第25話:ルナの悪夢、あるいは思い出せない歌
地下水路の出口で遭遇したシメオンは、ぐったりとしたルナを一瞥し、
「今はその娘を連れ帰って温めろ。話の続きは追って文を寄越す」
とだけ言い残して闇の中へ消えていった。
急ぎ足で『灰色の月』へと戻った頃には、外の空はすっかり濃紺の夜に沈んでいた。
二階の寝室。羽毛布団を幾重にも重ねたベッドの中央に、ルナの小柄な身体を横たえる。
厚手のシーツに包まれた彼女の顔色は依然として青白く、額にはうっすらと冷たい汗が滲んでいた。呼吸こそ落ち着きを取り戻しつつあったものの、布団の上に出された細い手首は、触れずとも伝わってくるほど凍てついている。
「……アルス様、お湯が沸きましたわ!」
階段を駆け上がってきたラピスが、湯気を立てる洗面器と清潔な布を抱えて入ってきた。
そのすぐ後ろからは、大きめの木皿を両手で慎重に持ったルビーが、赤毛の間から覗く耳を心配そうに伏せながら続いてくる。
「店長、スープできたよ。ラピスお姉ちゃんが『お肉をいっぱい入れれば元気が出るに決まってますわ!』って言うから、豚肉と干しキノコを刻んで、柔らかくなるまで煮込んだの」
「ふふん、ただのスープではありませんわよ。昼間に買ったあの極上の干しキノコに、わたくしが秘蔵していた乾燥香草をこれでもかと投入いたしましたの。病み上がりには栄養と脂分、これこそが万病に効く特効薬ですわ!」
ラピスは誇らしげに胸を張るが、その青い瞳の端には隠しきれない焦燥が滲んでいた。
普段なら自分の肉を横取りされるのを何より嫌がる彼女が、惜しげもなく自分の分の肉を鍋に放り込み、焦げ付かないよう必死に木べらを動かしていたのを俺は知っている。
「ありがとな、二人とも。……ルナ、少し起き上がれるか」
俺が背中に枕を差し入れ、身体を支え起こすと、ルナはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……うん。……アルス、ラピス、ルビー」
「無理に喋らなくていいから、これを飲みなさいな。熱いですから、ふーふーして召し上がるんですのよ」
ラピスが木のスプーンでスープをすくい、息を吹きかけてからルナの口元へ運んだ。
ルナは素直に口を開き、黄金色の温かい出汁を一口、ゆっくりと喉へ流し込む。
「……おいしい。……すごく、あったかい」
ルナの口元に、ふわりと小さな笑みが灯った。
その言葉に、息を詰めて見守っていたラピスとルビーが、目に見えてほっと肩の力を抜く。
「よかったぁ……! ルナちゃん、もっといっぱい飲んでね!」
「ええ、鍋にはまだ残っておりますわ。ルナが全部飲んで元気になるまで、わたくしが付き合って差し上げますわよ!」
ルナは「ありがとう」と微笑みながら、差し出されるスプーンを一口ずつ受け止めていく。
だが――俺の目は、その微笑みの裏にあるぎこちなさを捉えていた。
ルナがシーツの上で握りしめている右手。
その指先の輪郭が、ランプの光を浴びながらかすかに揺らぎ、シーツの織り目を透かして見せかけていた。
それに、「おいしい」と口にする割に、いつものように目を輝かせることがない。飲み込むたび、喉の奥にわずかな引っかかりがあるような、ぎこちない仕草を繰り返している。
「……もう、お腹いっぱい。……ありがとう、ラピス」
半分ほど飲んだところで、ルナが申し訳なさそうに首を横に振った。
「残りは冷めないように蓋をしておきますわね。ルビー、私たちは下の片付けをしてきますわよ」
「うん。ルナちゃん、また後でね」
ラピスはルビーの肩を抱き、俺に目配せをして部屋を出て行った。
パタンと扉が閉まり、二人の足音が階段を降りていくと、部屋の中には薪ストーブが爆ぜるかすかな音だけが残った。
静まり返った部屋の中で、俺はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
ルナは毛布を胸元まで引き上げ、じっと天井を見つめている。
「……アルス」
「何だ?」
「……わたし、さっきの地下で……夢を、見ていたみたい」
ルナは視線をゆっくりとこちらへ巡らせた。
「ずっと昔から、何度も見ていた夢。……暗くて、息が苦しくて、足元が冷たい夢。……でも、さっきあの壁画を見た時、夢の続きが……全部、頭の中に流れ込んできたの」
ルナの細い指が、シーツをぎゅっと握り締める。
「……あのね、銀色のマントを着た人たちが、たくさんいたの。みんな、とても立派な杖を持って、わたしの周りを取り囲んでいて……。わたし、怖くて逃げようとしたの。……でも、腕を掴まれて、冷たい石の台の上に寝かされて」
ルナの唇が震え、言葉が途切れる。
「……その人たち、何かを歌っていたの。低くて、長くて……子守唄みたいな、悲しい歌。『これで街は救われる』『尊き礎よ、永劫の眠りにつけ』って」
「……歌?」
「うん。……あの歌、昨日の夜、わたしが窓辺で歌っていたのと同じだった気がする。……でも、思い出そうとすると、胸の奥がすごく痛くて……もう、うまくメロディが出てこないの」
ルナの瞳から、大粒の雫が静かに零れ落ち、枕を濡らした。
「……アルス、わたし、あの日……誰かに助けてほしかった。……お父様も、お母様も、誰も助けに来てくれなくて……。わたし、悪い子だったから、あそこに置いていかれちゃったのかな」
「違う」
俺はルナの冷え切った小さな手を、両手で包み込んだ。
指先から伝わってくる氷のような冷たさを、自分の体温で少しでも溶かそうとするように、静かに力を込める。
「お前は何も悪くない。……絶対にだ」
「……アルス」
「今は何も考えずに眠れ。……俺たちがいる。二度と、お前をあんな暗い場所に一人で置いていかせはしない」
俺の言葉に、ルナは小さく頷き、安心したようにそっと瞳を閉じた。
微かな寝息が立ち始め、強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく。
俺はルナの手を布団の中へ戻し、毛布を掛け直した。
部屋の明かりを落とし、俺は一階の作業机へと戻った。
暗い窓の外を見上げながら、頭の中で状況を整理していく。
かつて白銀の結晶を開いた時、ルナの記憶の欠片として流れ込んできた、逃げ惑う人々と銀色のマントの男たちの姿。
あれは侵略軍による蹂躙などではなく、大蛇の災厄から都を守るため、自国の神官たちが幼い王女を生贄として捕らえにきた光景だったのではないか。
もし、壁画の通りルナが都市の礎として大蛇を縛る楔にされたのだとしたら。
彼女が実体化し、感情や食事の温もりを取り戻したことさえ、封印の結び目が緩み、本来繋ぎ止められていたはずの魂が剥離しかけている兆候なのではないか。
先ほど地下でルナが苦しんだ際、《終焉の理》を使おうとしても手応えが掴めなかった。
大蛇を縛る術式と、ルナ自身の魂の境界線がどこにあるのか、今の俺の目では読み分けがつかなかったのだ。
そんな状態で力任せに消去を仕掛ければ、封印どころかルナの命そのものを壊してしまう。
「……まだ、推測の域を出ないな」
俺は小さく息を吐いた。
前世の探偵時代、俺は幾度となく真実を暴いてきた。だが、確証のない推論を不用意に口にして、依頼人や周囲の人間を無用に傷つけることの危うさも知っている。
何が本当で、どうすればこの絡み合った糸を解けるのか。確かな証拠を掴むまでは、ラピスやルビー、そしてルナ本人に中途半端な不安をぶつけるわけにはいかなかった。
コツン。
不意に、窓ガラスを小さく叩く音が響いた。
見ると、夜風が吹き抜ける窓枠の桟に、一羽の黒い伝書鳥が止まっていた。
窓を開け、鳥の脚から細い革紐で結びつけられた羊皮紙を解き取る。
広げると、かすれた墨で几帳面に二行の文章が記されていた。
『白樺堂の裏手、古い礼拝堂の跡へ来られたし。貴殿と、二人だけで話がしたい。シメオン』
紙片を握り締めると、インクの匂いに混ざって、あの地下水路で嗅いだ古い防虫草の香りが微かに鼻腔をくすぐった。
俺は二階の寝室へ一度だけ視線を向け、暗緑色のオーバーコートを羽織って夜の通りへと足を踏み出した。




