけが満ちていた。
俺は眉間に皺を寄せ、短剣を見つめた。
「……その秘術、本当に術者が死ぬことまでが発動の『絶対条件』なのか?」
「何……?」
「血と生命力を触媒にする術式なら、必要なのはエネルギーの総量だろ。過去の術者が魔力切れで力尽きたからといって、死ぬことそのものが術式の構成要件とは限らないはずだ。……それに、ルナの接続を切った後、大蛇はどうなる」
「大蛇は……街の機構が持てば、再び眠りにつくかもしれん。だが、確証はない」
「なら、まだそれは完全な答えじゃないな」
俺は短く息を吐いた。
「灰満月が完全に満ちるのは、明日の夜だ。……あんたの覚悟は分かった。だが、命を捨てる以外の抜け道がないか、俺もギリギリまで考える」
「……頑固な男だな」
シメオンは自嘲するように呟き、短剣を懐へ収めた。
「明日の夜、私は地下の祭壇で待っている。……決めるのは、貴殿だ」
老人は松明を残したまま、暗い礼拝堂の出口へと背を向けた。
礼拝堂を後にした俺は、人気のない夜の路地を一人、ゆっくりと歩いていた。
冷たい風が、コートの裾を揺らす。
前の世界で俺が嫌というほど学んだのは、真実をただ突き止めることと、目の前の人間を救うことは全くの別物だということだった。
暴かれた事実が誰かを追い詰め、破滅させる瞬間を何度も見てきた。だからこそ、この世界では強大な力に頼らず、知恵を使って平穏に生きていこうと決めたはずだった。
だが、今の俺の周りには、過去を隠しながら美味そうに肉を食う看板娘がいて、自分の居場所を見つけた獣人の少女がいて、温かいスープに目を細める元・幽霊がいる。
あいつらと囲む『灰色の月』の食卓を、大昔の呪縛や誰かの犠牲に壊されてたまるか。
ルナに「お前は人柱だった」という残酷な事実をそのまま突きつけて、絶望させる気はない。
シメオンにすべての業を背負わせて死なせ、ルナに新たな傷を負わせる気もない。
シメオンの秘術で結節点が現れるなら、狙うべきはルナを縛る接続の一点だけだ。そして、切り離された後の大蛇の負荷は、元々この街に備わっていた自律機構――時計塔と地下の心臓、そしてラピスが動かした街の防壁システムへと正しく受け渡せばいい。
誰も死なせず、誰も過去の犠牲のままにしない。
そのための道筋を、俺の頭と観察眼で、明日の夜までに組み立ててみせる。
「……腹を括るしかないな」
俺は小さく呟き、ポケットから手を出して冷たい夜気を感じた。
真実のすべてをルナに話すかどうかは、まだ決めなくていい。
だが、一つだけ――明日の朝、あいつに告げるべき言葉は決まっていた。
『二度と、お前をあんな暗い場所に一人きりで置いていかせはしない』
それだけは、誤魔化さずに伝えてやろう。
ふと足を止め、頭上を見上げる。
リンドヴルムの空を覆う雲の切れ間から、大きな月が姿を覗かせていた。
まだ完全な満月にはわずかに届かないものの、その輪郭は薄墨を流したように重く濁り、鈍い鉛色の光を街へと投げかけている。
明日の夜、あの月が完全に満ちた時、すべての決着の刻が訪れる。
遠くで、時計塔の巨大な歯車が、重厚な金属音を立てて夜を刻んでいた。
俺はコートの襟を立て、灯りの待つ我が家へと歩みを速めた。




