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第24話:地下水路の記録

 拠点である『灰色の月』の地下室。


 かつて扉を開き、白銀の結晶が眠っていたあの広大な空間は、今や穏やかな月光のような燐光を淡く放ちながら、静かに街の魔力循環を支えていた。


 だが、市場の刺客から奪った作戦資料が指し示していたのは、その結晶を支える台座の真下――さらに深い層へと続く、隠された封鎖区画だった。


「……ここだな」


 俺は台座の裏手、白銀の結晶を支える石組みの根元に手を添えた。


 指先を滑らせると、継ぎ目に見せかけた微細な術式の溝が刻まれている。巧妙に偽装されているが、下降路を塞ぐためのロック機構だ。


「アルス様、本当にこの下に行くんですの? なんだか……さっきから足元から吹き上がってくる風が、氷水みたいに冷たいんですけれど」


 背後でカンテラを掲げるラピスが、首筋をすくめて身震いした。

 その青い瞳には、いつもの呑気な明るさはなく、引き締まった警戒心が戻っている。


「店長、気をつけてね」


 ルビーが赤毛の間から覗く耳を細かく動かし、台座の隙間に鼻先を近づけた。


「下から、すっごく深い水と、古い苔の匂いがする……。生き物の気配は全然ないけど、冷たすぎて耳がツンとする」


「ああ。用心して進むぞ」


 俺は右手の指先を台座のロック機構へと添え、《終焉の理(デリート・コード)》を最小限の出力で通した。


 閉鎖術式の結節点、その留め具となっている結合部だけをピンポイントで解体する。


 ゴゴゴ……と、重厚な石擦れの音が地下室に低く響き渡った。


 台座の床面の一部が静かに沈み込み、螺旋を描いて暗闇へと続く、濡れた石階段がぽっかりと口を開けた。


「……行こう、アルス」


 俺の手をそっと握ってきたのはルナだった。

 白銀の瞳は、吸い込まれそうな地下の闇をまっすぐに見つめている。触れる彼女の指先は、昼間よりも一段と冷たく、陶器のように硬くなっていた。


「無理はするなよ。異変を感じたらすぐに引き返す」


「……うん。でも、わたし、見届けなきゃいけない気がするの」


 俺たちはカンテラの灯りを頼りに、漆黒の螺旋階段へと足を踏み入れた。




 階段を降りるにつれて、周囲の空気は急激に重さと冷気を増していった。


 壁面を構成する石材は、上の区画のような洗練された細工ではなく、荒々しく切り出された巨石を噛み合わせた、より古い年代の無骨な様式へと変わっていく。


 やがて階段が途切れ、足元は湿った石畳の平坦な回廊へと出た。


 遠くから、ゴオォォ……という重低音が響いてくる。


 街の地下深くを流れる巨大な暗渠――地下水路の水流が、遥か下流で渦を巻いている音だった。


「……広い回廊ですわね。まるで地下にもう一つ、忘れ去られた街があるみたいですわ」


 ラピスがカンテラの光を掲げて周囲を見回す。


 回廊の天井は高く、巨木のような石柱が等間隔で並んでいた。足元には薄く水が浸透しており、歩くたびにパチャリ、パチャリと冷たい飛沫が上がる。


「店長、あっち。正面の突き当たりに、すごく広い空間があるよ」


 暗視の利くルビーが小走りで先導し、回廊の終端を指差した。


 石柱の列を抜けた先に現れたのは、巨大なドーム状の円形ホールだった。

 中央には階段状にせり上がった石造りの祭壇が設えられ、その周囲を取り囲むように、十数メートルに及ぶ広大な壁面がそびえ立っていた。


「……何ですの、これは」


 ラピスが息を呑み、足を止めた。


 カンテラの光が、濡れた巨石の壁面を照らし出す。


 そこには、色褪せることのない鮮烈な顔料で、壁一面に巨大な絵画――太古の記録が刻まれていた。


 絵画の最上部に描かれていたのは、天地を覆い尽くすほどに巨大な、とぐろを巻く漆黒の大蛇だった。


 無数の鋭い牙と、世界を呑み込まんとする顎。大地を裂き、山々を砕きながら進むその姿は、牧場で感じたあの異様な気配をそのまま形にしたかのようだった。


 そして、その怪物を前にして、大地に膝を屈する民衆の姿。

 視線を右側へ移すと、そこには大蛇を抑え込むための「儀式」の情景が描かれていた。


 天高くそびえる塔の足元。

 幾重にも張り巡らされた巨大な鎖と結界陣の中心に、一つの石造りの祭壇がある。


 その祭壇の上には、両手首を鎖で戒められ、胸元に楔のような光を打ち込まれて横たえられた――一人の、幼い少女の姿があった。


 少女を取り囲むのは、豪奢な銀色のマントを羽織り、顔を深いフードで隠した神官たち。


 神官たちが掲げる杖から光の糸が伸び、少女の身体を通して、大蛇の首と都市の礎石へと幾重にも縫い付けられていた。


 都市そのものを檻とし、生きた少女を中心に据えて怪物を縫い止める儀式。


「……っ」


 俺の視線が、壁画の少女の姿に釘付けになった。


 描かれた少女が纏っている、星屑を散りばめたような細やかな銀のドレス。

 頭上に浮かぶ、細い金属を編み上げたような独特なティアラ。

 そして、流れるような白銀の長髪――。


 それは、今まさに俺の隣に立っているルナの姿と、寸分の狂いもなく一致していた。


「ルナ……」


 俺が振り返った、その瞬間だった。


「……あ……っ!」


 短い悲鳴とともに、ルナが両手で自らの胸元を激しくかき抱き、その場に崩れ落ちた。


「ルナちゃん!?」


 ルビーが叫ぶ。

 俺は即座に膝をつき、倒れ込むルナの小柄な身体を腕の中に受け止めた。


「ルナ! しっかりしろ!」


 触れた瞬間、掌を突き刺すような猛烈な冷気が伝わってきた。

 人並みの温もりを宿していたはずの肌がみるみるうちに血の気を失い、指先が微かに透け始めている。


「う、あ……あぁ……っ!」


 ルナは激痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返しながら俺の腕に縋り付いた。

 その瞳は焦点が定まらず、恐怖に怯えながら壁画の神官たちを見つめている。


「いたい……むねが、さける! 冷たい鎖が……わたしの、なかに……入ってくる!」


「ルナ、息をしろ!」


「……銀色の、ひとたちが……見てる……。痛いよ……お父様、お母様……暗いのは、いや……わたしを、置いていかないで」


 幼い少女の、悲痛な叫び。

 壁画に残る古代の術式と、ルナの魂が共鳴し、過去の痛みが彼女を苛んでいた。


「アルス様! ルナの身体が……薄くなっていますわ!」


 ラピスが青ざめ、必死にルナの冷え切った手を握りしめる。


 俺はルナの胸元へ右手をかざした。

 だが、《終焉の理》を巡らせようとした瞬間、指先が強烈に弾かれた。


 どこまでが外からの共鳴で、どこからがルナ自身の魂なのか――その境界線が複雑に癒着していて判別がつかない。力任せに消去を叩き込めば、ルナの魂そのものを傷つけかねなかった。


「くそっ!」


 俺はルナ本体への干渉を諦め、壁画の祭壇から伸びていた微弱な魔力の共鳴ライン――外部からルナへと繋がっていた術式の干渉線だけを狙い、指先で弾き切った。


 パリン、と小さな音が響く。


 共鳴が遮断され、ルナの激しい痙攣がわずかに治まった。彼女は力なく俺の胸の中で意識を手放す。呼吸は弱々しく、触れる肌はまだ痛烈に冷たかった。


「……引き返すぞ。ここに長く留まるのは危険だ」


 俺はルナをしっかりと抱き上げ、立ち上がった。


「ルビー、出口を探せ! ラピス、周囲を警戒しろ!」


「了解ですわ!」


「こっち! 上から冷たい風が吹き込んできてる、風の匂いを追って!」


 ルビーが先頭を走り、俺たちは巨大なドーム状の神殿を背にして、水路沿いの通路へと駆け出した。




 水路の濁流の音が背後へと遠ざかり、階段を駆け上がって地上近くの鉄扉が見えてきた頃。

 湿った冷気の中に、ふわりと別の匂いが混ざり込んだ。


 ピクッ、とルビーが足を止め、耳を伏せる。


「……店長、待って。誰かいる」


「敵か?」


 ラピスが即座にナイフを構え、俺の前に出た。


「ううん……違う。教団の匂いじゃない。……古い紙と、乾いた薬草の匂い」


 出口へと続く狭い石造りのアーチの向こう。

 薄暗い通路の闇の中で、ポッと小さな炎が灯った。


 一本の松明が掲げられ、その赤い光が湿った石壁を照らし出す。

 光の向こうに静かに立っていたのは、仕立ての古い黒の上着を纏った老人――シメオンだった。


「……シメオン」


 俺が低く呼びかけると、古書店の店主は松明を持った手を微動だにさせず、俺の腕の中でぐったりとしているルナへと視線を落とした。


 その窪んだ瞳に宿っていたのは、昼間の頑なな拒絶ではない。ずっと昔からこの光景を知っていたかのような、深く、痛ましい諦念の色だった。


「……やはり、ここへ辿り着いたか」


 シメオンの擦れた低い声が、静まり返った石の通路に重く響いた。


「真実を知ってどうする、異界の鑑定士よ。……その娘を救う道など、最初からこの世界のどこにも用意されてはおらんのだ」

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