第23話:巫女の血、王女の血
正午を告げる時計塔の鐘が、リンドヴルムの青空に高く響き渡っていた。
石畳が敷き詰められた中央広場の市場は、昼の買い出しに訪れた市民や露天商の呼び込みの声でごった返している。
焼きたての平焼きパンの香ばしい匂い、新鮮な香草のツンとした刺激、香辛料をまぶした焼き串の煙が立ち込める中、俺とルナは乾物屋の店先で干しキノコを選んでいた。
「……アルス、これ、いい匂い。スープに入れたら、きっと美味しいよ」
ルナが干し椎茸の籠を指差し、白銀の瞳を細める。昨夜の悪夢の気配を感じさせない、柔らかい表情だった。
「そうだな。今夜は肉の煮込みにする予定だから、出汁用に少し買っていくか」
俺が店主に銅貨を払っていると、少し離れた精肉店の前から、聞き覚えのある甲高い声が響いてきた。
「店主さん! この豚肩ロースの塊、脂身の入り方が絶妙ですわ! わたくしたち『灰色の月』がすべて買い取ってあげてもよろしくてよ!」
「ラピスお姉ちゃん、買いすぎだよ! 店長から預かったお小遣い、それ買ったら全部なくなっちゃう!」
銀灰色の髪を揺らして肉の塊を指差すラピスと、彼女の服の裾を引いて必死に止めるルビー。二人のやり取りに市場の店主たちが笑い声を上げている。
昨夜、ヴィクトールから教団の標的の話を聞かされた直後はどうなることかと思ったが、朝になればこの調子だ。目の前の生活に全力で向き合うのは、ラピスなりの意地なのだろう。
俺が二人を呼び戻そうと足を踏み出した、その時だった。
「……ッ!」
肉を見つめていたルビーの獣耳が、不意にピンと直立した。
鼻を激しくひくつかせ、肉屋の脇にある細い荷積み用の通路へと視線を走らせる。
「ラピスお姉ちゃん、逃げて! 昨夜の……あの薬草とヘドロの匂いがすぐ近くに」
ルビーの叫びが市場の喧騒を切り裂くのと、異変が起きるのが同時だった。
ドサッ、と重い何かが落ちるような音がした瞬間、市場の一角の陽光が急速に色褪せていった。
精肉店の周囲を取り囲むように、地面から黒い霧が立ち昇る。大通りの喧騒がガラス越しのように遠のき、周囲を行き交う市民たちの姿が、霧の向こうへと遮断された。
灰満月が近づき、街を守る結界が弱まっている今だからこそ成立する、局所的な空間隔離だ。
「アルス……! 結界が、街の表面を削り取ってる……!」
ルナが息を呑む。
隔離された空間の中央、ラピスとルビーを包囲するように、露店の天幕や路地の影から、十数名の黒衣の集団が音もなく降り立った。
胸元に刻まれた、自らの尾を喰らう蛇――『ウロボロス教団』の信徒たちだ。
「……エデルガルドの王族」
先頭に立つ大柄な男が、蛇の仮面の奥から低く濁った声を漏らした。両手には、黒い呪詛の文字が刻まれた鉄鎖が握られている。
「我が主の目覚めの刻が近い。……祭壇を清める血肉として、大人しく我らに従え」
「……白昼堂々、お肉の買い出しを邪魔するなんて、随分と育ちの悪いネズミたちですわね」
ラピスは動じることなく、冷徹な目を向けて腰のナイフを抜いた。
ルビーを背後に庇い、スカートの裾を軽く翻して重心を低く落とす。
「わたくしは『灰色の月』の看板娘、ラピスですわ! トカゲの餌になる趣味など、これっぽっちも持ち合わせておりませんの!」
「捕らえろ! 手足の骨を折ってでも連れて行くぞ!」
男の号令とともに、信徒たちが一斉に飛びかかってきた。
放たれた漆黒の鎖が、生き物のようにうねりながらラピスの四肢を絡め取ろうと迫る。
「ルビー、しゃがんでいなさい!」
ラピスの足元に風が渦巻いた。
宙を舞うように身を捻り、飛来する鎖の軌道を紙一重で躱しながら敵の懐へと踏み込む。
シュッ、と空気を切り裂く音。
ラピスのナイフの柄頭が、先頭の信徒の鎖骨を正確に打ち抜いた。間髪入れずに放たれた回し蹴りが、二人目の顎を跳ね上げて意識を刈り取る。刃を使わずに急所だけを叩く、制圧の連撃。
だが、敵の数は多く、結界の内部を満たす黒い瘴気がじわじわと空間を侵食していた。
「くっ……!」
背後から放たれた鎖の一本が、ラピスの左手首に巻きついた。
黒い火花が散り、ラピスが苦悶の声を漏らして膝をつきかける。
「捕らえたぞ! 縛り上げろ!」
残る刺客たちが一斉に間合いを詰めた。
その瞬間。
「グルルルァッ!!」
ラピスの背後から、ルビーが鋭い跳躍で飛び出した。
鎖を引いていた男の右腕に容赦なく噛みつき、全体重をかけて引き倒す。
「ぎゃああああっ!? なんだこの獣人は!?」
「ラピスお姉ちゃんに触るなァッ!!」
ルビーが暴れ、刺客たちの隊列が一瞬崩れる。
だが、別の男が抜刀した短剣をルビーの背中へと振り下ろそうとした。
俺はルナの前に立ちふさがったまま、隔離結界の外壁へと右手を突き出した。
黒い霧を束ねている術式の継ぎ目――わずか一点の結節点を捉え、指先を弾く。
「《終焉の理》」
パリンッ!
硬質な音が響き、結界の壁に亀裂が走った。
継ぎ目を失った黒い霧が一気に吹き飛び、市場の陽光と喧騒が雪崩れ込んでくる。
俺は地を蹴り、ルビーへ刃を振り下ろそうとしていた男の懐へ滑り込んだ。
男の胸元で黒く光っていた拘束具の留め具へ指先を添え、その核だけを解体する。
パチン、と乾いた音がして拘束具が煙を吹き、魔力の逆流を受けた男が白目を剥いて前のめりに崩れ落ちた。
「アルス様!」
「店長!」
「二人とも、よく保ったな」
俺はラピスの手首に巻きついていた鎖を掴み、その留め金を外して放り捨てた。
結界を外側から破られ、前衛を崩された刺客たちは、恐怖で完全に動きを止めていた。
「ば、結界の要を……一撃で!?」
「退け! 撤退だ!」
「逃がすか」
俺は身を翻し、逃走を図ろうとした大柄の首謀者の背後へ回り込んだ。
男の膝裏を正確に蹴り倒し、石畳へ組み伏せて右腕を固める。
「ぐあああっ!」
男が石畳に顔を押し付けられ、呻き声を上げた。
市場の裏手、荷積み用の薄暗い倉庫の陰。
駆けつけた衛兵団が周囲の信徒を取り押さえる中、俺は地面に組み伏せた男を見下ろしていた。
「誰の指示でラピスを狙った。答えろ」
「ふ、ふざけるな……! 貴様らに話すことなど何もない!」
男は奥歯に仕込んだ毒薬を噛み砕こうとした。
俺は男の顎の骨を押さえ、奥歯の表面に仕込まれていた小さな毒袋の結合部へ指先を触れさせ、その袋の構造だけを《終焉の理》で消去した。
「……な、何……!? 毒が」
「質問に答えろ。なぜラピスを狙った」
男は逃げ場を失い、苦悶に顔を歪めながら言葉を絞り出した。
「……大蛇の封印を解くには……高貴なる血がいるのだ!」
「王族の血なら、誰でもいいのか?」
「……違う!」
男は憎悪に満ちた目でラピスを睨みつけた。
「初代の封印に使われた……『本物の巫女』が失われた今……! 同じ古代の魔導に反応する血で、代用するしかなかったのだ!」
「……巫女だと?」
俺は男の腕をさらに締め上げた。
「その巫女とは誰のことだ。初代の封印に何があった」
「知るものか……! そんな記録、数千年の昔に神官どもが隠蔽したわ! だが灰満月の夜、大蛇は必ず目覚める!」
それ以上の情報は引き出せないと判断し、俺は男の首筋に手刀を当てて意識を刈り取った。
「……アルス様」
ラピスが近づいてくる。その表情は強張っていた。
「あの男……本物の巫女と言っていましたわね。わたくしは、ただの間に合わせだと」
「ああ」
俺は男の懐を探り、荷物を取り出した。
数枚の銀貨と小瓶のほかに、油布で包まれた一枚の古い羊皮紙が出てきた。
広げてみる。
そこに描かれていたのは、複雑に入り組んだ地下水路の図面だった。
ただの水路図ではない。『祭壇搬入用経路』と記され、かつて俺たちがルナを見つけたあの地下遺構のさらに下――未踏の最深層へと続く隠し通路が、赤いインクで生々しくなぞられていた。
「これは……地下の最深層へ入るための作戦資料か」
「……アルス」
背後から、ルナが静かに歩み寄ってきた。
彼女の冷たい指先が、図面の最下層に描かれた奇妙な幾何学模様――最深部の祭壇の位置で、ぴたりと止まった。
「……ここ。……呼んでる。わたし、帰らなきゃいけない場所」
ルナの白銀の瞳が、深く濁った影を宿していた。
羊皮紙を握る俺の手の中で、乾いた紙の擦れる音が小さく響いた。




