第17話:泥酔の月
静かな生活を誓ったはずの朝食の記憶は、昼過ぎにはすでに怪しくなっていた。
どうしてこうなったのか、元探偵としての論理的思考回路を総動員して推論してみたが、導き出された答えは、
「ラピスの食欲は、どんな理屈をも軽々と飛び越える」
という身も蓋もない事実だけだった。
朝食のついでに始まった「景気付けの一杯」が、気づけば街中の屋台と酒場を巡る大遠征へと変貌していたのだ。
この世界ではエールと呼ぶのが正しいらしいが、酔っ払った俺の脳内ではもう全部ビールで統一されていた。すでに視界は適正な解像度を失っている。
「アルス様ぁぁ! 見てください、この鶏の丸焼き! 骨の周りのお肉が『食べて、私を食べて、ラピス様!』って合唱してますわよ! 待ってなさい、今すぐわたくしの胃袋という名の聖域に埋葬して差し上げますわーーっ!」
銀灰色の髪を振り乱しながら、ラピスが串焼きを片手に気炎を吐いている。
俺は木製ジョッキを高く掲げ、泡を浴びながら応じた。
「……っははは! いいぞラピス、徹底的に解体しろ! そもそもだな、鶏の骨格というのは美学そのものなんだ……。この手羽先の関節の可動域、計算され尽くした黄金比じゃないか!」
普段なら解体なんて物騒な言葉は使わないところだが、今は目の前にある肉の構造美に無駄な感動が止まらない。
ふと横を見れば、実体化したばかりの元・幽霊が、椅子の上でゆらゆらとステップを踏んでいた。
「あはは! 楽しい! 身体が重いのに、頭の中がふわふわしてる! これが酔っ払うっていう現象なのね! リンドヴルムのみんなー、聞こえてるー!? 今夜は無礼講よ! 街灯の光、ぜーんぶピンク色にしちゃおうかな!」
「こらルナ、街の照明で遊ぶな……あ、でも薄紅色くらいなら風情があっていいかもしれないな……」
俺の理性など、ジョッキの泡と一緒にとうの昔に消え去っていた。
夜も更け、酒場の喧騒がいよいよ混沌を極めてきた頃。
俺たちの丸テーブルの上には、文字通り山のような空皿とジョッキが積み上がっていた。
「……もう、入らぬ……ですわ……。わたくしの聖域が……破裂寸前です……」
ラピスはテーブルに突っ伏し、空のジョッキを枕にして唸っている。俺もまた、焦点の合わない目で天井を見上げていた。
「……ふぅ。天井が二つに見えるな。便利だ、部屋の広さが二倍になった気分だぞ……」
「アルス様、それただの泥酔ですわ」
ラピスの呆れ声を聞き流しながら、俺は宙に思考の糸を手繰ろうとして、自分の指で自分の鼻の頭を小突くという無様な失態を演じていた。
ルナはルナで、空いた木皿に頭を乗せようとしては、距離感が狂っているせいで何度も空振りを繰り返している。
「うふふ……アルス、自分の鼻、つついてる……。へたくそ、だね……」
その時、ラピスが千鳥足でふらりと立ち上がった。
彼女の視線の先――斜め向かいの壁際にある、薄暗い二人掛けの席。
そこに、仕立ての古い黒の上着を纏った一人の老人が静かに座っていた。
俺たちがどれほど騒ぎ、ルナが笑い、俺が鶏の骨格について熱弁を振るっていた間も、その老人は酒場の喧騒に紛れ、時折グラスの縁越しにこちらを眺めながら、静かに酒を口に運んでいたのだ。
ラピスは壁に手をつきながら、おぼつかない足取りでその席へと近づいていった。
元処刑役としての殺気など微塵もなく、ただ騒ぎすぎた看板娘としての微かな申し訳なさに突き動かされているようだった。
「……あ、あの……おじいさん……ひっく」
ラピスは老人の前で立ち止まり、そのまま床へ倒れ込みそうな勢いで深く頭を下げた。
「……お騒がせ、してしまいましたわ……。わたくしたち……ちょっと今日、楽しすぎて……声が大きすぎましたわよね」
老人はゆっくりとグラスを置き、顔を上げた。
深い皺の刻まれた温厚そうな顔に、穏やかな笑みを浮かべてラピスを見つめる。
「……ああ、大丈夫ですよ、お嬢さん」
老人は柔らかく、静かな声で言った。
「私は耳が聞こえないから、お気になさらず」
「耳が……聞こえない? なのに、どうしてわたくしの言ったことが分かりましたの?」
ラピスが目を丸くすると、老人は自分の口元を指先で軽く叩いてみせた。
「唇が読めるんですよ。皆さんの口の動きを見ていれば、何を話しているかは手に取るように分かります。……勝手にお三方の口元を読ませていただきましたが、便利屋を営まれているとか。私も近いうちに、何か依頼を頼もうかと考えていたところなんですよ。家の片付けなど、お願いできるのかな?」
「はいっ、喜んで! わたくしたち『灰色の月』は、報酬……あ、いえ、お肉さえいただければどんな雑用でも完璧にこなしますわ!」
ラピスが嬉しそうに胸を叩いた、その時だった。
ドガァンッ!!
表の大通りから、何かが激突する轟音と、窓ガラスが派手に割れる甲高い音が響き渡った。
「おいコラァ! どこ見て歩いてやがる!」
「あぁん!? てめぇこそ邪魔なんだよ!」
リンドヴルムの夜には日常茶飯事の、酔っ払い同士の殴り合いだ。
野次馬たちが一斉に立ち上がり、酒場の中までもが怒号とどよめきで一気に騒然となった。周囲の客たちが口々に叫び始め、店内の騒音レベルが跳ね上がる。
その耳をつんざくような喧騒の真ん中で。
「私の家はすぐ近くにある。……明日にでも伺いたいのだが、構わないかな!?」
老人が、さっきまでの静かな囁き声とは打って変わり、騒音を突き抜けるような、よく通る大きな声でラピスに話しかけた。
その瞬間だった。
酒のせいで澱んでいた俺の頭の中に、一本の冷たい線がスッと引かれた。
二重に見えていた天井の木目が、ピタリと一つに重なり合う。
俺はテーブルに置いていた空のジョッキを、コトンと静かに置いた。
千鳥足のラピスと、穏やかな笑みを貼り付けたままの老人。その二人の間へ、俺はゆっくりと歩み寄った。
「……爺さん」
「おや、ご主人かな?」
老人が優しげな目を向けてくる。
俺はその瞳の奥をじっと見据え、低く、乾いた声で切り出した。
「明日の予定を立てる前に、一つだけ確認させてくれ」
俺はカウンターに片肘をつき、静かに言葉を継いだ。
「あんた、本当に耳が聞こえないのか?」
老人の口元に浮かんでいた温厚な笑みが、ほんの一瞬、氷のように固まった。
表通りの喧騒と、ルナの楽しげな鼻歌が遠く響く中、俺は老人の胸ぐらを掴み、静かに問いを投げかけた。
「で、本当は何のご依頼だ?」




