第22話:闇夜に蠢く、鱗の影
夜の帳が下りた『灰色の月』のリビングには、ランプの淡い橙色の光が落ちていた。
木製の作業机の上。俺は、夕方に路地の赤煉瓦から紙に写し取ってきた擦り出しを広げ、その隣に酒場から借りてきた木製ジョッキを並べた。
「……さて。少し整理してみるか」
俺が呟くと、夕食の片付けを終えたラピスとルビーが身を乗り出してきた。ルナも静かに隣へ腰を下ろし、机の上の二つの図案を見つめている。
木製ジョッキの側面に彫られているのは、この街『リンドヴルム』の正統な紋章だ。
街を守護するとされる大蛇の姿。その尾は外側へと力強く流れ、天を仰ぐ頭部には二本の角が生えている。街の守りを象徴する意匠だ。
対して、路地の壁に残されていた黒い煤の印。
「……やっぱり、気味が悪いですわね」
ラピスが腕を組み、眉をひそめた。
「一見すると同じ蛇の絵に見えますけれど……線の引き方が全く違いますわ。尾を外に逃がすどころか、自らの口で力任せに噛み砕いて、丸い輪を閉じていますもの」
「それだけじゃない」
俺は紙に写した頭部を指先でなぞった。
「牙の数が四本ある。それに、内側へ巻き込むように描かれているな。守護の蛇じゃない。自らの尾を喰らって閉じる、別の意匠だ」
「……この形」
ルナが小さく息を漏らした。白銀の瞳が、黒い円環を見つめたまま微かに揺れている。
「ずっと昔……地下にいた時、この印を胸につけた人たちを見たことがある気がするの。……冷たい目をしていた」
「ルナ、無理に思い出さなくていい」
俺はルナの肩に手を置き、紙に残る煤の痕跡に指先を触れさせた。
《終焉の理》の感覚を研ぎ澄まし、微細な構造を読み取る。
ただの炭の粉ではない。微弱ながら、周囲の魔力を吸着して蓄積するような術式の断片が、煤の中に練り込まれていた。
昼間、時計塔の鐘が乱れた瞬間に通行人の意識が飛んだ怪異。おそらく、この印が触媒となって空間の魔力を吸い上げた際の余波だ。
「店長、あのね」
ルビーが机の端に顎を乗せ、赤毛の耳をぴくぴくと揺らした。
「あの壁の煤から、匂いがしたよ。乾いた薬草と……下水路の奥にあるヘドロみたいな、すえた油の匂い」
「追えるか?」
「うん。街の南側……スラム街の奥の方から、風に乗って同じ薬草の匂いが流れてきてる。近づけば、もっとはっきり辿れると思う!」
「よし。行ってみるか。何が起きているのか、元を確かめる」
「わたくしも行きますわ!」
ラピスが腰のナイフを確かめ、青い瞳を引き締めた。
「……わたしも、行く。自分の目で見ておきたいの」
ルナの真剣な眼差しを受け、俺は頷いた。
四人で防寒のマントを羽織り、『灰色の月』の裏口から夜の闇へと滑り出した。
リンドヴルムの南端に広がるスラム街は、夜になると街灯の光すら届かない暗がりへと沈んでいた。
崩れかけた木造家屋がひしめき、足元のぬかるみからは湿った泥の匂いが立ち込めている。
「こっち……匂いが濃くなってきた」
先頭を行くルビーが、低い姿勢でぬかるんだ路地を縫うように進む。
「……足音、気をつけてね。あの角の先、見張りが二人いる。呼吸が深くて、立っている姿勢が普通の酔っ払いじゃない」
ルビーの囁きに、俺たちは崩れたレンガ塀の陰に身を潜めた。
数十メートル先、朽ち果てた石造りの廃倉庫の入り口に、黒いローブを深く被った二人の人影が立っていた。手には短槍を握り、周囲の闇を警戒している。
「……ラピス、音を立てずにいけるか」
「お任せくださいまし」
ラピスは足元に薄い風を纏わせると、影を滑るように音もなく間合いを詰めた。
見張りの男たちが振り向く隙すらなかった。
二つの影の間を風がすり抜けた瞬間、ラピスのナイフの柄頭が男たちの顎と首筋を的確に強打した。
ドサリ、と音を立てて男たちが崩れ落ちる。刃を使わない、洗練された制圧。
俺たちは素早く駆け寄り、気絶した見張りを木箱の陰へと押し込んだ。
廃倉庫の重い鉄扉には、内側から頑丈な鉄の閂が掛けられていた。
俺は扉の隙間に指先を添え、閂を支えている受け金具の接合部へ《終焉の理》を滑り込ませた。
パリン。
金具の芯だけを解体すると、閂が外れ、扉は何の抵抗もなく静かに開いた。
奥には、地下へと続く冷たい石階段が口を開けていた。階段の奥深くから、低く重苦しい詠唱の響きが這い上がってくる。
「……降りるぞ。気配を殺せ」
俺たちは階段の壁沿いに、静かに地下へと降り立った。
地下に広がっていたのは、かつての鉱石貯蔵庫を改築したと思われる巨大な円形空間だった。
湿った石壁に松明が掲げられ、揺れる火影が空間を薄暗く照らし出している。
部屋の中央には、黒いローブを纏った数十人の信徒たちが車座になって跪き、両手を掲げて祈りを捧げていた。
そして、その中央に設えられた黒石の祭壇の上。
そこには、昼間に牧場で拾ったものと同じ、鈍い光を放つ巨大な『鱗』が置かれていた。 その隣で、禍々しい闇を孕んだ黒い水晶が、脈打つように赤黒い燐光を放っている。
祭壇の前に立つ、蛇の仮面を被った男――祭祀長らしき人物が、両手を広げて朗々とした声を張り上げた。
「刻は満ちつつある、同胞たちよ!」
男の声が、ドーム状の天井に反響する。
「数千年の長きにわたり、このリンドヴルムを縛り続けてきた偽りの檻は間もなく砕け散る! 天に『灰満月』が昇るその夜、深き底に眠る主が解き放たれるのだ!」
信徒たちから、低く唸るような歓声が漏れる。
「帝国の友より賜りしこの触媒は、すでに街の魔力を蓄えつつある! あとは満月の夜、大地と星を繋ぐ正統なる血肉をこの祭壇へ捧げ、最後の鍵とすればよい!」
「……っ」
俺の隣で、ルナが苦しげに胸元を押さえた。
祭壇の黒い水晶から放たれる波導に当てられたのか、彼女の身体が微かに強張り、白銀の瞳が揺れる。
「ルナ、無理をするな」
俺がルナを庇おうとした、その時だった。
「……何者だ!」
祭祀長が突如として顔を跳ね上げ、通路の暗がりを指差した。
信徒たちが一斉にざわめき、数十の視線がこちらへ向けられる。男が黒木の杖を掲げ、祭壇の水晶へ魔力を注ぎ込もうとした。
「侵入者を屠れ! 儀式の糧にしてくれる!」
信徒たちが槍を構えて殺到しかけた――次の刹那だった。
シュバッ!
暗闇を切り裂く、一筋の鋭い風切り音が響いた。
魔法の光弾ではない。ただ圧倒的な速度と膂力で振るわれた、純粋な斬撃。
パリンッ!
硬質な音が鳴り響き、祭壇の上で赤黒く光っていた巨大な水晶が、寸分の狂いもなく真っ二つに叩き割られて床へ転がり落ちた。
「な……!?」
祭祀長が絶句する中、天井近くの梁の上から、一人の影が音もなく石床へと降り立った。
翻る銀色のマント。
右目には無骨な革の眼帯。漆黒の長剣を提げたその男は、冷え切った左目だけで信徒たちを見下ろしていた。
「ひ……帝国の、『断罪者』ヴィクトール!?」
「なぜだ! 我らは上層部と約定を交わしたはずだぞ!」
祭祀長が後ずさりながら叫ぶ。
だが、ヴィクトールは答えることもなく、ただ一歩踏み出して剣を一閃させた。風圧だけで先頭の信徒数人がまとめて弾き飛ばされ、壁際へ激突する。
「アルス様、あの男ですわ!」
ラピスが身構える。
「……おい、ここでやり合う気はない。混乱に乗じて抜けるぞ」
教団の信徒たちが煙幕を投げ、地下は乱戦状態へと陥っていた。ヴィクトールの狙いが教団の妨害にあるなら、巻き添えを食らう筋合いはない。
俺たちは素早く階段を駆け上がり、崩れた裏口から路地裏へと脱出した。
冷たい夜風が吹き抜ける、スラム街の空き地。
瓦礫の陰で足を止めた俺たちの背後に、乾いた軍靴の足音が落ちた。
「……逃げ足だけは早いな、イレギュラー」
振り返ると、瓦礫の上にヴィクトールが立っていた。手にした長剣を鞘へと納め、残された左目をこちらへ向けている。
「ヴィクトール!」
ラピスがナイフを構えかけたが、俺はその肩を手で制した。
「よせ、ラピス。……戦闘の気配はない」
「フ……亡国の処刑姫か」
ヴィクトールは短く鼻を鳴らした。
「貴様らを捕縛しに来たわけではない。……少し、忠告に来ただけだ」
「忠告だと? 帝国の魔力供給網から切り離されたあんたが、何の用だ」
「あの狂信者ども……『ウロボロス教団』に物資と触媒を流しているのは、帝国皇帝の意志ではない。帝国内部で皇帝の失脚を企む、軍閥の反乱派閥だ」
ヴィクトールは淡々と告げた。
「奴らの狙いは、この街の地下に封じられた大蛇を解き放ち、西部一帯に大規模な混乱を引き起こすことだ。……私はその反乱分子の摘発を命じられているに過ぎん」
「……あのおじさん、さっきの信徒たちにすごく怒ってる」
ルナが小さく囁き、ルビーも鼻をひくつかせながら耳を伏せた。
「店長、あの人、嘘をついて焦ってるような嫌な汗の匂いはしないよ」
二人の観察を受け、俺はポケットに手を突っ込んだ。
「事情は分かった。だが、あんたの身内の掃除なら、俺たちの生活を巻き込むなよ」
「巻き込まれまいとするなら、その小娘を隠しておくことだな」
ヴィクトールは視線をラピスへ向けた。
「教団は、大蛇の封印を引き裂くための生贄を求めている。本来の鍵となる生贄が手に入らない奴らは、古代の魔導に反応する血を持つ者を狙っている。……エデルガルド王家の血を引く、ラピス。貴様の首だ」
ラピスの息が止まった。青い瞳が大きく見開かれる。
「わたくしを……大蛇の生贄に……?」
「かつて貴様自身が見ただろう。エデルガルドの血統が、この街の古代機構に反応したはずだ。……奴らが次に狙うのは貴様だ。精々、首を大事にしておくことだな」
ヴィクトールはそれだけ言い捨てると、マントを翻し、夜の闇の中へ姿を消した。
瓦礫の間に、冷たい風が吹き抜けていく。
「……アルス様」
ラピスが震える声で俺の袖を掴んだ。
「また……わたくしのせいで、皆さんを巻き込んでしまいますわ」
「馬鹿を言うな」
俺はラピスの額を軽く指先で小突いた。
「言ったはずだぞ。エデルガルドの過去なんて関係ない。お前は『灰色の月』の看板娘だ。お前がいなくなったら、明日からの朝飯の肉を誰が騒ぎながら食うんだよ」
「い、痛いですわ……! こんな時にまでお肉の話なんて!」
ラピスは額を押さえながら抗議したが、その瞳からは先ほどの暗い影が消えていた。
「ラピスお姉ちゃん、大丈夫だよ! 怪しい奴が来たら、わたしが足音を聞きつけて知らせるから!」
「……うん。ラピスは、わたしが守るよ」
ルビーとルナが寄り添い、ラピスは照れくさそうに「頼りにしてますわ」と小さく笑った。
だが、俺の頭の中には、ヴィクトールの言葉が引っかかっていた。
本来の鍵となる生贄。
ラピスが代用品に過ぎないのだとすれば。
数千年前、大蛇をその身に縫い止められた、真の生贄とは誰なのか。
俺は隣に立つルナの、ひやりと冷えた横顔を見つめた。
見上げる空の雲の切れ間には、昨夜よりもさらに輪郭の濁った灰色の月が、静かに浮かんでいた。




