第19話:便利屋の矜持
木箱の陰で小さく丸まり、震える少女を見下ろしながら、俺は息を吐いた。
「おい、ラピス。さっき屋台で買った干し肉、まだ持ってるか」
「……持っていますけれど。まさか、わたくしの貴重な非常食を差し出す気ですの?」
「後で二倍にして返す。少し貸せ」
不満げに頬を膨らませるラピスから干し肉の包みを受け取り、俺は少女の目線に合わせてその場にしゃがみ込んだ。
「ほら、食え。俺たちはあの貴族の使いじゃない」
少女はビクッと耳を伏せたが、鼻先をかすめた香ばしい肉の匂いには抗えなかったらしい。
恐る恐る伸ばされた細い手が肉をひったくるように掴むと、野生動物のように夢中で齧りつき始めた。
まともな食事を何日も与えられていなかったのだろう。
「……わたし、戻らない。あそこ、痛い……暗い」
肉を喉へ押し込み、少女が掠れた声で呟いた。その大きな瞳には、明確な絶望と怯えが張り付いている。
「安心してくださいまし!」
ラピスが少女を庇うように前に進み出た。
「あんな香水豚のところへ、あなたを返すもんですか。わたくしたちが絶対に連れ戻させたりいたしませんわ!」
「……でもアルス、どうするの?」
ルナが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あの貴族の人、きっと怒るよね」
「怒るだろうな。だが、あの男が依頼書に書いたのは、あくまで『逃げ出した赤毛の犬の捜索』だ。なら、その通りにしてやるまでさ」
俺は立ち上がり、路地の出口へ視線を向けた。
「ラピス、さっき市場で言っていた冗談を借りるぞ。水で洗い落とせる赤い植物染料を調達して、そこらの野良犬を一匹借りてくる。……それと、衛兵隊の詰め所に一枚、情報を流しておく」
数時間後。
ヒルデブラント卿の豪邸の応接室には、怒声が響き渡っていた。
「ふざけるなァッ!! なんだこの薄汚い雑種は!」
激昂する貴族の足元で、赤い植物染料を軽く毛先に塗られたおとなしい野良犬が、迷惑そうに欠伸を噛み殺している。
俺は涼しい顔を崩さず、平然と応じた。
「何を怒っておられるのですか。ご指定の通り、赤毛で、まだ小さく、首輪をつけた犬を探し出して連れてまいりましたよ」
「舐めているのか貴様ら! 私のポチはこんな臭い犬ではない! もっと肌が白くて、愛らしい!」
そこまで喚き散らしたところで、男は自分の口を両手で塞いだ。
俺は目を細め、静かに言葉を継いだ。
「……おや。肌が白い、ですか。犬の話をしているはずでしたよね」
「あ、当たり前だ!」
「おかしいですね。この首輪、裏路地に落ちていたものですが」
俺はポケットから、路地裏で回収した革の首輪を取り出し、テーブルの上へ放り出した。
「内側には、人間の爪で無理やり引きちぎられたような傷跡と、鮮やかな赤毛が挟まっていた。……この街の法律では、二十年以上前に獣人の奴隷所有は厳格に禁止されているはずです。ましてや、犬の首輪をつけて地下に監禁するなど、発覚すれば貴族籍の剥奪どころか全財産没収の重罪ですよ」
ヒルデブラント卿の顔から、さっと血の気が引いた。
「貴様……脅す気か……! ギルド無所属の便利屋風情が、偉そうな口を!」
「脅しじゃありませんよ。事実を述べているだけです」
俺は一歩、男の前に進み出た。
「俺たちは街の厄介事を引き受ける便利屋ですが、人間を家畜扱いする違法稼業の後始末まで手伝うほど、看板を安売りした覚えはありませんでね。……指定された特徴の『犬』は見つかりました。だが、あんたの言う『ポチ』なる獣人の子供など、俺たちは見ていません」
「な……」
「納得がいかないなら、今すぐ衛兵を呼んでこの首輪の持ち主を捜査させても構いませんが……どうされますか」
ヒルデブラント卿はわなわなと唇を震わせ、ソファーに深く沈み込んだ。
この男にとって、違法奴隷の囲い込みが公になることは、破滅を意味する。
「……っ、チィッ! もういい、その犬を連れてさっさと失せろ! 二度と私の前に顔を出すな!」
男は忌々しそうに吐き捨て、革袋をテーブルに投げつけた。前払いとして提示されていた手付の金貨数枚だ。
「毎度あり」
俺は金貨を回収し、おとなしく座っていた野良犬の頭を撫でて立ち上がった。
もちろん、犬をこんな男の屋敷に置いていく気など毛頭ない。連れて外へ出た後、染料を水できれいに洗い流し、市場で買った肉をひと切れ食べさせてから、元の広場へと帰してやった。
夕方、『灰色の月』へ戻ると、洗面所から石鹸の清潔な香りと共に湯気が漂ってきた。
扉が開き、ラピスとルナに連れられて、きれいに身体を洗われた少女がおずおずとリビングへ入ってくる。
泥と埃に塗れていた姿からは見違えるようだった。
艶やかな赤毛の頭にはぴょこんと立った獣耳があり、俺のお下がりの古いシャツをだぼだぼに着こなしている。首元の腫れには、ラピスが丁寧に軟膏を塗ってやったようだった。
「……あ、あの」
「さっぱりしたな。怪我の具合はどうだ」
「……平気、です。あの……わたし」
「安心しろ。あの屋敷の男が、お前を探すことは二度とない」
俺の言葉に、少女はへなへなとその場に座り込んだ。張り詰めていた糸が切れたように、大きな瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「……よかった。わたし、もう、あそこに戻らなくていいんだ」
「当然ですわ!」
ラピスが得意げに腕を組み、ルナが少女の背中を優しくさすった。
「行く当てはあるのか」
俺が尋ねると、少女は首を横に振った。
「……ない、です。ずっと昔に親とはぐれて……あの人に捕まってから、ずっと暗い地下に閉じ込められてたから」
「そうか。……なら、行く場所が見つかるまで、しばらくここにいろ。二階に空き部屋がある」
「えっ……? 置いてくれるの?」
「タダ飯を食わせるほど余裕はないんでね。気になるなら、飯の後片付けと掃除くらい手伝え」
「やる! わたし、掃除もお皿洗いもいっぱいする!」
少女が必死に頷く。その勢いに、俺は小さく口角を上げた。
「お前、耳と鼻は利くか?」
「……うん。遠くの足音もよく聞こえるし……人がすごく怖がってたり、強く緊張してる時の、ツンとした汗の匂いもわかるよ」
嘘そのものを嗅ぎ分ける魔法のような力ではないが、相手の心理的な動揺や周囲の異変を察知する感覚としては、これ以上ないほど頼もしい。
「十分だな。……ところで、名前は何て呼べばいい」
「……名前、ないの。ずっと『ポチ』って呼ばれてたから……あの名前は、嫌」
「そうだな」
俺は少し考え、少女の鮮やかな赤髪に視線をやった。
「ルビー。お前のその髪の色にちなんで、今日からそう名乗れ」
「ルビー」
少女はその響きを口の中で転がし、やがて、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「うん! わたし、ルビー! よろしくね、ご主人様!」
「ご主人様はやめろ」
俺は即座に訂正した。
「その呼び方をされると、さっき首輪を外した意味がなくなる。……店長か、アルスでいい」
「うんっ! 店長!」
一時間後、『灰色の月』の丸テーブルには、湯気を立てる肉料理が並べられていた。
ヒルデブラントから回収した手付金と、衛兵隊へ違法拘禁の情報を流したことで出た正規の報奨金。その一部を使って、市場で手に入れた肉と野菜を焼き上げたのだ。
「さあ、冷めないうちに食え」
俺がルビーの取り皿に、一番柔らかく火の通った肉を取り分けてやる。
ルビーはフォークをぎこちなく握り、一口かじった瞬間、頭の上の獣耳をピンと直立させた。
「……っ! おいしい……! すごく、あったかい!」
「ふふん、アルス様の料理の腕だけは確かですわよ! ……ほら、これも食べなさいな」
ラピスはそう言いながら、自分の皿から香草焼きのソーセージを一本、ルビーの皿へひょいと移してやった。
「ラピスお姉ちゃん、いいの?」
「わたくしは少食ですからね、特別に分けて差し上げますわ!」
「どこが少食だ。さっきまで四本食べるって騒いでただろ」
「余計なことを言わないでくださいまし!」
ルナも微笑みながら、温かい野菜スープの器をルビーの前にそっと置いた。
「いっぱい食べて、元気を出してね、ルビーちゃん」
「……うんっ、うんっ!」
ルビーは涙を拭いながら、口いっぱいに肉を頬張っている。
賑やかな声が、暖炉の火が爆ぜるリビングを満たしていく。
「アルス様! ルビーが美味しそうに食べているのを見たら、わたくしも急にお腹が空いてきましたわ! おかわりを焼いてくださいまし!」
「自分で焼け。皿の上のパンがまだ残ってるだろ」
「冷たいパンより焼きたてのお肉ですわー!」
騒がしい食卓の喧騒の中、俺は静かに自分のカップを傾けた。
迷子たちの集まるこの場所で、明日からもまた、泥臭い便利屋の日々が続いていく。




