第20話:食い意地と、奇妙な胸騒ぎ
厚切りの豚肉をじっくり燻製にした極太のソーセージが四本、熱気の中で皮を張り詰めさせ、今まさに弾けんばかりに肉汁を滲ませていた。
隣のコンロでは、薪の火力を微調整しながら、半熟の目玉焼きを四人分焼き上げている最中だ。
その時、廊下の奥からタタタッと爪先で床を蹴る鋭い足音が響いてきた。
「店長! 奥のフライパンの左端、一番太くて皮の張りがいいやつ! あれが一番脂が乗ってる匂いがする!」
赤毛の間から覗く獣耳をピンと立て、尻尾をブンブンと振りながら台所に滑り込んできたのはルビーだった。
俺のお下がりのシャツを器用にベルトで留めた姿で、フライパンの縁へ鼻先をひくつかせながら身を乗り出してくる。
「待ちなさいなルビー! 長幼の序というものを知りませんこと!? 一番大きく脂の乗ったメインディッシュは、この『灰色の月』の筆頭看板娘であるわたくしの取り分と相場が決まっておりますのよ!」
寝癖のついた銀灰色の髪を振り乱し、胸元の開いたネグリジェのままドタドタと階段を駆け下りてきたラピスが、目を血走らせてルビーの前に立ちはだかった。
「ラピスお姉ちゃん、油断したのが悪いんだよ。匂いの強い獲物は足の速い狩人が手に入れるのが掟なんだから!」
「誰が狩人ですの! わたくしの胃袋は底なしの迷宮、横取りなど万死に値しますわ! アルス様、今すぐその極上の一本をわたくしの皿へ!」
「……朝から騒ぐな。お前らの胃袋の争奪戦に付き合わされるフライパンの身にもなれ」
俺はため息をつきながら、鉄のフライ返しを器用に振るった。太い一本を半分の長さに斜め一刀両断し、二人の皿へそれぞれ均等に分かち落とす。
「はい、これで文句ないだろ」
「半分!? アルス様、慈悲という言葉をご存じありませんの!?」
「あーあ、せっかくの一本丸かじりが……でも、半分でも美味しそう!」
不服そうに頬を膨らませるラピスと、即座にフォークを構えて目を輝かせるルビー。
二人が席へ雪崩れ込むのと入れ違いに、白銀のドレスの裾をかすかに揺らしながら、ルナが音もなく台所に姿を現した。
「……おはよう、アルス。いい匂い」
「おはよう、ルナ。実体化してから、朝の起き抜けの顔色がずいぶん良くなったな」
「……うん。お腹が空いて目が覚めるって、すごく不思議で……嬉しい」
ルナは小柄な身体を椅子に収めると、俺が差し出したスープの湯気にそっと両手をかざして目を細めた。数千年の眠りから覚め、生身の身体を取り戻して数週間。
かつては触れることすら叶わなかった朝食の温もりを、彼女は今、一口一口確かめるように楽しんでいた。
「ルナちゃん、このパンに目玉焼きの黄身を乗せて食べるとすっごく美味しいよ!」
「ルビー、抜け駆けは許しませんわ! ルナ、こっちの香草バターも塗りなさいな!」
賑やかな声が、木造のリビングに満ちていく。
どうしてうちには、朝飯一つ静かに食えない連中ばかり集まるのか。呆れ半分、安堵半分で、俺は自分の分のパンを口に運んだ。
朝食を終えて店先の看板を磨いていたところへ、息を切らした初老の男が駆け込んできた。
「た、助けてくれ、便利屋さん! ギルドへ行く時間もないんだ!」
大通りの一角で織物問屋を営む商人だった。聞けば、今日の昼までに貴族街へ納品するための代金が入った大金庫の『親鍵』を、朝の仕入れの最中にどこかへ落としてしまったという。
「街の大通りから中央広場までの間だとは思うんだが……今朝は人通りが多くて、どこを探しても見つからん! もし誰かに拾われて開けられでもしたら、ウチの店はおしまいだ!」
男は額の汗を拭いながら、震える手で前払いの銀貨を差し出してきた。
「大通りから広場までか。石畳の隙間や側溝に落ちていれば、目視で見つけるのは骨だな」
俺が顎を撫でていると、横からルビーがツンと鼻を鳴らした。
「店長、わたし行けるよ! そのおじさんの手の匂い、覚えたから!」
「よし、ルビーの初陣といこうか。ラピス、ルナ、散歩がてら付き合え」
「お使いの手間が省けるなら喜んでお供しますわ! 帰りに屋台の焼き菓子を買ってくださるなら、ですけれど!」
四人で大通りへと繰り出す。
朝の市場は露店がひしめき、香辛料や魚、馬の汗の匂いが入り混じって混沌を極めていた。
普通の人間なら立ち止まるだけで鼻が麻痺しそうな雑踏の中、ルビーは腰を落とし、路面に鼻先を近づけながら素早く歩を進めていく。
「こっち……おじさんが焦って走った時の、酸っぱい汗の匂いが点々と続いてる」
ルビーは人混みを器用にすり抜け、青果店の角を曲がった。
大通りの真ん中にある排水溝の鉄格子の前で、ピタリと匂いが途切れる。
「……ここだ。隙間の奥、匂いが落ちてる」
ルビーは耳を澄ませ、格子の暗がりを覗き込んだ。
「……微かに金属の擦れる音がする。泥の上に落ちきってない」
ルビーは細い指先を鉄格子の隙間へ差し入れ、爪を引っ掛けるようにして器用に引き上げた。
カチャリ、と澄んだ音が響く。
「あった! これだよね!」
引き上げられたルビーの手のひらの上には、商人の刻印が打たれた真鍮製の重厚な鍵が乗っていた。泥に落ちる寸前、石の出っ張りに引っかかっていたのだ。
「お見事ですわ、ルビー! 食べ物の匂いを嗅ぎ分けるだけではありませんのね!」
「えへへ、ラピスお姉ちゃんに褒められた!」
ルビーが嬉しそうに尻尾を振ると、ラピスは得意げに腕を組みながら、その赤毛の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
駆けつけてきた商人は鍵を受け取るなり涙を流して感謝し、約束以上の謝礼金を手渡していった。
「初仕事の成功祝いだ。好きなものを一つずつ選べ」
俺が懐の硬貨を鳴らすと、ラピスとルビーが示し合わせたように肉屋の串焼き屋台へ突撃していった。
「店長、あのタレがたっぷり塗ってあるやつ!」
「わたくしはあっちの塩焼きの特大サイズを二本ですわ!」
二人が屋台の親父と賑やかにやり取りしている間、俺とルナは少し離れた噴水の縁に腰を下ろしていた。
陽光を浴びるルナの横顔は穏やかそのものだったが、彼女の視線は時折、遠くの青空へと向けられていた。
ふと、近くのベンチに座っていた露天商の老人たちの会話が風に乗って耳に届いた。
「おい、昨夜の月を見たか? なんだか妙に輪郭が滲んで、灰色っぽく煤けて見えたんだが」
「ああ、気味が悪いな。……そういえば、古老たちが言ってたぜ。数十年に一度、空の月が完全に光を失って濁る『灰満月』の周期が近いんじゃないかってな」
「灰満月ねえ……。あの月が出ると、街の結界が緩んで地下から悪霊が這い出てくるなんて迷信があったが、まさかな」
老人たちは笑い飛ばして煙管の煙をくゆらせた。
迷信の類だろう。そう思いながらも、「灰満月」という妙な単語だけは、探偵としての引っかかりを残して頭の片隅に沈んだ。
「アルス、これ、すごく美味しいよ」
屋台から戻ってきたルナが、手渡された串焼きの肉片を小さな口で食み、嬉しそうに目を細めた。
その日の夜。
日中の騒がしさが嘘のように、『灰色の月』の屋内は深い静寂に包まれていた。
ルビーとラピスは満腹のまま早々に自分たちの部屋で寝息を立てている。俺は一階の作業机で、明日の買い出し用の帳簿にペンを走らせていた。
ふと、二階から微かな音が降りてきた。
足音ではない。
歌声だった。
低く、透き通った、だがどこか胸の奥を冷たく締め付けるような旋律。
言葉の意味は聞き取れない。この大陸の共通語でも、エデルガルドの言葉でもない、もっと古く、滑らかな響きを持った節回しだった。
俺はペンを置き、足音を忍ばせて二階の廊下へと上がった。
月明かりが差し込む窓辺。
ルナが一人、窓枠に腰掛け、夜空を見上げながら静かに喉を震わせていた。
その横顔には表情がない。眠っているわけでも、起きているわけでもないような、虚ろな瞳。
彼女が口ずさむ子守唄のような旋律に合わせて、奇妙な現象が起きていた。
机の上に置かれたランプの炎が、風もないのに細かく波打ち、壁に落ちたルナの影が、まるで意思を持った巨大な生き物のように、黒々と蠢いて輪郭を広げていたのだ。
「……ルナ?」
俺が声をかけると、歌声がピタリと止まった。
ランプの炎が元の静けさに戻り、壁の影も一瞬でただの少女の輪郭へと縮む。
「……あ。アルス」
ルナはハッとしたように瞬きをし、ゆっくりとこちらを振り返った。いつもの柔らかい瞳に戻っている。
「起きてたのか。……さっきの、何の歌だ?」
「歌……? わたし、何か歌ってた?」
ルナは不思議そうに小首を傾げた。自分の喉から音が漏れていたことすら自覚していない様子だった。
「……分からない。でも、なんだか……すごく遠くから、風に乗って聴こえてきた気がして。胸が、少しだけ冷たくなって」
ルナが自分の胸元にそっと手を当てる。
俺はその指先に触れた。
冷たい。
実体化して以来、人並みの体温を持っていたはずの彼女の指先が、まるで磨かれた石のようにひやりと冷え切っていた。
「……身体が冷えてるな。夜風に当たりすぎだ」
俺は椅子にかけてあった厚手の毛布を取ってルナの肩に羽織らせた。だが、そんな他愛のない理由で納得していないことは、俺自身が一番よく分かっていた。
「……うん。ありがとう、アルス」
ルナは毛布にくるまり、小さく微笑んだ。
窓の外を見上げると、夜空に浮かぶ月は、普段なら白銀に輝いているはずの輪郭が薄墨を流したように滲み、昼間に聞いた老人たちの噂通り、鈍い灰色に染まり始めていた。
翌朝。
昨夜の妙な胸騒ぎを振り払うように、俺が朝食の湯を沸かしていた、その時だった。
カランカランッ!!
玄関の真鍮ベルが、壊れんばかりの勢いでけたたましく鳴り響いた。
扉を蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、長靴を泥だらけにした屈強な男だった。郊外で大規模な牧場を営む、顔見知りの牧場主だ。
「アルス殿! 頼む、今すぐ来てくれ!」
男は血走った目を見開き、息を乱しながら俺の腕に縋り付いてきた。
「昨夜、うちの牧場で……頑丈な柵の中にいた牛が三頭、丸ごと消えちまったんだ! 柵は壊れてねえ、血の一滴も、争った声も残ってねえ! まるで最初から存在しなかったみたいに、跡形もなく消えちまったんだ!」
冷えた朝の空気の中、男の絶叫が店内に重く響き渡った。




