第18話:ペット探しと、冷たい首輪
「アルス様! な、何をなさるんですの! 酔っ払ってもやっていいことと悪いことがありますわよ!」
俺の隣で、ラピスがひっくり返ったような声を上げた。
青い瞳をまん丸に見開き、俺と、向かいの席で固まっている老人を交互に見つめている。
「ひ、ひぃっ! お、お助けを! 私はただ、家の片付けをお願いしたかっただけで!」
老人は両手を上げ、椅子から転げ落ちそうになりながら、いかにも善良そうな顔を恐怖に歪ませてみせた。
だが、俺の目はすでに酒の霧を払い、冷徹に男の挙動を捉えていた。小刀を抜くような野蛮な真似はしない。
ただ、老人がテーブルの下に滑り込ませようとしていた右手を、上から静かに、だが逃げ場のない力で押さえつけた。
「アルス様、おじいさんが怯えていますわ!」
「……ラピス、少し静かにしてろ」
俺は視線を逸らさず、穏やかな口調を崩さずに問いかけた。
「なあ、爺さん。さっき『唇が読めるから会話ができる』と言ったな」
「は、はい……耳が聞こえないもので、長年の癖でして……」
「普通の人なら、周りが騒がしくなれば相手に声を届けるために自然と声が大きくなる。……だが、耳が聞こえないあんたが、なぜ『今、急に店が騒がしくなった』と判断できたんだ?」
老人の口元が、わずかに引き攣った。
「表の喧嘩は建物の外だ。壁の向こうだからあんたの視界には入っていない。唇を読んでいるだけなら会話の内容は分かっても、周囲の騒音レベルまでは分からないはずだ。……なのにあんたは、外でガラスが割れて店中がざわついた瞬間に合わせて、俺たちの耳に届くよう正確に声のボリュームを上げた。耳が聞こえる奴が無意識にやる調整だ」
「そ、それは……たまたま、私が声を張ったタイミングが重なっただけで」
「偶然にしちゃあ出来すぎだな。耳が聞こえないふりをして警戒を解くのは、古典的な手口だ。……昨日、帝国の工作員に襲われたばかりの俺たちの前に、そんな手合いが都合よく現れるなんてな。――誰の差し金だ?」
その瞬間、老人の温厚そうな瞳から光が消え、冷たい獲物を狙う獣のそれに変わった。
「……ちっ、酔っ払いのくせに目ざとい」
老人は押さえられていない左手で、懐から仕込み杖の細剣を電光石火の速さで抜き放とうとした。
「アルス様、危ない!」
ラピスが身を乗り出すより早く、俺は老人の手元へ右手をかざした。
細剣の柄と刀身を繋いでいる、小さな真鍮の留め金――その構造の結合部だけを狙い、《終焉の理》を極小出力で走らせる。
パリン。
乾いた音が響いた瞬間、留め金を失った銀色の細身の刀身が、チャリンと音を立てて床へ滑り落ちた。手元に残ったのは、ただの空っぽの鞘だけだ。
「なっ!?」
老人が虚脱に目を見開いた刹那、俺は躊躇なく男の首筋へ手刀を叩き込んだ。
ドサリと、老人の身体がテーブルの上に崩れ落ちる。
「アルス、様」
「安心しろ、殺しちゃいない。……衛兵に突き出すぞ」
振り返ると、ルナが皿に突っ伏したまま、
「むにゃむにゃ……もう食べられない……なら、それ私にちょうだい」
と幸せそうに寝息を立てていた。この騒ぎも、彼女にとってはただの子守唄に過ぎなかったらしい。
翌朝。
捕らえた老人を衛兵隊に引き渡した翌日の『灰色の月』のリビングは、朝から重苦しい空気に包まれていた。
「……アルス殿、昨夜のあの老人ですがね」
駆け込んできた顔見知りの衛兵が、渋い顔で報告を落としていった。
「今朝一番で見回りに行ったら、独房の中で首を吊って息絶えていました。隠し持っていた極細の紐を使ったようです」
「……そうか」
俺は淹れたての珈琲を一口啜った。ひどく苦く感じられ、砂糖を二杯追加で落とす。
どうやら帝国という組織は、捕まった末端を回収する気すら最初から持ち合わせていないらしい。口を割る前に自ら命を絶つよう、徹底的に仕込まれていたのだ。
「……暗い顔をしていても腹は減る。ラピス、ルナ、市場へ行くぞ」
「賛成ですわ! 朝から美味しいものを食べて、嫌なことは全部吹き飛ばしてしまいましょう!」
重い空気を振り払うように、俺たちはリンドヴルムの大通りへと繰り出した。
市場は朝の活気に満ち溢れていた。焼きたての平焼きパンの香ばしい匂い、露天商たちの威勢のいい掛け声。
ラピスは手首ほどもある太いソーセージに目を輝かせ、ルナは実体化した足で石畳を踏みしめながら、珍しそうにあちこちの露店を眺めている。
小一時間ほど歩き回り、昨夜の嫌な後味をようやく忘れかけた頃。
家へ戻ってきた俺たちの視界に、妙な光景が飛び込んできた。
『灰色の月』の玄関前で、仕立ての良い上着を着た男が、ドアノブに手を伸ばしては建付けの遊びに阻まれ、首を傾げながら立ち尽くしていたのだ。
「……な、なんだこの家は。鍵穴がどこにも見当たらんぞ」
「何かご用ですか。うちの玄関は少しばかり頑固でね」
俺が後ろから声をかけると、男はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。
「あ、あんたがここの便利屋か! 探したぞ。我が主、ヒルデブラント卿がお屋敷でお呼びだ」
案内されたのは、街の高級住宅街にそびえ立つ豪奢な邸宅だった。
通された応接室には、きつい香水の匂いを漂わせた肥満体の男が、革張りのソファにふんぞり返っていた。
「お前たちが、最近噂の便利屋か。……まあいい、ちょうどいい使い走りだ」
ヒルデブラント卿は、俺たちを値踏みするように見下ろしてきた。
「ご依頼の内容をお伺いできますか」
「うちの可愛い『ポチ』が逃げ出してしまってな。人に慣れておらず、気性が荒い。見つけ出して連れ戻してくれたら、金貨十枚を支払おう」
「ポチ、ですか。犬ですかな」
「そうだ。綺麗な赤毛の雌犬だ。首輪をつけている。多少手荒に扱っても構わん、傷つけずに連れ戻せ」
金貨十枚。ドブさらい数ヶ月分に相当する大金だ。
隣でラピスが「お肉……!」と目を輝かせている。
俺は怪訝に思いながらも、犬の特徴と逃げ出した方角を聞き、屋敷を辞去した。
だが、街中をどれほど歩き回っても、赤毛の犬の目撃情報は一向に出てこなかった。
「……アルス、いないよ」
ルナが目を閉じ、街の外郭に漂う動物たちの気配を探りながら首を横に振った。
「城壁の近くに野良犬はいっぱいいるけど……赤い毛の、首輪をつけた犬の気配はどこにもない」
「おかしいですわね。首輪をつけた高価そうな犬なら、市場の誰かが見かけていてもおかしくありませんのに」
俺たちは人通りの少ない裏路地へと足を向けた。
埃っぽい地面に視線を落としながら歩いていると、崩れかけたレンガ塀の根元に、奇妙な痕跡が残されているのが目に入った。
「……おい、これを見ろ」
湿った土の上に残されていたのは、四つ足の獣の足跡ではなかった。
小さく、指先の長い――二足歩行の、裸足の足跡。
そしてそのすぐ傍らには、力任せに引きちぎられた頑丈な革の首輪が落ちていた。
内側の留め具には、細い爪で激しく引っ掻いたような生々しい傷跡と、挟み込まれた数本の鮮やかな赤毛が残っていた。
「これ……犬の毛じゃありませんわ」
首輪を拾い上げたラピスが、眉をひそめて呟いた。
「犬系獣人の毛並みですわね。……それに、この爪痕。人間が道具を外そうとして暴れた跡ですわ」
「……獣人か」
俺の呟きに、ラピスが表情を険しくさせた。
「この国では、二十年以上前に獣人の奴隷所有は法律で固く禁じられたはずですわ。あの貴族……まさか、獣人の子供を違法に囲い、あまつさえ犬の名前をつけて飼い殺していたんじゃありませんこと!?」
「人に慣れていない、手荒に扱っても構わない……そういうことか」
点と点が繋がり、胸の奥に冷たい怒りが湧き上がった。
俺たちは足跡の続く先を追い、路地裏の奥、ゴミ捨て場に放置されていた木箱の陰へと辿り着いた。
「……ひっ」
木箱の隙間にうずくまっていたのは、ボロボロの布を纏った、赤毛の獣人の少女だった。
頭の上には小さな獣耳が生え、首元には外されたばかりの首輪の擦れ痕が、痛々しく赤く腫れ上がっている。
少女は俺たちの姿を見るなり、激しく身体を震わせ、小さな両手で頭を抱えて丸まった。
見つけた。
探偵としての依頼は、行方不明の対象の発見だ。
だが、この怯えきった少女を、あの傲慢な貴族の手元へ突き返すことが、果たして俺のやるべき仕事なのか。
俺は木箱の前に立ち尽くし、隣に立つラピスとルナの顔を見つめた。
……さて。どう始末をつけてやろうか。




