第21話:不吉な牧場と、尾を喰らう蛇
リンドヴルムの西門を抜け、緩やかな起伏が続く草原地帯を馬車で揺られること半刻。
普段なら青々とした牧草が風に波打ち、のんびりとした家畜の群れが見えるはずの丘陵は、妙に重苦しい沈黙に包まれていた。
馬車を降りた俺たちの前に広がっていたのは、広大な放牧地だった。
太い丸太で組まれた頑丈な柵が何重にも張り巡らされ、その中心には赤煉瓦造りの牛舎が建っている。だが、近づくにつれて鼻を突くはずの乾草や家畜特有の匂いは薄く、代わりに晩秋の底冷えするような湿った冷気が足元から這い上がってきた。
「……ここだ、アルス殿」
牧場主のゴードンが、擦り切れた革手袋を握り締め、青ざめた顔で柵の一角を指差した。
「昨日の夕方、確かに俺の手で閂をかけ、三頭の乳牛をこの中へ入れたんだ。今朝一番で見に来たら……影も形もなくなっていた。柵はどこも折れてねえ。扉の鍵もかかったままだった」
「外へ逃げ出した痕跡は?」
「敷地中を見回ったが、乗り越えた跡も下を掘り返した穴もねえ。まるで煙のように消えちまったんだ」
俺は柵の木肌に触れた。
太さ二十センチはある樫の丸太だ。外側から力任せに破られた形跡もなければ、魔導による溶解や切断の痕もない。
「アルス様、周囲に魔力の残滓はありませんわね」
ラピスが柵に沿って歩きながら、青い瞳を細めた。
「転移魔法が使われたなら特有の焦げた匂いが残るはずですけれど、完全に無臭ですわ。魔導具を使った気配すらありません」
「ああ。魔法使いの仕業じゃないな」
俺は柵を跨ぎ、牛たちが囲われていた草地へと足を踏み入れた。
湿った黒土の上には、無数の蹄の跡が残っている。昨日の夕方まで牛たちが草を食んでいた証拠だ。
だが、その蹄の跡を断ち切るように――奇妙な痕跡が地面に刻まれていた。
幅二メートル近くある、巨大な一本の溝。
車輪の轍のような直線ではなく、何か重いものが地表をうねりながら通り抜けたような、緩やかな円弧を描いている。
溝の通った場所の牧草は押し潰されているだけでなく、葉先から瑞々しさが抜け落ち、まるで数ヶ月放置された枯草のように灰色に変色してカサカサに干からびていた。
「……なんだ、これ」
俺は眉をひそめ、溝の底の土を指先ですくい上げた。
冷たい。氷水に浸けられていたかのような冷気が、指の腹から染み込んでくる。表面には無色透明の粘り気のある液体が薄く膜を張っていた。
「ルビー。何か嗅ぎ分けられるか」
俺が背後へ声をかけると、ルビーがおずおずと草地へ歩み寄ってきた。
腰を落とし、小さな鼻先を溝の土へと近づける。
その瞬間だった。
ピクッ、とルビーの獣耳が跳ね上がった。
全身の毛が逆立ち、尻尾を股の間に巻き込んで、激しく後ずさる。
「ひっ……!」
ルビーは喉の奥から短い悲鳴を漏らし、その場にへたり込んだ。両手で頭を抱え、ガタガタと目に見えて震え出している。
「ルビー!? どうしましたの!?」
ラピスが素早く駆け寄り、ルビーの肩を抱きしめた。
ルビーの顔からは完全に血の気が引いていた。
「……いきもの……じゃない」
ルビーは震える声で、絞り出すように呟いた。
「獣の匂いじゃない……人間の匂いでもない……。すっごく冷たくて、重くて……泥と、底なしの暗い沼の底から湧き出してきたみたいな……全部を飲み込んで腐らせちゃうような匂い」
「こいつがここまで怯えるのは、初めてだな」
俺はルビーの頭に手を置き、軽く撫でた。
「下がってろ、ルビー。ラピス、頼む」
「ええ、任せてくださいまし」
ラピスがルビーを抱き起こし、柵の外へと連れ出す。ルナが心配そうにルビーの手を握り、寄り添っていた。
俺は再び溝へと向き直った。
問題は、この溝を残すほどの巨大な何かが、どこから入ってどこへ消えたかだ。柵は無傷で、地面に這い出した大穴もない。
灰に変色した草の根元、粘液が溜まった土の窪みに、鈍い光を反射する破片が落ちているのを見つけた。
指先で拾い上げる。
大人の手のひらほどの大きさがある、半透明の薄片だった。硬質だがガラスのように脆くはなく、革のような弾力がある。表面には細かな網目模様が刻まれていた。
――鱗だ。
魚や普通のトカゲのものじゃない。もし普通の爬虫類と同じ比率なら、本体は相当な巨体になる。
「……さて、少し中身を見せてもらうか」
俺は右手の指先をその鱗に添え、《終焉の理》を意識の奥で静かに立ち上げた。
普段なら、触れた物質の層や魔力の結合の癖くらいは読み取れる。どこに力を通せば解体できるか、その構造の輪郭が掴めるはずだった。
だが。
カチリ、と頭の奥で硬いものが空回りするような感覚があった。
「……っ?」
指先を伝わってくる感触が、掴みどころなく滑り落ちていく。
構造を捉えようとしても、まるで底のない水たまりに指を突っ込んだかのように、こちらの意識が吸い取られていくような違和感。
壊せないのではない。そもそも、解析するための手応えそのものが掴めないのだ。
「……力を、吸ってるのか?」
指を離すと、鱗は冷たい感触を残したまま、ただの不気味な破片として手のひらに転がっていた。
「アルス……?」
柵の外から、ルナが静かにこちらを見つめていた。その白銀の瞳が、俺の手の中の鱗に注がれている。
「……どうした、ルナ」
「……その、かけら。……胸の奥が、ぎゅって痛むの。冷たくて、暗い何かが、ずっと下の方で息をしてるみたいで」
ルナの手が、無意識に自分の胸元へと触れていた。
昨夜のあの子守唄と、蠢いていた影。そして今日のこの鱗。嫌な繋がりが、頭の隅で形を作り始めていた。
「アルス殿……何かわかったかい?」
おずおずと近づいてきたゴードンに、俺は立ち上がって答えた。
「牛が自力で逃げた線はない。何か大型のものがここを通った痕跡がある。……ただ、普通の魔獣とは思えないな」
「ば、化物……!? このリンドヴルムの周りに、そんな奴が出たことなんてねえぞ」
「ゴードンさん。この街の古い歴史や、土地の伝承に詳しい奴はいないか? 地下や大昔の出来事について記録を持っている人間だ」
「古い歴史、ねえ……。俺ら百姓にゃあさっぱりだが……そういや、街外れの東区に、古びた本ばかり集めてる変わり者の爺さんがいたな。『白樺堂』って屋号の店だ。店主のシメオンの爺さんは偏屈だが、大昔の記録を山ほど抱え込んでるって噂だ」
シメオン。
その名を覚え、俺は鱗を布に包んで懐へと収めた。
リンドヴルムの東区は、商業区の喧騒から取り残された古い区画だった。
石畳の隙間からは枯草が顔を出し、両脇に迫る石造りの長屋はどれも煤けた壁を傾かせている。頭上を渡り廊下が覆い、昼間だというのに路地裏は薄暗かった。
「……本当にこんな場所にお店がありますの? 湿った埃と黴の匂いしかしませんわよ」
ラピスが鼻をつまみ、不満そうに銀灰色の髪を揺らす。
「店長、あそこ。古い紙と乾いた薬草の匂いがする」
鼻を利かせるルビーの案内で進むと、半地下へと続く階段の先に、文字の掠れた木製看板が掲げられていた。
『白樺堂』
立て付けの悪い木扉を押し開けると、低く錆びた真鍮鈴が鈍い音を立てた。
店内には、四方を天井まで埋め尽くす書架が並んでいる。革装丁の古書や羊皮紙の束が無秩序に積み上げられ、独特の乾いた紙の匂いと防虫用の強い香草の香りが充満していた。
「……勝手に入ってくるな。うちは冷やかしの相手をする暇はない」
奥の仕切り板の向こうから、擦れた低い声が返ってきた。
現れたのは、仕立ての古い黒の上着を羽織った痩身の老人だった。乱れた白髪の下にある双眸は深く窪み、鋭い警戒の色を宿している。
「あなたがシメオンさんだな。牧場のゴードンから聞いてきた。この街の古い伝承について、少し教えてもらいたいんだが」
「ゴードンだと? あの牛飼いの与太話に付き合う気はない。帰れ」
シメオンは鼻を鳴らし、手元の書物に視線を落とした。
俺は引き下がらず、懐から麻布に包んだ破片を取り出し、カウンターの埃っぽい板の上へ静かに置いた。
「牧場で家畜が消えた現場に残されていたものだ。……この街には、地下から何かが出るという古い噂があるらしいな。これに見覚えはないか」
布をめくり、半透明の鱗を晒す。
シメオンの指先が、ぴくりと止まった。老人は眉間に深い皺を寄せ、視線だけをその鱗へと落とす。
「……ただのトカゲの抜け殻だろう。下水に迷い込んだ野良魔獣の仕業だ。大蛇のお伽噺など、本気で信じているのかね」
「……大蛇?」
俺が問い返すと、シメオンの表情が一瞬、強張った。
「俺は、大蛇なんて一言も言っていないが」
「……ッ」
老人は舌打ちし、忌々しそうに顔を背けた。
「言いがかりをつけるな。このリンドヴルムは何千年も前の要塞都市だ。地盤の底にトカゲが一匹埋まっていようが、昔話に過ぎん。とっとと出ていけ」
その時だった。
「……おじいさん」
俺の背後から、ルナが一歩前に出た。
白銀のドレスの裾を揺らし、透き通るような瞳でシメオンの顔をじっと見つめる。
「……この街の、下。……とても深いところで、冷たいものが息をしてる。……あなた、それを知ってるの?」
シメオンが顔を上げ、目の前に立つルナの姿を――その銀白の髪、陶器のように白い肌、深い光を湛えた瞳を直視した。
ガタッ!
シメオンの腕から、抱えられていた分厚い本が滑り落ち、硬い床板を派手に叩いた。
老人の呼吸が乱れ、血の気が完全に引いた顔で、幽霊でも見るかのようにルナを見開いた瞳で凝視している。
「な……お、前は」
唇をわなわなと震わせ、喉の奥で言葉を詰まらせる老人。
ただの驚きじゃない。こいつは、ルナを知っている。
「……シメオンさん?」
俺が低く呼びかけると、シメオンは弾かれたように我に返った。
床に落ちた本を荒々しく拾い上げると、顔を背け、激しく咳払いをする。
「……帰れと言ったはずだ! 今の私には、お前たちに話すことなど何一つない!」
「待ちなさいな! ルナが何か失礼なことを言いましたこと!?」
ラピスが食ってかかろうとしたが、シメオンは耳を貸さず、奥の扉を乱暴に閉めて暗がりへと引っ込んでしまった。
残されたのは、埃っぽい静寂と、冷え切った鱗の破片だけだった。
「……手応えだけは十分だな」
俺は鱗を布に包み直した。シメオンは確実に何かを知っている。
白樺堂を出て、商業区の大通りへと戻る頃には、空は薄い茜色に染まり始めていた。
「まったく、偏屈なおじいさんでしたわね! 人の顔を見て本を落とすなんて、失礼極まりありませんわ!」
ラピスが怒りながらも、視線は大通りの屋台街へと注がれている。
「店長、あの角の露店! クルミのパンの匂いがする!」
「はいはい。歩き疲れた分の補給だな」
俺が銅貨を放ると、ラピスとルビーは露店へと駆け寄っていった。
「……アルス」
隣を歩くルナが、そっと俺の袖を引いた。
「……あのおじいさん、とても悲しい目をしていた。怒っていたんじゃなくて、ずっと昔から、誰かに怯えているみたいだった」
「……そうだな。敵意というよりは、罪悪感に近い顔だった」
ルナの頭を軽く撫でてやると、彼女は小さく微笑んだ。だが、その指先は昼間よりも少しだけ冷たく感じられた。
その時だった。
ゴオォン……と。
夕刻の定時でもないのに、街の中央にそびえる時計塔の鐘が、低く重い音を一度だけ響かせた。
「……?」
俺が顔を上げた瞬間、大気の密度がわずかに揺らいだ。
時計塔の文字盤の黒い長針が、火花を散らすようにギギッと軋み、数秒間だけ不自然に逆回転して元の位置へ跳ね戻る。
通りを行き交っていた買い物客たちが、一斉に足を止めた。
露店の店主も、歩いていた衛兵も、ふと我に返ったように首を傾げる。
「あれ……? 俺、今何を買いに来たんだっけ?」
「おや、もうこんな時間かい? 少しぼんやりしていたようだね」
数秒で街の喧騒は何事もなかったかのように戻ったが、通りを満たす空気には微かな違和感が漂っていた。
「アルス様……? 今、時計塔の鐘が変な鳴り方をしましたわね」
パンをくわえたラピスが怪訝そうに見上げる。
俺は人混みを抜け、路地の赤煉瓦の壁へと近づいた。
古い壁の表面。
煤のような黒い焦げ跡が、円を描くように焼き付けられていた。
自らの尾を口にくわえ込み、丸く閉じられた巨大な蛇の姿。
「……ウロボロス」
「ウロボロス……? 何ですの、それ」
ラピスが覗き込んでくる。
「前の世界で、自らの尾を喰らう蛇の図柄をそう呼んだんだ。終わりと始まり、永遠の循環を意味する」
「街の酒場で使われている守護の大蛇とは、線の引き方が違いますわね……。あちらは街を守る印ですけれど、これは……自らを喰らい尽くそうとしているみたいで、気味が悪いですわ」
冷たい夕風が路地を吹き抜けていく。
牧場の不可解な痕跡、古書店主の失言と動揺、そして壁に焼き付いた尾を喰らう蛇の印。
見上げれば、薄暮の空に浮かぶ月は、薄墨を流したように輪郭をぼやけさせ、鉛色の鈍い光を街へと落とし始めていた。




